「アタシ正直、何でボスがわざわざ発作起こしたのか分からない」
ぷらりぷらりと虚空に足を揺らしながらキャリーは呟いた。腰掛けた巨大な岩は清水に似た冷たさだったが、湿気の多いケイブの中では心地良い。
その岩に背中を預け、キャリーのほぼ真下に座していたオリバーが、応じるように弓の弦をびんと弾く。しかしそれからキャリーを見上た顔には呆れたような表情が宿っていた。
「おいおい。昔話をするのは年取った証拠だぜ、子猫ちゃん」
「そうとも限らないって。“若年者と高齢者は過去を振り返る事で自分の人生に意味を見出そうとする”とか何とかかんとか」
「つまりケツの青い証拠でもあるって訳か」
弓の手入れを続けつつ、オリバーがげらげらと笑い声を響かせた。軽く眉を寄せ、それでもキャリーは薔薇色の唇を動かした。
「オリーは分かる?3年前にどうしてあの人が発作を起こしたのか。不思議じゃないの?アタシもオリーも逃げ出せたのよ。ボスだってクリプトナイトでケントさんをぼっこぼこにしてたじゃない」
「まあ確かに、逃げられん程でも無かったな。ありゃ痛快だった」
弓の先を最後に一撫でしたオリバーに、でしょ?とキャリーは上体を屈みこませた。両手はしっかり岩の端を握ってある。落ちはしない。
「だからキリの良い所でアタシ達と逃げられた筈よ。幾ら保険って言ったって、あんな危ない事仕出かす必要は無かった。わざわざ葬式なんてしなくても」
「子猫ちゃん」
分厚い瞼に半ば隠れた緑色がキャリーを見上げる。声に隠れた静けさに、さあ来るぞとキャリーは身構えた。その緊張を知ってか、オリバーは軽く髭を扱いて微笑む。
「バッツの野郎のあだ名を知ってるか?」
「…“闇夜の騎士”でしょ、“世界最高の探偵”とか、“ケープ姿の十字軍騎士”とか」
「“ゴッサムの王”」
指折り唱えていくキャリーに首を振り、オリバーは荘厳とも表せそうな声音で答えた。
「奴は王様なのさ。王様ってのは領地だの領民だの、面倒なしがらみを一杯抱えてやがる。ウェイン邸がぶっ壊れるのを見ただろう?」
「ええ」
「あそこが良い例だ。だがな、この戦いにそいつらは邪魔なだけなんだよ。このケイブのような基地がありゃあ城なんざいらん。だからバッツは王様を止めようとしたのさ」
ウェイン一族の話はキャリーも聞き及んでいる。権威も経済も精神も、まさにゴッサムの王族と呼ぶに相応しかった名家。王様、と言うオリバーの答えも、だからキャリーにはすんなりと耳に馴染んだ。
「だけどあいつは生まれながらの王様だから、止めるとなったら徹底的にやらなきゃならん」
「…だからボスは、自分まで殺そうとしたって言うの?」
「殺すとは言ってないぜ子猫ちゃん。捨てると言うか……まあ浄化だな、一種の」
そこでオリバーは懐からパイプを取り出した。擦られたマッチがオレンジ色の輪を中空に作り出す。その炎に、キャリーは3年前の炎上するウェイン邸を思い出した。
バットモービルに乗ってキャリーとオリバーが帰還を遂げた時、既に屋敷は崩れ掛けていた。威容の半ばも留めない炎の渦に、思わず涙した事も瞼の裏が覚えている。半ばはアルフレッドの為に流した涙だったが、馴染み薄いキャリーでさえ泣けて来るような悲壮さが、あの光景にはあった。
とうとう屋根が落ちた折の轟音は、ブルースの断末魔であり、産声でもあったと言うのか。名前や存在さえもしがらみと称す、その感覚がキャリーには理解出来なかった。自分は自分以外の何者でもない。キャリーとキャットガールとロビンのどれかが、枷になる事など。
「…変って言うかわかんない、みたいな」
「俺もさ。そこが奴の王様たる所以なんだろう」
「訳わかんない所が?」
「誰にも理解出来ない物を持っている、って所がだよ」
キャリーは眉を寄せた。いつも追い従っていた背中が不意に遠くなった気がする。心の揺れにつられるように片手が滑り、慌ててキャリーはバランスを取り直した。
