ANSWERPHONE

 夜の顔を使わなくなった途端、昼の顔を繕う事も面倒になった。
 元から放蕩息子の姿は、有り余る時間と金に向けられる、好奇の視線をかわす為の代物に過ぎない。覆い隠すべきものが無いまま続けられる程、打ち込んだ訳でもなかった。

「何十年も被っていれば、仮面とて素顔と同じように感じましょう」

 だが往年のシェイクスピア俳優は受話器を置いてそう言う。電話の向こう側では今頃、めっきり遊び歩かなくなった大富豪に首を傾げているだろうか。それともパーティを破天荒な集まりにされなかった事へ、安堵しているかもしれない。
「何十年続けた所で、愛着の湧かない仮面もある」
 夕刊を捲りながらブルースは応じる。僅かながら室内に留まる黄昏のセピアが宵の濃紺から新聞の文字を救っていた。だが目を凝らしてすぐに、ソファの防御壁を破った溜息がブルースの耳朶へと入り込む。
「ですが、用無しと言わんばかりに捨てられるのは如何かと。お嫌であっても当分の間は付けておかねば、逆に怪しまれるのではありませんか?」
「引退日を発表した訳ではない。それに周囲が納得するようなきっかけはある、そうだろう?」
 ようやく新聞を伏せてブルースは振り返った。ややあってアルフレッドがゆっくりと、まるで毒でも飲み下すような顔で頷く。
 広間を埋め尽くすほど集まった、誕生日の祝い客の前でブルースは言ったのだ。もう自分も良い年だから、そろそろ落ち着かねばならないな、と――若い女優の腰を抱えながら。
 すわウェインの結婚かと騒ぎ立てられたが、その日を起点としてブルースは徐々に華やかな場所から身を引いていった。最近では結婚以外の様々な憶測が囁かれている。自分で広めたそれらの噂は社交界から身を置く言い訳となったばかりでなく、ゴッサムから消えたヒーローの姿を、一段と薄めるのにも役立った。
「もっと説得力のある相手の方が良かったかもしれないが」
「どうあっても失望を味わわせるお方でございますよ」
 アルフレッドの言葉にブルースは納得する。
 例の女優の割り切りは早く、結婚報道が静まってすぐ、別の男との付き合いが報道されていた。どちらも傷付かない点ではうってつけの相手であった。赤いドレスの似合う姿を思い出しつつ、ブルースは肩を竦めてみせる。
「散々怪しまれて、存在が忘れられる頃には出て行くよ」
「招待が途切れる頃にならぬようお気を付け下さい」
 ウェイン・エンタープライゼスがある以上、決してそんな事態は訪れまい。だがあらゆる名家の興亡を知り尽くしているようなアルフレッドの顔は、深く頷いてしまうだけの説得力がある。勿論だ、とブルースもついそう言い掛けた。
 が、不意に鳴った電話のベルがその答えを止める。アルフレッドが踵を返した。両親が健在だった頃と変わらぬ機敏さに感嘆しながら、ブルースは膝に置いてあった新聞を取った。すぐにベルは鳴り止み、アルフレッドの声音がBGMに代わる。
 重要な会議でも無い限り自分の予定表が埋まる事はあるまい。しかし紙面をそっと捲った所で、ブルースの安穏は打ち切られた。

