笑いなよ、ミスター・ボーイスカウト。
あんたに仏頂面は似合わない。
「クラーク・ケント“工作員”?」
思わずその名を繰り返してしまった。そうだと眼前の男は頷く。
「今は治安維持に出ているがな。あいつも元ヒーローだったと聞いているぜ。何でも、噂じゃあ元は……」
「スーパーマン」
男はぎょっとしたように目を見開いた。すぐさま辺りを見回し、睨み付けて来る。
「おいおい、止めろよ。今じゃあそれがどんな意味を持つか、あんたも元ヒーローなら知ってるだろ。消されるぜ」
「ああ、悪い…彼は今でもあの格好を?」
「そこまでは知らねぇな。普段は眼鏡にスーツ姿で、ガタイは良いが例の…その…ヒーローとはとても思えねぇ」
「どうして?」
「何と言うか……覇気がねぇのさ」
僕のもう1つの顔。ロビンではないヒーローの顔。ナイトウィング。
スーパーマンは、そのアイディアを僕にくれた人だ。いわば産みの親といった所だろうか。ロビンを産んだバットマンとは違うけれど、彼は間違いなく、もう1人の僕の父だ。
雲一つない青空のような彼は、ブルースと余りにも違っていた。
陽と陰、昼と夜、笑った顔と仏頂面。
一緒に3人で戦った事もある。颯爽と飛ぶ姿を、ブルースはいつも見ていない振りをして見ていた。羨望と嫉妬と、それらを押し退ける憧憬と。
同時にあの人も、ブルースが危険な真似をしないかどうか、横目で確認しているような節があった。心配と呆れと、ほぼ等分に振り分けられた感嘆と。
ブルースがいない所で仲がいいんだねと言えば、まぁねと笑って肯定していた。
相談に行けばいつも歓迎して、優しく話を聞いてくれた。
その人が、何故?
何故、こんなちっぽけな所に、捕らわれている?
答えは簡単だった。
彼は人間であろうとしている。
人間ならば人間の作った法に従わなければならない。僕がナイトウィングである事を止めたように。他のヒーローがヒーロー活動を停止したように。
だけれども彼は、ただの人間であるには強すぎた。能力も、正義感も、責任感も。
ただの人間として生きるには、彼の力は余りにも重過ぎる。クラーク・ケントとしての顔と、スーパーマンとしての顔。どちらも手放せなかったのだろう。
だから彼は、法を作る側に話を持ち込んだ。人々を助ける為に、活動を許して欲しいと。
法を作る側は条件を出した。彼らの命令には従う事だと。
かくして神に最も近い男は、地上に鎖で繋ぎ止められた。
1度だけ、彼の姿を垣間見た。
大統領の護衛をしている所だ。堅苦しい顔をして、今にも窒息しそうな様子で、鋼鉄の男らしく端然と立っていた。
僕がブルースと最後に会ったのは7年前だ。その時に彼の話は出なかった。
疑うべきだったかもしれない。彼がどうなってしまったのかを。その時は別の理由があって、そちらに気を取られてしまったけれど。
止めてくれよ、スーパーマン。そこにいる男は、あんたが守ってやる価値なんかない。
あんたが守るべきなのは、権力に守られている男じゃない。犯罪に晒されている人々だろう。絶望に捕らわれかかっている人々だろう。
あんたと肩を並べられる男は、ブルースくらいなもんじゃないか。
笑いなよ、ミスター・ボーイスカウト。
あんたに仏頂面は似合わない。ブルースがご機嫌な笑顔を浮かべるのと同じ位にホラーだ。
肩を掴んでそう叫びたい。だけど今の僕には、あんたの前に身を出せる自信がない。
だから――助けてくれよ、バットマン。あんたの仲間で、友人で、好敵手であった相手は、何でこんなにも死にそうな顔をして、今日も命令を聞く羽目になっているんだ。
解放してやりなよ、ブルース。あんた一流の滅茶苦茶な論理で。曇ってしまった青空に、最も落ち込むのはあんただろう。
誰もが焦がれたあの男を、1度は手にしたあんたなら、魂の自由だけでも与えてやるべきじゃないのか。痴話喧嘩を引き摺っている場合じゃあない。
例え与えられるのが死であったとしても、だとしたなら、それこそあんたがやるべきだ。
彼ならきっとそう望む。
だからブルース。
ゴッサムの年間最低気温が突破された、寒い寒い夏の日。
ブルースが死んだ。
バットマンが死んだ。
何も知らなかった。計画があった事すら知らされていなかった。
本部を包む慌しい空気はミサイル投下以後ずっとだったし、そもそも他の軍人や工作員とは余り会わない。知らないのも道理だったかもしれない。
本部は暖房が効いていたのに、指先まで寒さが走った。
「ケントが殺した訳じゃねぇんだとさ」
ちらちらと、数少ない顔馴染みの男が僕の顔を見る。彼は知っている。僕があの黒騎士とどういう関係にあったかを。遠慮がちの言葉はそれでも耳に届いた。
「…じゃあ、誰が」
「聞いた話だが、病気だったらしいぜ。急に倒れたんだと。はっきりした事はわからねぇがな」
分からない?
ブルース並みに偏執的な、この集団が?
「彼は」
遺体は、なんて言えなかった。
「ここか、他の施設に運ばれるんじゃないのか。普段は……そうだろう?」
元ヒーローで問題を起こした者の末路は幾つかあるが、“処理”された者達は大抵が政府や軍事関係の施設に送られる。ブルースは確かに彼らと異なり、ただの人間だ。それでもここの連中なら徹底的に調査しようとするだろう。ブルースの強靭な肉体を解明しようと必死になる筈だ。
馬鹿だよね。50過ぎの体を支えていたのは、肉体的要因ばかりな訳がないのに。
彼の強さは、その厄介極まりない精神にこそあったというのに―――
「や、それがな。司法解剖の予定はあったらしいんだが」
男は顎を捻った。
「…ケントが」
風が吹く。弾丸よりも早い風が。
「運搬しようとした連中はおろか、医者の話だって聞こうとしなかったそうだからな」
その場にいた全員に突風が襲いかかる。
「何せほら、あいつ……アレだろ、機関車より」
連中は視界の隅に、舞い踊るケープを見ただろうか?
「気付いたらもう、そこにはいなかったって―――グレイソン?」
最後のヒーローの勇姿を、少しでも見ただろうか?
「おい、あんた……泣いているのか?」
「…ああ……」
出た言葉は肯定なのかため息なのか、僕も知らない。
「つくづく卑怯だよ」
あの蝙蝠は。
本当に。
「は?」
「何でもない」
そう、あんたが笑わなくなったからって、解放するような人じゃなかった。
とどめと言う名の優しさで、最後の笑顔も取り上げる。そしてそれと諸共に、この世の果てに飛び込んでいくんだ、あの蝙蝠は。
「行こうか。午後からまた仕事だろう」
ブルースが渡すのはいつだって、彼に繋がる鎖なのだから。
その為に他の鎖をぶち壊すような人なのだから。
支配されているのか自由の身なのかさっぱりだよ、全く。
そう、だけど、だからこそ。
いつか再び地上の鎖があの人を捕らえるとしても、その瞬間、茜色したあのケープは、確かに自由だったろう。