天井の窓から水面に向け、何本もの光の梯子が下ろされていた。
例によって今日のゴッサムも曇天であったのに、あの分厚いベールをどう潜り抜けて来たのか。そう首を傾げたくなるような日差しであった。見上げたドーム型の天井も白く霞んでいる。
日を浴びる水がまた、あらゆる方角に光を撒き散らしている。濡れた地面さえも水に劣らず輝いていて、このプール場すべてが黄金で作られているようだった。
――こんな建物を見た覚えがあるな。
とぼんやり思いながら、流石のクラークも目を細める。記憶の源流が写真であったか、それとも直に見たのだったか。黄金作りで、矢張りドーム型の天井が美しい建造物であった。
やがて記憶が薄っすらと集まり、確かな輪郭を持ち始めていく。しかしクラークが足元に視線を落とした瞬間、風に吹かれた霧のように、記憶の断片は散ってしまった。それを惜しいと思わせる時間も与えてくれない。
「……」
それも無理もない、とクラークは思うのだ。
視界に入ったのが、プールの底で目を開き、ひたとこちらを見ているブルースなのだから。
「…土左衛門だー!!!」
腹筋と肺活量、そして腹式呼吸の見事なコラボレーション。芸術品のような悲鳴は、恐らくあらゆるヒーローに届いたのではなかろうか。少なくともスーパーマンなら、地球外にいても聞こえる大きさだった。
幸いにも、「ち、違う!馬鹿!これは違う!」と水から上がって来たブルースのお蔭で、スーパーマンの登場は半分ほどで終わる。ただしズボンを脱がんと中腰になっていたクラークは、ブルースの生還に2度目の驚愕を味わい、勢い余って顎から床に激突した。
「クラーク……」
ぴったりした黒い水着1枚のブルースが、クラークの前に屈み込む。締まった足首には重たげな鎖が付けられている。潜水の訓練をしていたのだ。
距離が近いだけに、しなやかな脚を水が伝っていくのが良く見える。濡れた肌が日差しで輝き、誘うようだった。
珍しい姿に陶然としかけたクラークだったが、しかし世の中そう上手くはいかない。
「転ぶ前に、飛べ。でなければ、せめて、浮け」
「――ごもっともですが、ミスター・ウェイン。この責任の一端は貴方に……」
さっと伸びたブルースの手が、鮮やかにクラークの尻を叩き、抗議は強制的に終了させられた。
履き直したズボンは案の定、少なからず濡れていた。膝から腿にかけては素肌に――正確には下のタイツに――貼り付いている。
「替えを」
「あ、大丈夫だ。気にしないでくれ」
プール際のベンチに腰掛けクラークは言った。帰途に飛びながらズボンを持っていれば、天然の風ですぐ乾くだろう。
クラークの意図が伝わったのか、ブルースもそれ以上押しては来なかった。先程の脱衣時に放っていた鞄を渡してくれる。その足首にはもう鎖は付いていない。
「プールの中に放り込まなくて良かったな」
「場所くらいは考えてコントロールしているよ」
「その割には随分と慌てた様子だったが?……しかし、お前が土左衛門などという珍妙な単語を知っているとはな」
自分の醜態を思い出し、クラークは苦笑しながら鞄を受け取った。こちらはズボンと異なり、端の方がやや湿っぽくなっているだけだ。
「あれかい?紀元前1200年から存在している、人に取り付く水の悪魔だとか何とか……」
「待て」
ブルースの手が力強くクラークの肩を握った。先程と同じく彼の顔が急接近して来るのを、ややどぎまぎしながらクラークは見入ってしまう。
「誰から聞いたんだ?」
「だ、誰からって、ファントムストレンジャーから」
摩訶不思議なる彼の来訪者は、滅多にウオッチタワーへ顔を出さない。しかし先日はどんな気紛れか、その夜が滴り落ちたような姿で唐突に出現し、そしてクラークに淡々と語っていったのだ。
「…そうか、彼か、彼なら信じても仕方ないな」
肩からブルースの手が離れていく。世界の果てでも見ているような眼差しで、静かに首を振った。
「オリーかハルが発信源ならば、疑えと言った所だが」
どうやら怒らせずに済んだらしいと、クラークもほっとしてブルースに知識を披露した。
「そうだよね。外宇宙から地球に墜落して、今は北アジアに生息しているそうじゃないか。まさかこんな所に出る訳が」
「何故すっかり信じて使うんだお前は!」
結局降ってきたブルースの怒りと訂正に、クラークは目を丸くして立ち上がった。
