「いっそ剃った方が良いんじゃないか?」
 5人分の視線が提案者のハルへと向けられた後、一斉にオリバーへと移っていく。
 正しくはオリバーの、髭に。

髭、眼鏡、そして仮面

 ハルの口調はごく軽やかだったが、オリバーにとっては死の宣告と等しいものらしい。たちまち目元が歪み、右手が口を――正しくは口髭を庇う。
 彼の慌て様を見逃すほどJLAは甘くない。どっと笑い声が起こる。監視の交替時間や各人の暇が重なった結果、いつになく大勢を集めた司令室は、天井を僅かに揺らしたようだった。
「なあオリー、大事なのは分かるけど青くならなくても」
「誰が青くなったって?」
「俺の横にいる緑色の男さ」
「ハル!」
 左手には超高速で髭を弄ろうとするバリー、右手には指輪から鋏型の光を出すハル。この2人に挟まれたのがオリバーには運の尽きだ。ブルースはゆったり腕を組みながら、真向かいのクリスマスカラー3人組を見物していた。
 しかしクリスマスカラーと言うには緑の割合が多い、と思ったのが伝わったのだろう。両脇からの妨害に耐えていたオリバーと目が合った。バリーの手を掴みながら彼が叫ぶ。
「おいバッツ!お前の所為だぞ!」
「私が?何か間違っていたか?」
 肩を竦めてみせても、オリバーの怒りは留まらない。エメラルドの鋏――大きさからして明らかに散髪用ではなく、裁縫用だ――から器用に逃げつつ言葉を被せて来た。
「お前、“しかしオリー、その髭は目立ち過ぎる。もっと地味にする方法は無いのか、うん?”なんて言いやがった癖に!」
「…その状況で声真似とは余裕だな。ハル、やってやれ」
「サー、イエッサー!」
 1人での漂流にも無人島生活にも耐え抜いた男が、ここで初めて断末魔の悲鳴を上げた。今日は彼にとって記念すべき日になるだろう。
「まあまあ皆、落ち着いて」
 だが断髭式は、それまで苦笑していたクラークに止められる。ブルースの右横で、広い机に肘を突いたまま、彼は穏やかに手を振った。
 動きに合わせてエメラルドの鋏が消え、緋色の手がオリバーの肩を離す。すかさず椅子ごと猛然と後退したオリバーは、そこで一息付くと宙を見上げて呟いた。
「全く……どいつもこいつも俺のダンディさに嫉妬しているのか?」
「切るぞ?」
「毟るよ?」
「拒否だ、拒否!」
 鋏がしゃきんと鳴り、緋色の指が蠢く。流石のオリバーも髭を抑えて更に後退した。緑の手袋から、少々零れた金色が、光を受けて誘うように煌いている。
「2人とも、余りGAをからかっては駄目よ」
 すかさず掛かったダイアナの声が、押し寄せようとしたハルとバリーを止めた。しかし微笑みも声音も優しげだが、先程から彼女はブルースの左隣に座っていたのだ。
――もっと早く止めてやれば良いものを。
 これはクラークにも言える事だ。そう思うとブルースは、何はともあれ口を出した分だけ、自分の方がずっと優しいような気がしてならなかった。尤もオリバーに言ったら否定されるに違いない。
 代わりに彼の髭に視線を向けたまま、ブルースはずっと考えていた事を言った。
「冗談はさておき、オリー」
「…何だよ」
 見上げる目が不信がちなのは気にせず、ブルースは身を軽く乗り出して続ける。ただでさえ大きな円卓を挟んでいる上に、オリバーが後退しているお蔭で距離感が掴み辛い。

「先程も言った通りだ。その髭はお前の正体を容易く導き出してしまう。役立つのは19世紀ヨーロッパに潜入捜査する折くらいだろう」
「プロイセンなんか良いだろうね」
「ロシアでもいけるぞ!」
「当時はソ連じゃないかしら」
「……お前らな、説得するなら真面目にやれ」

