I, Jason Todd

「君は名前を教えてくれないんだな」
 よりによって去り際に言うあたり、確信犯だ。
 茜色のケープを翻す直前、肩越しにブルースへやった視線も意味深だ。ヒーローと言うよりは相手の出方を窺っている記者の目じゃないか。
 一直線にケイブから、更にゴッサムからブルータイツが飛び去ってからも、背後にいるブルースは何も言わなかった。鋼鉄の男がその気になればどこからだろうと盗聴は出来る。  でも、こんなに長い間を空けるって事は、ブルースが僕に気を遣っているって事だろう。「私はあいつにお前との会話を聞かれたくないと思っているし、その為に最善の努力を払っている」って訳だ。
「ロビン」
 サイドキックとしての名前で呼ぶのもいい証拠だ。バレバレのアピールだけど、余り悪い気もしない。
 僕は振り返る。気のない声で、わざとらしく首を傾げて、何も気付いていない坊やみたいに答える。
「なに、ブルース?」
「誰かに対して、お前の素顔を明らかにした事は?」
「ある訳ないだろう?」
――止めていたのはあんたじゃないか。
 言いたかったけど、言わなかったのは僕も彼に気を遣ったからだ。最近ブルースと僕は微妙な関係になっている。これ以上に関係を荒立てたくはなかった。
 ロビンでいられない、なんて事になりたくなかった。
「そうか」
 ブルースは頷いて踵を返す。こつん、こつんと、珍しくブーツの音がケイブに鳴る。夜の王様のケープが見えなくなるまで、僕は溜め息を控えた。
 見上げても蝙蝠と、ケイブの果てしない暗闇が映るだけ。あの只中に突っ込んでいくだなんて、スーパーマンは勇気がある。その辺は認めてやってもいい。
 彼は余り自分の名前を守ろうとしない。ブルースだけならともかく、アルフレッドだって鋼鉄の男の本名を知っている。
 それはきっと、ケイブの闇に向かっていけるだけの力があるからだ。そして彼が、自分が何者であるか分かっているからだ。スーパーマン、クラーク・ケント、カル=エル――。
 これだけ沢山の名前と自分を、彼はきっちり把握して、そのどれに対しても恥じてはいない。ブルースもそうだ。ブルースの場合はただ、名前に伴って守らなければいけないものが多いから、夜色のケープで覆っているだけだ。
 だと言うのにこの僕、ジェイソン・トッドはどうだろう。
「……気分悪ぃ」
 もうじきかなり筋肉が付くぜ、とディックからお墨付きを頂いた腕を、僕はぶんと振り回す。今だって結構なものだ。大の男1人を殴って昏倒させられるし、軽々と投げる事だって出来る。
――でも、屋上から落ちていく男を、掴んで助ける事は出来ない。
 気持ちに纏わり付く重さを取る代わりに、僕はマスクを引き剥がす。
 ケイブの暗さが消えないように、きっとこの気持ち悪さも消えやしないんだと、そう思っていた。


「では待機していてくれ。もう1度言うが、くれぐれも――」
「分かってるよ。それより早く!」
 ブルースがむっつりと頷く。いつも通りの表情だ。砂漠だと言うのに汗1つ頬には流れていない。ゴッサムの王様はケープを翻し、砂丘を下っていく。
 彼の姿が見えなくなる前に、僕の我慢は限界に達していた。眼下の小屋に母がいるのだ。あの凶悪な道化師の手が届こうとしている所に。
 太陽ががんがん照り付ける。ゴッサムでは絶対に有り得ない強烈な日光だった。
 これに照らされて、僕は本当の僕を見付けたのに、また失い掛けている。ただ見ているだけだなんて出来る訳がなかった――ロビンにも、ジェイソン・トッドにもだ。
 僕はそのどちらにも恥じるような事をしたくなかった。
 跨っていたバイクのエンジンを入れる。ひとつ大きく身震いしてから、機械作りの馬は走る準備だといわんばかりに、ぶるぶると呼吸をし始めた。
――もし母さんをゴッサムに連れて帰られたら。
 その時はあの鋼鉄の男に、自分の名前を告げてやろう。
 僕はジェイソン・トッドだと。アフリカの砂漠で母さんを追い求め、見付け、守った男だと、高らかに言ってやろう。
 顔を上げれば雲ひとつない空と太陽が広がっている。ケイブの闇に挑む事は出来なくても、僕はまだ、あの空から逃れてはいない。
 グリップを強く握る。
 無数の砂粒を弾き飛ばしながら、僕は小屋に向かって駆け下りていった。

S「彼がロビンかい?」B「そうだ」というやり取りに、ああ超人正体を知らなかったんだ…と思い書きました。
間違っていたら申し訳ない。
a Death in the FamilyはJの字は勿論、ジョーカーとの戦いという意味でも名作です。
最終回直前〜最終話を見ているような気分だった。
しかし我が家ではよく消息不明になるTPBベスト3です。
今回はクローゼットの中から発見されました。

design : {neut}