シャッタード・バット

　心地良さそうに喉を鳴らし、目を細めて体を擦り付ける。これが人間ならば余人が立ち入れない雰囲気でもかもし出される所だが、相手は動物――黒い体を持った猫であった。
　故に第三者であるクラークも、椅子に座り、口を挟む事が出来た。
「ウェインさん」
「何だい」
「ズボンが猫の毛まみれになっていますよ」
　ああ、だか、うん、だか、判別し難い声がその答えだ。意訳すると、彼にとっては猫の毛よりも、視線を注いでいる画面の方が重要だという事なのだろう。小さな不動産会社の会計など、大企業のオーナーたる彼には殆ど関心無さそうな代物だが、それが犯罪と結び付けば話は違う。
　脱獄したルーサーがカモフラージュに用いているのではないか。その疑惑をほろりと零したのはクラーク自身だが、まさか即座にケイブで調査されようとは思っていなかった。お蔭で折角のティータイムが台無しである。
　持って来た茶菓を無視されたアルフレッドは、眼鏡越しにじっとクラークを見つめていたが、ケイブまで下りて来たのは彼ならぬ黒猫であった。半ば呆然とするクラークには一瞥も与えず、無遠慮に主の膝に乗り込み、悠々と座り込んでいる。
　ウェイン邸の新顔は彼女――メスだった――の筈だが、クラークを遥かに上回る慣れようである。小馬鹿にされているような気もしつつ、クラークはもう1度ブルースに語りかけた。
「ウェインさん」
「何だい」
「猫を飼い出したんですか」
「うん」
　今度はちゃんと「うん」である。クラークは少しほっとして、次の言葉を舌に乗せる。
「僕、まだその子を紹介されていないんですが」
「そうかい」
　答えてブルースは両手を動かし始める。小さな画面はコンピュータへの侵入している事を知らせ、ついでにクラークにも、しばらく彼の手が離せない事を伝えてくれる。
　猫が小さく鳴く。ブルースの、大きくはないが厚みを持った左手が、彼女の整った毛並みを撫ぜる。
――僕は猫以下ですか、そうですか。
　人間語での意思疎通だってちゃんと出来るのになあ、とクラークは肩を落とす。ここで諦めて邸内に戻れば、アルフレッドの非難めいた視線は和らげられようし、引いては今後のアポイントメントも取りやすいというものだが、生憎と彼は鋼鉄の男である。当たって砕けろではない。当たって砕くのである。
　分厚いレンズの向こう側を見上げると、薄いレンズの眼鏡を付けた友人が、再び両手をキーボードに戻して集中している。何かを始めると全く他が見えなくなる、ブルースのそんな傾向は、眼鏡を付けても矯正されないものらしい。
とは言え、クラークは彼を気に入っていた。
「人の性格も眼鏡じゃ矯正されないよなあ」
「何だい」
「独り言です」
「そうか」
　ふつりと言葉が途切れる。余人ならここで怒る所だが、クラークの場合は会話を切られる事に慣れ切っていた。それに、時と場合によっては、そんな自身よりも話が苦手な彼である。
　こうして作業に埋没するのが得意なのは、私生活から徹底的に人を排除し続けた結果なのだろう。そして人嫌いの評判を立てられている癖に、今日のようにクラークをティータイムに招き入れたり、会って間も無い女性をケイブに招き入れたり、黒猫を膝に招き入れたり、妙な所で寛容だ。
　初めて会った際もそうだ。硬いマスクのその下の、仏頂面のその下で、初めて対面するヒーローに胸躍らせている様など、クラークにはすぐ分かった。
　だから憎めない。だからこうして訪問してしまう。普通の犯罪率も高い都市で、彼が無事にやっているのだろうかと心配になる。
　これではまるで兄か父か、下手をすると母親だ。彼の方が年は上なのにも関わらず、自身の保護本能にクラークは声を出さず苦笑する。こちらに視線も興味も向ける事はなかろうと、半ば諦めて頬を撫ぜた所、猫ではない低い声が空気を震わせた。
「ケント君」
「は、はい？！」
　上司に呼ばれた新人のように慌ててクラークは応じる。喋った。ブルースが喋った。顔はクラークに向けないが、とにかく話し掛けてきた。
「この猫はな」
「はい」
「セリーナと言うんだ」
「…綺麗な名前ですね」
　猫の紹介をしていない事に1周遅れで気付いたのだろう。唐突ではあるがなされた紹介に驚きながら、率直な感想をクラークは述べる。
　すると、今度は一呼吸分の間も置かずに手が止まった。ヘーゼルグリーンの瞳が動き、それに合わせて顔も動き、ブルースがクラークと向き合う。ルーサーが改心して自首する以上に稀有な事態に、クラークはぽかんと口を開き掛けた。
　それを間一髪で閉じてくれたのは、ブルースの伏せられた視線だった。黒猫の背を、壊れ物を扱うかのように撫ぜながら、彼は呟く。
「ああ」
　猫が喉を鳴らす音よりも小さかったが、それは確かに「ああ」であった。
「そうなんだ。とても――綺麗な名前だ」
　ブルースの声には時折、黙っている時よりも重たい静けさが含まれている。クラークがぶつかっていったとしても、ずぶずぶと呑み込まれてしまいそうな手応えが滲み出ていた。
　最後に1度だけ強く頭を撫ぜると、ブルースはまた両手をキーボードに戻した。膝で転がる猫のセリーナにも気を留めない。当然クラークにも、だろう。
　猫のセリーナがとうとう膝を下りた。ケイブの硬い床に着地し、怪訝そうに振り返りながら歩む彼女を、立ったクラークの両手が受け止める。
「おいで。行こう」
　短く不平の声を上げたが、それでも彼女は大人しく腕に収まった。
　砕けろ、砕けと言っても、相手が砕いて良いものでない時は、流石のクラークも手に負えない。ブルースが何らかの気紛れで、扉を開けるまで待つしかないのだ。クラークとて、誰も関われない場所に基地を持っている。分からないでもなかった。
「上に行っているよ」
　姿こそ記者のままだが、スーパーマンの気分でそう言い、クラークは踵を返す。返事は全く期待していなかった。
「クラーク」
　だからそう呼ばれた時は、危うく猫を取り落とす所だった。
　振り向くとブルースは、今度はこちらに顔を向けず、小さい画面と向き合っている。侵入に失敗したという内容を見据えつつ、それでも彼はこう言った。
「少し待っていてくれ」
　ケイブに下りた時と同じように、呆然としてクラークはその横顔を眺める。しばし何も出来ずにいたが、猫がみゃあと一声鳴いて、自身を抱く手に爪を立てる。
　そうして彼が発したのは、ああ、とも、うん、とも付かない声だった。