「嘘なのかい?!」
「丸分かりだろうが!説得力の欠片も……」
「ブルース、じゃあ君はあのファントムストレンジャーに怪奇話をされて、信じずにいられる自信があるんだね?」
答えは無くとも沈黙からはっきりと理解出来た――無い、と。
生きて動く予言書じみたかの人には、ブルースも様々な体験をさせられている。聞いた限りでは平行世界に飛んだり、古代文明の一片を垣間見たりと、超常現象に懐疑的な彼も信じずにはいられぬような事があったらしい。
「…まあ、あの男を信じるなと言う方が無理か……」
流石に弱気な言葉を呟くブルースに、ああ、とクラークも同意した。
とりあえず今回は、そんなストレンジャーも冗談を言うのだと知れた。それで良しとしよう、と言い掛けた時、ブルースが小さく身を竦めた。考えてみればずっと彼は水着1枚なのだ。
「上がるかい?タオルを」
「いや」
ベンチのタオルを取ろうとクラークは振り返る。しかしそれをブルースは留め、少し黙ってから口を開いた。
「少し泳ぎたいのだが、時間はあるか?」
「じゃあここで待っているよ」
潜水後に水泳、というトレーニングの流れであったのだろう。クラークは快く頷き、再びベンチに腰を下ろす。
「すぐ終わらせる」
そう言ってブルースは踵を返した。歩を進める度に、動くしなやかな筋肉がよく分かる。薄い水着の盛り上がる様が扇情的に見えて、クラークは鼓動の早まりを覚えた。
程なくして水音が広いプール中に響き渡った。鮮やかな抜手が翻り、飛沫の合間から長い脚が姿を現す。どれ位泳ぐつもりか知らないが、あっと言う間にブルースの体は端に到達してしまう。かなり速いペースに思えた。
泳ぐのが得意ではないクラークから言えば、自分とは別の生き物だ。ただのクロールなのに、一掻き一掻きが魔法のようである。水の抵抗など感じさせぬ優雅さでブルースは進んでいく。
8往復ほどしても全く落ちぬ速度は弾丸だろうが、それに例えれば気を悪くするだろう。かと言って魚にも見えない。翻る長い手足はまるで、そう、まるで――
「鳥みたいだ」
詩的な気分に背中を押されるまま、クラークは小さく呟いた。
「終わったぞ」
はたと気付けば、その鳥はプールの端に手を付き、水から上がる所だった。瞬きを3回ほど行ってから、クラークは傍らのタオルを手に取り、そちらへと駆ける。
半ば呆然としていた思考は、濡れたブルースの姿で別の方向へ覚醒した。黒い水着が逆にブルースの肌の白さを引き立てる。本来ならば健康的な格好であるが、妙になまめかしい。目を逸らすと、矢張り白いうなじに一筋、ゆっくりと水の伝うのがまた卑猥だ。
考えてみればこんなに明るい場所で、彼の裸を見た事などあったろうか。無い。状況的に最も近いのは風呂かもしれないが、ブルースは信念にも似た頑固さで1人のバスタイムを守り抜いていた。
寝室でならば数えるのが不可能なほど見ているが、薄暗い空間だ。クラークの視力に支障は無いが、矢張りこのように眩い空間で見るのとは違う。しかも正々堂々と見られるとは――
「クラーク」
「何だい?!」
上擦った声で反応した鋼鉄の男へ、珍しく怪訝な顔ひとつせずブルースは言う。
「待たせて悪かったな。お前にとっては犬掻きよりも遅く見えただろう」
「いいや」
きっぱりとクラークは首を振った。冗談ではない。どのように伝えようかと迷いながら、結局素直に言う事を彼は決めた。
「綺麗だったよ。それに、早かった。…一緒に泳げば良かった」
最後になって飛び出した、自分でも思わぬ本音は、ブルースにも等分に驚きを与えたらしい。目が丸くなる。曇天の海のように厳しい色を湛えた瞳が、やがてふと、晴れ間が差したように和らいだ。
「平泳ぎが出来るようになればだ」
「じゃあ出来るまで、君が特訓してくれ」
「さてどうするか」
裏に隠された楽しげな響きは、彼が満更でもないとクラークに示している。だがすぐブルースはクラークから離れ、入り口へと歩を向けた。
腕を伸ばしても届かぬ距離になった所で、ブルースは振り返り、まだ湿って柔らかそうな唇で微笑んだ。
「容赦が無くても構わないなら、な」
当然、クラークの答えは1つに決まっていた。
その後、本当に容赦無いブルースによって、散々悲鳴を上げさせられる――と囁く理性の声は、無視した。