「ケント様?」

 本を取り落とさなかったのは奇跡だと思う。
 ゆっくり首を巡らせば、アルフレッドが眉を寄せてこちらを見ていた。
 彼が、ウェイン邸を長年取り仕切り、いかなる事態にも完璧に対応してきたあの彼が――困惑している。
 ブルースはぐっと唇を噛んだ。受話器の向こうの耳には、刹那に乱れた自分の鼓動さえ届いているだろう。それが何よりの否定となると分かっていたが、ブルースは頭を横に振る。
 そして否の合図を受けたアルフレッドは常態を取り戻す。
「――生憎でございますが、ウェインはただ今留守にしております」
 それからの会話はすぐに終わった。
 静かに受話器を置いたアルフレッドは、今度は溜息を吐かない。窓の外、夕陽の名残も留めていない空を見つめて呟くだけだ。
「明日から1週間ほど留守になさるとの事でした」
「そうか」
 詳しく問う気にはならなかった。留守して行く場所がどこなのか、一面か世界情勢の欄を見ればすぐに分かる。そしてそこで彼が何をしたかも、数日後の新聞を見れば分かるだろう。
 新聞を机に置くとブルースは立ち上がった。
「アルフレッド、着信記録はいつものように」
「はい」
 すれ違い様の命令に短く頷き、彼は電話のボタンに指を掛ける。短く響く電子音から逃れるようにブルースは廊下へと足を踏み出した。



 戻った自室は既に夜の色をしていた。
 2度目の瞬きで家具が黒々と視界に浮かぶ。歩を受け止める絨毯は柔らかだと言うのに、暗い部屋は無人の墓所さながらだ。
 だがブルースは灯りでこの空気をかき消す事はしなかった。夜にしたまま長椅子へと腰掛ける。
 そうして全てが静まり返ると、再び電話のベルが響くような気がした。
 クラークがウェイン邸に電話を掛け始めて何年が経つだろう。昔は盗聴を恐れて控えていたし、もっと昔は別の方法が使われていた。もう1つの顔にオラクルやウオッチタワーを経由してか、或いは――

 ブルースはテラスに通じる窓へと目を向けた。

 長いカーテンに隠されて久しい窓。最後に開けたのがいつだったかは、クラークからの電話が始まった日と同様に覚えていない。だがブルースは、窓に鍵を掛けた日の事は覚えていた。緑の指輪を収めた鉛のケースを、胸のシンボルへと投げ付けた日だ。
 傷付いたグリーンアローを搬送していく担架の音や、上空を飛んでいるヘリコプターの唸り声まで思い出せる。
 どれだけ対立し派手に喧嘩をしても、窓の鍵を閉めた事だけは無かった。どれだけ長い間離れていても、開きっ放しの窓が自分達を繋げていた。
 だがあの日を境に、ブルースは自らの手で鍵を下ろした。殆ど使っていなかった鍵は錆付いてもおらず、呆気ないほど簡単に窓は閉まった。そしていかなる扉であろうと破って来た男は、今日に至るまで小さな鍵を破らずにいる。

 ウェイン邸に彼からの電話が鳴り始めたのは、それからの事だった。

 ブルースは出ない。聞くのはアルフレッドが告げる伝言と、たまさかに入っている録音のみだ。聞いた端から記録を消して、記憶を消せずに懊悩する。
 彼の予定を耳にして黙すのは、彼のしている事を肯定するのと同じだ。そう思いながらもブルースは電話に出ず、ひたすらアルフレッドに任せ続けた。彼も世界も自分が止められるものではないと、自分に言い聞かせて耐えた。
 もう掛けて来るなとも、もう止めてしまえとも言えずに、ただ時が過ぎていく。
 ブルースは静かに眉間を押さえた。どれだけ考えても、何をすればこの問題が解けるのか分からない。世界最高の探偵と謳われた頭脳は堂々巡りを続け、出て来る回答は常に“現状を維持せよ”だ。
 どこへ転んでも何かが終わる。その恐ろしさから、自分は未だに目を逸らし続けている。

「…未練がましい男だな」
 呟いた言葉は窓の外にも届いただろうか。

 夜風に揺れるケープの音がやがて遠ざかって行く。何十度となく見た姿を脳裏に描きながら、ブルースはいつまでも長椅子に腰掛けていた。

超人の事ですから毎回きっちり出張連絡入れてそうです。
自分は元気にやってるよ半分、止めてくれ半分くらいの分量で。
でもやっぱり超人の事ですから、後者は意識下に押し込んでそうです。

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