家に灯りが付いている嬉しさと、お帰りを言ってくれる相手がいる喜びに満ちたクラークが、抱擁を躊躇う筈も無い。
ただ唇を離した直後、クラークに腰を抱かれたままのブルースは、常のように眉を寄せていた。こちらを見据える灰がかった瑠璃紺の瞳に思わずクラークは2度目の口付けを留まる。
「帰った早々これか?」
「悪い事じゃないだろう?」
呆れ返った、と言わんばかりの声だったが、諦めずにクラークはブルースの首筋に顔を埋める。唇を押し当てたい衝動にかられたが、今やると確実にブルースの機嫌が急降下してしまう。
「嬉しいからだよ。帰ったら君がいるなんて」
代わりにクラークは低く囁いた。ひとりの寂しさを知る男はそれを聞いて眉間の皺を和らげる。クラークの腕を掴んでいた手からも、ほんの少しだけ力が抜けた。
遠慮がちに首筋へ口付ければブルースの唇から熱の篭もった吐息が零れた。彼の腰に回した腕へ、ぐっと力を入れ――
「例の品は持って来たのだろうな?」
そして取引の場に臨んだマフィアのような言葉に、クラークは全ての動作を制止した。
「…分かったよ。今、見せるから」
ブルースの瞳は既にクラークではなく、鞄へと向いている。仕方なくひとつ強く抱擁してから、クラークは鞄を開き紙袋を取り出した。受け取ったブルースが丁寧に紙袋を開けていく。
「普通の地味なやつを買おうとしたんだよ?でも、品切れで、何ていうか……」
クラークに言い訳を止めさせたのはブルースの沈黙だった。
彼の視線は掌に乗った、サーモンピンクのヘアピンに向けられている。
ハイビスカスとも桜とも付かぬ大きな野暮ったい花飾りが、売れ残った理由を何よりも的確に教えてくれた。埋め込まれた色取り取りの石は蛍光灯を受け、眩いが安っぽい輝きでブルースの手を照らす。
そしてクラークにとって何よりダメージの大きいのは、袋に書かれた『ラブラブ★アクセサリーシリーズ! 対象年齢6歳以上』の文字だった。
「…買った僕の勇気を褒めて頂けますね、ミスター・ウェイン?」
せめてもの救いはブルースが笑いの衝動に耐えているのではなく、絶句している事か。半ば自棄になってクラークはブルースの顔を覗き込んだ。
「もう2度とあの店には行けないよ」
「いや…確かに私はヘアピンでも付けろとは言ったが、ここまでとは……」
花が重そうなピンを手に、戸惑うブルースをクラークは引き寄せた。彼が次に目を瞬かせたのは、クラークの寝台の上である。
「もう良いよ。責任の半分は僕の前髪に、残り半分はくすぐりに弱い君の肌にある」
五分五分だ、と言ってクラークは眼鏡を外しベッドサイドに置いた。ついでにぐしゃりと頭をかき回し、見事なまでに癖の強い前髪を甦らせる。
これが触れる度にブルースは耐え難そうに身悶えし、行為に相応しからぬ低い笑い声をひっきりなしに上げてしまうのだ。それにしてもヘアピンを使えは無いだろうと思いながら、プランBを考え出せない自分自身にクラークは少々苛立っていた。
能力を使った事に怒りもせず、未だ混乱の内にあるブルースからヘアピンを取り上げた。そして一瞬、ほんの一瞬だけ迷ってから――クラークは自分の前髪をそのピンで止める。
ブルースを見つめると、ようやく彼も我に返ったらしい。頬の不自然な引き攣りが笑いへと姿を変える前に、クラークは彼の上に圧し掛かった。
「く、クラーク」
「知らないよ。もう“くすぐったいから止めろ”なんて事は無しだからね」
羞恥心がこれ以上湧き起こらぬよう、怒った声を装いながらクラークは言った。ブルースの首筋に顔を埋めたのは彼と向き合いたくなかったからだ。
「クラーク!」
だがブルースの声は鋭い。思わず怯んだ隙に襟を掴まれ、首筋から引き剥がされる。
そしてブルースは証拠品を確認している折のように、しげしげとヘアピン姿のクラークを眺めて言った。
「…意外と似合っているじゃないか」
すぐに浮かんだ悪辣な笑みがクラークの顔面に火を付ける。慌てて身を離そうとしたがブルースは逆に襟を引っ張った。引かれるがまま、彼の上に覆い被されば、ケープよりも赤く染まった頬に唇が触れる。
「なかなか可愛らしい」
「止めてくれ!」
「分かった、そう照れるな」
脚が絡んだ、と思った途端に世界が反転し、クラークはベッドに背中を預けていた。
ブルースが馬乗りになって口付けて来る。珍しい彼からのキスと、自分の格好とにうろたえながら、クラークは目を瞑ってそれを受け止めた。
存外厚い唇の感触が心地良い。スーツのボタンが外されていくのに、クラークは負けじと手を伸ばしてブルースの太腿を撫ぜた。ベルトの上を素通りして、シャツの上から腹筋の付き具合を確かめるように触れる。胸の突起を指が掠めると、折良く唇を離したブルースが低く呻く。
その声にならぬ声がクラークの背中を押した。
もうどんな格好でも構わない。肌に前髪が触れる度、くすぐったいと中断を求めたブルースに、このヘアピンの力を証明してみせようではないか。
腕を引いて横に寝かせ再び唇を求める。片手でボタンを取っていくのは不得手な作業だったが、ブルースの興奮を押し殺している吐息が能率を上げてくれた。
