「ちょっと南極に行ってくる」
あれがアルフレッドへの最後の言葉にならねばいいと、ブルースは思った。
寒い。
さしたる大事ではないからと、耐寒用スーツを着て来なかったのがそもそもの敗因か。
いや、あれを着た所でこの寒さには耐え切れなかっただろう。そもそも純白のスーツは現在、バットプレーンともども轟々と音を立てて燃えているのだ。
事の始まりはJLA関連だ。
こんな生き方をしていると、“悪の組織”というものには例を挙げる暇もないほど遭遇してきている。そういった組織をJLAのメンバーともども壊滅させたのが、つい1週間前であった。
調べていくと、その組織は兵器倉庫を各大陸に1つは有しているという、活動範囲はそれなりに広い組織であった。もっとも支部ではなく倉庫であるから、鎮圧も警察レベルでどうにかなったのだが、念の為にメンバーの1人が鎮圧時には参加していた。
問題は、倉庫の最後の1つが南極にあるという事。
もう1つの問題は、それをブルースが知った時、たまたま他のメンバーは出払っていたという事。
もしかすると最大の問題は、ブルースがそこへ行く気になってしまった事、かもしれない。
1度ケイブに戻り、装備などを整えると、ブルースは「ちょっと南極に行ってくる」と言い残して出て行ってしまったのだ。
兵器倉庫で最も使用頻度が低く、単に使えない部品の寄せ集めのようなものであると、南極の兵器倉庫については書かれていた。恐らく押収した書類を鵜呑みにして、1人で出かけた自分が悪いのだ。
気付けば良かった。
そんな僻地に配置される人間はいないという事だけではなく。
ならば迎撃装置の1つや2つ、付いていてもおかしくないと。
そして気付くついでに警戒しても良かった筈だ。
接近していくバットプレーン目掛けて、ミサイルや銃弾の雨が降り注ぐ。尾翼をやられて墜落していく愛機から、ブルースは辛うじて脱出した。
愛機はきっちり兵器倉庫に墜落し、ついでに残っていた兵器類を誘爆してくれた。少なくとも兵器類の処分に手間は掛からなかった訳だ。あとは、あの中に人がいなかった事を願おう。
しかし寒い。
こういう時はフルフェイスのマスクが欲しくなる。ケープを手繰り寄せ顔中をすっぽり包んでみたものの、流石に南極だけあって冷気は容赦してくれなかった。歯の根が鳴る。
ウオッチタワーに向け伝言は残したものの、誰かが都合よくそれを見て助けてくれるとは限るまい。微かな幸運はそれくらいだが、生憎とブルースは楽観主義者ではなかった。
骨髄のあたりまで凍りそうな中を必死で歩き回る。壁も何もない所でじっとしていると、3分で凍死しそうだった。
視界は揺らぐがこんな時にも南極の太陽は輝いている。白一色に染まりそうな脳が活動し、そろそろ幻覚が見える頃かもしれないと、奇妙な冷静さでブルースに告げた。
例えば、この苛々するほど鮮やかな青空によく似たコスチューム姿の男とか。
例えば、純白の世界では目に痛いくらいな赤いケープとブーツを纏った男とか。
その男の助けを期待しているのか?と聞かれれば答えは半々だ。凍死から逃れられるならあの男であっても構わないが、あの男に無様な姿を見られるのは御免である。
――ならばどうしてあの男の姿が浮かんだのか?
「知った事か」
憎々しげな声はすぐ風にさらわれていく。
いい加減、寒さも感じなくなって来た。もし自分がここで死ねば、一体誰が嘆くのだろう。真っ先に浮かんだのが大泣きするジョーカーの姿だった。
「ああバッツ、最低のジョークだ!蝙蝠が南極で生きられないのは知っていただろうに!」
喚くな、と絶望の空を仰ぐジョーカーに告げておいてから、ブルースはひとつ首を振る。しかし鼓膜に貼り付いた高い声音はなかなか消えてくれず閉口した。
アルフレッドが悲しむだろう。そう思うと、少しだけ気力が湧いた。彼を悲しませる訳にはいかない。しかも遺言となる言葉があんなに呑気なものでは、自分のプライドが許さない。
しかしもし万が一ここで死んだら、せめて彼の枕元には化けて出てやらねば。「今まで世話になったな」などと告げなければ。
ここで死んだら、ああ、本当に、ジョーカーではないが、最低だ。
「本当だよ」
最低のジョークだ。
「ジョークにすらならないと思うね」
そうかもしれない、そうかも―――
「ブルース?大丈夫かい?」
「…お前か」
重たい目蓋を開くと、矢張り目に眩しい衣装の持ち主が立っていた。
「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
赤いケープがブルースを包んでいた。随分と間近な所にSのマークが見える。ブルースは束の間考え、そして、手を振り上げた。
「…だからこの抱き方をするなと言っただろう!下ろせ!」
「嫌だ」
どこかの令嬢のような抱かれ方は大嫌いだった。反射的に上がった大声に、しかしクラークは平然としている。彼のどこか呆れたような表情に、ブルースは思わず黙り込んだ。ほんの少しだけ沈黙があった後、クラークが口を開く。
「間に合って良かった」
気性がそのまま表されるのか、彼の声には襟を正さずにはいられない真面目さが滲んでいる。加えて何時に無い生硬な響きが、寒波よりも的確にブルースから身動ぎを奪った。
「連絡しても君が応答しなかったから、迎えに来たんだ」
暖かい手が軽く抱き直してくる。よく見ると眼下には紺青の海が横たわっていた。既にもう空の上だったらしい。そうと悟られなかった自分の未熟と披露に、密かにブルースは唇を噛む。
だが唇というものはダイアモンドで出来ていようとも、心からの言葉には開かざるを得ない。その事をクラークはすぐに立証した。
「飛んでいる間、気が気じゃなかったよ」
「……悪かった…」
まさか謝られるとは思っていなかったのか、クラークが驚いたように見返してくる。すぐさま慌てた声音が降って来た。
「え、べ、別に怒っている訳じゃなくて…いやちょっと怒ってはいるけど、その……」
拗ねたように海を見下ろしているブルースへ、クラークは、顔を寄せて囁いた。
「…ただ、心配だったんだ」
耳朶をくすぐる声と、耳元で鳴る鼓動と、何より手の暖かさが心地良い。心地良い眠気に襲われ始めたブルースは、それでもクラークに頷いた。
「分かっている」
本気で心配していただろう事も。
自分が彼を待っていた事も。
「分かっている」
既に夢を見ているように繰り返してから、ブルースはとりあえず、体の主導権を睡眠欲に明け渡した。