クラークが社内でもう1人の花形記者に超聴覚を向けたのは、何となくの行為だった。珍しく早目に友人連れで帰って行く姿から、事件の匂いを嗅ぎ取ったなどという理由からではない。
「最近ね、夫と上手くいかないのよ」
エレベーターの中で聞こえたロイスの友人の声に、つい野次馬根性を刺激されたのかもしれないが、クラークとしてはたまたま小耳に挟んだと言いたい所だ。
「そうなの?仲が良さそうに見えたわよ」
「別に仲が悪いって訳じゃないんだけどね」
溜息がひとつ。憂いに満ちた友人の横顔に、ロイスは聞き手として視線を注いでいるのだろう。だけど?と静かに続きを促す言葉が聞こえた。
「何だか情熱が薄くなっているのよねえ。まあ新婚家庭みたいにはいかないって分かってるけど」
「確か大学時代から付き合っているんでしょ?」
ロイスが年数を指折り数える気配がする。それから感嘆の意の込もった口笛がひとつ、小さく彼女の口から零れていった。
「相手の事を良く理解している、ってのも問題なのかしら」
「安心するって言うか慣れの領域に入っちゃってるのよね。知らない事なんてもう全然ないから」
続いた溜息にロイスがこう言った。
「秘密や刺激って長い付き合いにこそ不可欠かもしれないわね」
「…という事らしいよ」
「何故それを私に言う」
ソファの後ろから顔を出すクラークに、ブルースの返答は冷たかった。彼の興味はもっぱら、膝の上の学術系雑誌とコーヒーに注がれている。夜という事もあって、ネクタイを解き眼鏡も取って寛いでいる鋼鉄の男は、それこそ長い付き合いの相手に唇を尖らせた。
とは言えこの態度は想定の範囲内。むしろこんな態度が想像してしまえる辺り、自分達もロイスの言っていたあれに当て嵌まるのかもしれない。
あれ。即ち、所謂ひとつの倦怠期に。
「まあ僕らの間柄に秘密を求めても、無理なんだろうな」
よいしょ、とブルースの肩に顎を乗せてクラークは言う。すかさず肩を落としたブルースのお蔭で、頭がずれて密着体勢はすぐ解除された。
怒りの声を上げていたかつてに比べ、現在のこれは喜ぶべきか悲しむべきか。どちらの感情も等分に混ぜて、ああ慣れたんだなあとクラークはつくづく思う。
「…無理とは?」
少し遠い目をしてしまったクラークだったが、ブルースの興味は引けたらしい。雑誌からちらりと視線が移る。
秘密への好奇心が強いのは何もロイスや自分のような記者ばかりではない。流石は世界一の探偵、そう来なくてはと、クラークは浮き立つ心を抑えて答えた。
「僕らにとって最大の秘密はお互いの正体だろう?…でもそれを秘密のままにしていたら」
喋る内にブルースの顔はクラークへと向き直っていく。照明の作る陰影で烏羽玉色を宿した瞳に、クラークの青が映り込んだ。
「こんな関係が築ける訳もない」
手品を見た子どものような、虚をつかれた表情がブルースの顔に浮かんだ。しかしそれも文字通り一瞬、瞼が動いてすぐ、いつもの隙を見せない峻厳さが整った顔を支配する。
「そうだろうな」
何を今更、と言わんばかりの声音で応じると、ブルースはまたその視線を雑誌の方へと戻してしまう。だが思考はクラークの方に行ったきりだと、続いて発せられた言葉が物語っていた。
「要するにお前は」
「うん?」
「私が素性を明かさない頃の方が良かった、とでも言いたい訳か?」
これにはクラークも不意を突かれた。
彼が本気で尋ねているのか、拗ねているのか、それともそう見せかけて意地悪をしているのか、真冬の冷えた空気を思わせる声音からは読み取れない。最大のヒントとなるだろう目も、相変わらず雑誌の堅い文章へと向けられたまま。顔の半分は今ではコーヒーの入ったカップに隠されている。
「…そうだなあ」
だからクラークは思い出していく。闇夜の騎士と出会った頃の事を。
ゴッサムといい彼といい、何もかもが新鮮であった。夜といささかの悪意を引き剥がし、何とかして謎の正体を掴みたいと感じていた。あの頃のような刺激は記者生活であってもなかなか味わえないに違いない。
「確かにあの頃の君はミステリアスでエキサイティングで――」
爆音を響かせる癖に、ゴッサムの夜に吸い込まれていくバットモービル。嘲笑で覗ける銀色の歯と合間って、何度本当は吸血鬼ではないかと疑った事か。
連絡して来たと思ったら頭ごなしの要求。腹を立てて捕まえても下手をすればクリプトナイト入り催涙スプレー。対話を望めば上流階級の婦人が失神しそうな罵詈雑言と、こちらは本当に失神し兼ねない拳が飛んで来る。
それらに増してぞっとさせられたのは、対峙する度に向けられる、殺気混じりの強烈な敵意。
「……そしてとてもバイオレンスだった」
胃の後ろが沸き立つような感覚に襲われながら、クラークはそう付け足した。
ブルースが振り返る。殊更ゆっくりした動作なのは恐らく、気まずさを押し隠す為のものだろう。
「……そうか」
コーヒーに砂糖が足りなかったのか、と思わせる声音で呟き、彼は再び雑誌に目を戻そうとする。だがクラークはとりあえず、その首に自分の両腕を絡みつかせる事で、ブルースの逃避を阻止した。
「おい」
「止めた」
額と額がくっ付くような距離でクラークは厳かに宣言する。ブルースは僅かに目を揺らした後、訝しげにきつく眉を顰めた。
「何だと?」
「やっぱり昔より今が良い。君に殴られるのを警戒するより、慣れを怖がる方がずっと健全な関係だろう?」
同意を求めてまじまじと見つめても、眉間の皺は浅くならない。
だがブルースはクラークを睨みながら、彼も気付かぬ繊細さで、手にしていたコーヒーを机に置いた。空いた片手がそっと、これまた微細な動きを示し、膝の上の雑誌をどける。
「クラーク、お前は愚か者だ」
「そうかい?」
「ああ」
力強く頷かれ、思わず両腕の力を緩めた鋼鉄の男の襟元を、かつてを思わせる力でブルースが掴む。
目を丸く開いたクラークだったが、その視界一杯に映るものは、かつてのものと良く似ていながら――親しみの込もったものだった。
「こんな不健全な関係につまらん健全性など持ち込むつもりか、ボーイスカウト?」
自分が彼の正体を知っているというのは、大きな間違いかもしれないとクラークは思う。
「持ち込みたくないならば、証明してみせろ」
昔と現在とが到底イコールで繋がりそうにない男は、内部に大いなる謎を秘めたまま、銀色の歯をちらりと見せて笑うのだった。