「えー、これ止めちゃうの?」
ふっくりと盛り上がった唇を更に尖らせ、キャリーは自分のボスにそう抗議した。
「ああ。目立つからもう使わん」
「勿体無いって言うかつまんない、みたいな」
「つまらない?」
ブルースはキャリーへと振り返る。古い煙幕弾や発光弾の分別は一時休止だ。ようやくきちんと視線を合わせたボスに、キャリーは満足げに微笑んだ。
彼女の未だ白く柔らかな手には、古いバットマンのコスチュームが握られている。
「だってこれ、ボクを助けてくれた時の格好でしょ?今のやつも好きだけどこっちはもっとイカしてる」
イカれていると噂される男の衣装を手に、キャリーはどこまでも上機嫌だった。
近頃ブルースが着ているケープは漆黒だが、彼女の持っている物は宵闇の濃紺をしている。そして最も大きな違いは胸の部分だ。古いコスチュームには、蝙蝠を包むように黄色い楕円が描かれていた。
「元々が頭部の弾丸避け用なんだ。今は良い保護材が開発出来たから――」
「それに、頭もガンガン狙われるようになったから?」
「…それもある」
注意を逸らす為のマークが意味をなさなくなり始めた。当局は1度死んだ男を再び殺したいと言わんばかりに、遠慮会釈無く致命傷狙いで攻撃して来る。
また今は派手に活動する時ではない。そもそもタイツ姿自体が隠密行動に不向きではあるが、黄色い楕円は特に目立つのだ。
「でもマークがしっかり見えて格好良いよ」
「デザイン性よりも機能性が大事だ」
「オリバーにケープが邪魔だって言われても、絶対外さないって言ってた癖に」
「ケープは極めて重要な存在だぞ。防御と威嚇を兼ね備えるのだからな」
答えてブルースは再び手元に視線を戻した。キャリーはそれ以上何も言わない。ただ、小さく鳴った衣擦れの音が、彼女がコスチュームに触れていると教えてくれる。
「……これが満月みたいに見えたの」
ケイブに吹く風よりも静かな呟きにブルースは手を止めた。
「すっごい雨で真っ暗で、怖くて何も見えなかったんだけど、気付いたらこれがぱあって光って見えて。すっごい、満月みたい、って安心したんだ」
少女の指先が何度も黄色い円を辿る。そこに注がれる優しい眼差しは、まるで彼女の目が安寧を齎す月のようだった。
その淡い緑色をした一対の満月を不意に向けられ、ブルースはどきりとした。だが彼の心を見透かしてか、にっとキャリーは目を細める。いつもと変わらぬ悪戯な微笑だ。
「何て言うか怖がらせるのも大事だと思うけど、安心させるのも必要不可欠、みたいな?」
ブルースにコスチュームを掲げながら彼女は言う。満月と称されたマークを見つめながら、ブルースは何時の間にか詰めていた息を吐いた。
「安心してくれ。…全て捨てるつもりはない」
「本当に?!」
「ああ。大事に保管してくれ」
「了解しました!」
元気良く応じてキャリーは早速コスチュームを畳みに掛かった。皺が寄らぬよう袖や裾を伸ばしていく真剣な横顔に、ブルースは笑みの衝動が込み上げるのを感じた。
「ねえ、ボス」
呼びかけと共にキャリーがくるりとこちらを向く。慌てて咳払いをしてからブルースは問うた。
「何だ?」
「また着てね、これ」
舌足らずな喋りとコスチュームの端を掴む手が、ふと、ブルースにかつての助手達の姿を呼び起こさせた。
あの車に名前を付け、恐竜に高揚し、蝙蝠達を仰いだ彼らの姿を――
「ボス?」
「…分かった」
そう言って頷くブルースの唇は穏やかに微笑んでいた。
月に蝙蝠
蝙蝠はさりげなく衣装チェンジが多そうです。
微妙な違いを楽しむのがゴッサムっ子の粋ですきっと。
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