ブルースは舌で応じながら、器用にクラークのシャツばかりかベルトまで外し終えていた。床に放り出された金具が冷たい叫びを発する。
ようやくボタンを外し終え、露わになった古傷だらけの肌にクラークは舌を滑らせていく。それが腹部に刻まれた古傷へ達した時、ひくりと彼の喉が震えた。
「くすぐったい?」
見上げれば笑みを含んだ顔が横に振られる。
「ただ」
「ただ?」
「きらきらしている」
彼らしくない子どものような物言いに、クラークはおかしくなった。ただ、仕返しにと、膨らみ掛かっているスラックスの上を優しく掴む。今度ブルースの喉が震えたのは笑いからではあるまい。
「今度は君が持って来てくれ」
ブルースの答えは言葉ではなく鼻にかかった声だ。クラークは掌を回し、腹筋に痕を残しながら、彼の腰が揺れるのを待った。焦れったげに向けられる潤んだ視線が我慢を強制終了させそうだが、堪えた。
やがて甘さの混じり始めた荒い呼吸と速い鼓動が全てになる。
しかしそれに浸り切る寸前、世界に一陣の悲鳴が割り入った。唐突に響いた少女の声がクラークから熱を奪い取る。
『助けて!』
その声が終わるより早くクラークはベッドから浮き上がった。
「行って来る」
見開かれたブルースの瞳から快楽の色が潮のように引いていく。汗ばんでいた額に軽くキスを落とすと、クラークはスラックスを脱ぎ捨て窓から飛び出した。
「クラーク!待て!待つんだ!」
背後から聞こえたブルースの声がすぐに遠ざかる。弾丸よりも早い男は春の夜を切り裂き、声の方向へとひたすらに飛んだ。今、彼の脳裏にあるのは、如何に早く助けに行けるかという事だけだ。
「お前、髪の毛……!」
だからつまり――クラークに、ブルースのその言葉が届く事は無かった。
『スーパーマン春の衣装替えか?少女救う頭にヘアピン』
大きな見出しと記事を何度も読み返してから、クラークは傍らの華奢な姿に口を開いた。
「一面じゃないとはいえ、こんなネタを記事にして良いのかい?」
「ペリーの意向。私だって反対したわ。記事も写真ももっと小さくて良いって」
胸を反らしてロイスはそう答える。彼女の髪の毛を纏めているのは、『スーパーマンのヘアピン』よりも遥かに繊細な作りをした髪留めだ。それでも日光を反射する煌きに、似通ったものを感じてクラークはつい視線を背けた。
「ほ、ほら、それに本人が何て思うか」
「…私も本人が何を思ってこうなったのか知りたいわよ……」
心なしか遠い眼差しでロイスは記事の上の写真を見つめる。
大写しになったスーパーマンの髪の毛には、花飾りの付いたヘアピンが夜目にもしつこい程の自己主張をしていた。
テレビからは今期のブームがヘアピンになりそうだと笑い混じりの報道がされている。昨今のカメラ付携帯電話の性能に恐れをなしながら、クラークは喉まで押し寄せて来た弁護を飲み込むしかなかった。
部屋のドアを開けると闇夜の騎士が立っていた。
電気は点いていなかったが、鼓動音も気配も今日は隠されていない。早々と存在を感知していたクラークは驚きもせず口を開く。
「ただいま」
「…お帰り」
珍しく答えてくれたのは彼なりに罪悪感を抱いているからだろう。マスクの裏で揺れているに違いない目を見つめながら、クラークは電気を点けた。照らし出された蝙蝠は居心地悪げに身動ぎする。
「呼んでくれたら会いに行ったのに」
「こちらに来る用事があったからだ」
「昨日の今日に?大変だね」
そう言うとブルースが言葉に詰まる。その傍らを通り過ぎ、机の上に鞄を置いた。チャックを開ければ音がやけに大きく響いた。
「…クラーク」
「うん?」
背中を向けたまま先を促せば、ややあってブルースが歯切れ悪く言葉を押し出した。
「昨日の事だが……」
「良いよ」
言葉の途中でクラークは手を振った。
「言っただろう?責任は五分五分だ。気にしないでくれ」
首だけ振り返ってそう言うと、堅くなっていたブルースの肩から力が抜ける。叱られた子どものような様子にクラークは思わず目を細め、そして鞄から小さなビニール製の袋を取り出した。
「ただ――」
ブルースの肩が再び緊張を示す。更に、向き直ったクラークが持つ袋の中身を見て、マスクの下の顔が震える。黒いブーツが音も立てず、一歩、また一歩と背後に退っていく。
だが彼を追い詰めるように、クラークも一歩、更に一歩と足を踏み出した。袋を見せびらかすように手を高々と掲げながら。
「折角だからこちらも五分五分にするのはどうだい?」
「く、クラーク、待て」
「今日は品揃えが豊富だったよ。店員さんも話し掛けてくれたしね。最初に買った時なんて凄い顔されたんだけど」
「分かった、謝る。悪かった。もっと私が考えてヘアピンなど言い出さなければ」
「ブルース!」
一気にクラークは距離を詰めた。かつん、と音を立ててブルースの踵に壁が当たる。
彼にはもう逃げ場など無い。
その事をたっぷりと味わわせる為にも、殊更ゆっくりとクラークは片手で眼鏡を外した。
「…してくれるだろう、これ?」
もう片方の手を振る。
ヘアピンに付いた蝶の飾りは、ブルースの眼前で夜そのもののような濃厚な紫の輝きを放っていた。