「まあボーイスカウトの野郎に勝ち逃げ食わす理由ってのは、他にもあるだろうがな」
「え?」
キャリーは煙を吐き出すオリバーに目を瞬かせた。
「他にもあるの?」
「…子猫ちゃんにはちょいと早過ぎるような気もするが」
「もう16よ」
顔を顰めてそう言えば、ふん、とオリバーは目を合わせずに顎を撫ぜる。
「そんなになるのか。時間が経つのは早いもんだ……つまりだな」
「オリバー!」
赤いケープを靡かせながら、突如としてクラークが2人の眼前に出現した。まずい、と思わず息を飲むキャリーを尻目に、彼は切羽詰った表情でオリバーに言った。
「ブルースを知らないか?」
「いつも通り奥で機械いじりだろ?」
「それがいないんだ。あちこち見回っても姿が無いから、まさか上に行っているのかと……」
「地上に出ても問題ないんじゃないですか?」
岩からオリーの横に降り立ちキャリーは言った。ついでに手首に巻いた通信機を突いてみせる。
「何かボスにご用事があるなら呼びましょっか」
「い、いや、用事と言う程では無いよ。ただ地上はまだ情勢が不安定だから、そんな所を1人でうろつき回るのは良くないと思ってね」
「大丈夫ですよ、ボスだから」
きっぱりキャリーが言い切っても、クラークは戸惑いがちに否定を続ける。
「だ、だけど彼は心臓も」
「随分と過保護だなボーイスカウト、何か仕出かしたのか?」
にやにやと笑みを浮かべながらオリバーが問う。勢い良くクラークが顔を上げた。
「違う!」
「ケントさん耳真っ赤ですよ」
「ああ、その、これは、大丈夫だようん」
「さて今回は何でバッツの機嫌を損ねたんだ、ん?」
喉の奥で笑うオリバーに、クラークはとうとう耐え切れなくなったらしい。一気に頬に赤味が上がった。
だがすぐに首を振って彼はキャリーに屈み込む。視線を合わせる為だと分かっていても余り好きではない仕草だったが、彼に限ってはキャリーもすんなりと受け止められた。
「キャリー、もし連絡が付いたら早く帰るように言ってくれるかい?」
「分かりました。心配しているとお伝えします」
「い、いや僕の事は出さなくて良いからね」
「はい」
キャリーが頷くと、クラークは来た時と同様唐突に去った。ケープの裾さえも見せぬ早業にキャリーは目を丸くした。
だが彼女が瞬きをし終えぬ内に、奥へと通じる岩陰から黒い姿が現れる。ブルースだ。
「もう行ったな」
「ボス」
「おいおい人が悪いぜバッツ、何時からいた?」
声を潜めたキャリーとは対照的に、普段と変わらぬ声の大きさでオリバーが尋ねる。ブルースはパイプを手の内で転がす彼に肩を竦めた。
「あいつが来てからすぐだ」
「ボス、ケントさんを避けてるんですか?」
小首を傾げるキャリーにブルースは無表情のまま首を振る。否定の動作ながら、視線を合わせぬ事で真の答えは明白だ。傍らでオリバーがふんと鼻を鳴らす。
「あいつがまた何かやったんだろう」
「別に何と言う程の事では無い。…4日前少し外出しただけで喧しく言われた位だ」
この言い様から察するに、恐らくクラークとは4日前から顔を合わせていないのではないか。ブルースの思考回路に馴れて来たキャリーはそう思った。
耐えかねたようにオリバーが吹き出す。そして彼は生身の方の手でキャリーの背中を大きく強く叩いた。
「ま、こう言うこったな」
「え?どう言う事?」
「何の話だ?」
目を瞬かせるキャリーと、怪訝そうに眉を寄せるブルースに構わず、オリバーは背中を向ける。弓や手入れの道具を纏めて小脇に抱えると、彼は唇の端を吊り上げ言った。
「夫婦喧嘩は犬も食わねぇ、ってやつさ」
「オリー」
キャリーが何か言うより早く、ブルースが鋭い眼光でオリバーを睨み付ける。しかしいち早く踵を返した彼は、さっさと洞窟の奥へと消えて行ってしまった。
「…ボス、あれって」
「気にするな」
全く、とひとつ言葉を零してから、ブルースもまた別の通路に歩いていく。
「…やっぱり良くわかんない」
取り残されたキャリーには、そう呟くしかなかった。