ヒーローと言えば聞こえは良いが、活躍するには大変な努力が要る。肉体の修練のみ行えば良いというものでもない。
ディックがバットケイブに初めて入った際、地下の洞窟はまさしく魔法の世界のようであった。
怪しげなライトを浴びた車の列に、同じく怪しげに点滅する巨大なコンピュータ。岸壁を掘って作った部屋の中には、矢張り怪しげな実験機器の類が所狭しと並んでいて、バットマンが呪文でも唱えればひとりでに動き出しそうな気がしたものだ。
――それがどうだよ。
バットモービルやバットスーツはきちんと磨かなければならない。綻びたロビンのスーツやケープも繕わなければいけない。ディックはまさか、サーカスで身に付けた裁縫技術を、こんな所で活かすとは思わなかった。
装備品を自分で補給する、と言えば聞こえは良いが、材料の取り寄せから危険な詰め替えまで全て自分達で行わなければならない。モービル磨き用の重たいバケツや、髑髏マークの描かれた箱を運びながら、ヒーローというきらきらしい単語に夢を抱けというのも無理な話であった。
ただ、ディックはサーカスにいた少年だ。輝かしい舞台の裏には血の滲むどころか、死をも覚悟するような辛さがあるという事を、五体に刻んで知っている。だからこそ、それを続けているブルースに尊敬を抱きこそすれ、幻滅する等という事は無かったのだ。
しかし、それでも、限界というものはある。
「ディック、遅いぞ」
薬品調合用の部屋に入り、バットスーツの上からサージカルマスクと、薄いビニール製手袋と、何より東洋の神秘さえも感じる真っ白なエプロンを着けたブルースを見た時は――ディックは「サイドキック辞めようかな」という言葉を考えざるを得なかった。
「そ、そんな格好を?あのブルースが?大真面目に?」
夜目にも鮮やかな青いタイツと隆起した肩が、耐え難いと言わんばかりにふるふると揺れる。涙を流しかねない彼の姿を横目に、ディックはむっと眉を寄せた。
「笑い事じゃないよ、クラーク。本気で僕は辞任を考えたんだから!」
「いや、笑うなと言う方が無理じゃないか!だってあの、あのブルースが、エプ」
ロン、まで言えずにクラークは腹を抱える。ビル最上階に設置された柵に乗り、落ちるかどうかという際どい位置にいる彼を、ディックは押してやろうかと考えた。押した所で落ちはすまいが、この笑いの勢いならそのまま地面とキスするかもしれない。それにしたって怪我とは無縁だろう。
気がかりなのは歩行者の巻き添えだ、と半ば真剣に地面を見下ろしていたディックへ、笑いを引きずりながらクラークが声を掛ける。
「でも君が羨ましいよディック。そんな希少価値の高いものが見られるだなんて」
「高くても全く嬉しくない!」
ディックは腕を組み、柵を踏みしめる。少年らしからぬ渋い仕草が似合ってしまう程、今宵の彼は精神的に疲弊していた。死ぬような怪我や鍛錬の方がまだましだ。
「大体タイツの上からがおかしいんだよ。タイツの上だよ!?」
「ははははは、だから面白いんじゃないか!」
「僕はブルースに面白さを求めてないの!」
嫌味な位に爽やかな笑いからディックは顔を背ける。出会った当初は振り仰ぎ見ていた彼の、意外過ぎる一面に、少年としては幻滅を隠せなかった。
ブルースはこんな風にクラークから大笑いされる存在であってはならない。もっと格好良くて、クールで、他者を一切受け付けないべきだ。普段は冷酷だの何だのと難癖付けがちなディックだが、今日ばかりは肩を怒らせそう反論したかった。
件のクラークとて、普段はケープたなびくブルースの姿を、何も言えずに眺めているではないか。あの裏側を見た時の衝撃がどれほどのものか。彼とこの辛さを共有したいような、しかしブルースの幻想を守ってやりたいような、ティーンのハートの天秤はぐらぐら揺れて、結局は前者に傾く。
「そんな事を言うけどクラーク」
「何だい?」
「実際に見てみてよ。全く、あれじゃあ百年の恋も冷めちゃうね」
「はは、なら余計に見てみたくなったな」
「…いいの?」
唇を尖らせそう問うディックに、クラークはこの上ない、と表現したくなるような笑顔で頷く。
「ああ!僕の場合は千年の恋だからいいんだよ」
「…って言われても数年間ちゃんとブルースのサイドキックやってクラークともお付き合いしてあげた俺って、凄くない?凄くない?」
「はいはい凄い凄い。僕に言わなかったらもっと凄かった」
サイドキック時代の思い出話をせがんだ当人は、ベッドの上でのた打ち回っているディックを放ってノートパソコンに向かう。
先日新たにロビンとなったばかりのティム・ドレイクは、流石に辞める事を考えはしなかったが、「とりあえず次のロビンにこの話はしないでおこう」と心に固く決意を抱くのだった。