 至極尤もな事を言って、当の説得されている相手は肩を落とす。だがオリバーが顔を上げた時、彼に矢先を向けられたのは、矢張りクラークだった。
「俺よりもバッツ、こいつの方を心配してやれよ。マスク無し、ゴーグル無しの素顔で、しかもダイアナのように正体明かしている訳でも無し、だ」
「こっちは安心してくれ」
 答えて大きな掌を振るのは、ブルースではない。デイリープラネットにいる折のような、春風駘蕩とした笑みを浮かべてクラークは言う。
「忘れたのか、オリバー?僕は素顔が眼鏡付きなんだ。言わないと誰も分からないさ」
「畜生め、そこは気を遣えってんだ」
 帽子ごと頭を抱えたオリバーに周囲が笑う。
 ブルースはそれに合わせて呆れたような溜息を吐きながら、別の思考に気を取られつつあった。
 そう、他のヒーロー達――自分も含めて――は皆、素顔を隠して活動している。なのにクラークはどうした訳か、“スーパーマン”の時には素顔を晒し、“クラーク・ケント”の時には素顔を隠すのだ。
 何故かと問えばクラークは、初めて聞かれたという風に瞬きを繰り返し、それから小さく首を振った。
『深い理由は無いよ。力のコントロールが利かなかった頃は、駄目な奴を装わなければ疑われかねなかった。その名残かな』
 話はそれで終わったが、彼の言葉は梅雨時の雲のように残っていた。
 妙に気になるのだ。クラークが最も彼らしくいられる時。それが鋼鉄の男でいる時なのだとすれば、普段のクラーク・ケントの時はなんなのだろう。
 眼鏡を掛けて背筋を丸め、少々とろくさくて、間が抜けているあの姿が演技なら――彼は辛くないのだろうか。

「でも普段どじを演じるのって、辛くないか?」

 不意に聞こえたバリーの声が、ブルースの心臓を跳ね上げさせた。それこそ鋼鉄の男ででもなければ出来ない真似である。
 しかしながらバリーは蝙蝠の鼓動の変化になど気付かない。相変わらずのゆったりした口調で、クラークに向けて喋っている。
「僕なんか1つヘマする度に落ち込んだものだよ。今は余り無いけど」
「遅刻を除いたらな」
 横入れしたハルの口が緋色の手で塞がれた。バリーは確かにのんびりした男だが、いざと言う時の反応は目を見張るものがある。特にこうしたやり取りでは、頭の回転も手の出る速度も異様に速いのだ。
 意見を封じられたハルが何か呻くのにも構わず、バリーはクラークを促すように首を傾げる。ブルースも視線をクラークに向け、耳に神経を集中させた。
「まあ嫌になる時もあるけど、慣れたからね。…それに」
 クラークがそこで言葉を切って微笑んだ。今度の笑みは先程のものと異なり、悪童じみた鋭さを感じさせる。ブルースにちらりと向けられた夏空の瞳も、悪戯な光で明るく輝いていた。

「僕以上の演技達者が、ここに1人いる訳だ。彼に比べればまだまだだなって思えるよ」

 背後から何か来る、と感じた時は遅かった。伸びたクラークの手が、ブルースの背中を親しげに何度か叩く。思い掛けない動きにブルースは抗議の声を上げようとしたものの、今度はがっしりと肩を掴まれてしまった。
「ああ」
「納得したわ」
「あの王子様っぷりはな」
「お前達……!」
 深々と頷く一同を問い質したいが、しかしあれは周囲を欺く為にやっている演技だ。彼らが納得するようならば大成功である。ブルースがどうこう言う余地は無い。つい口を噤んでしまった。
 そこへ上機嫌そうな顔のクラークが、視界を占有する近さで覗き込んで来る。思わず飛び上がりそうになったブルースの動きも、しっかり手で抑え込み、彼は陽気に片目を瞑った。
「と言う訳でブルース、これからも先達としてよろしくご指導頼むよ」
「誰が指導などするか!」
「そうね、その辺2人は似た者同士だから安心だわ」
「ダイアナ!」
 クラークの顔を押しのけ、微笑ましげに言うダイアナへ釘を刺したが、話はとうとう“ブルース・ウェイン”の王子様伝説へと摩り替わってしまう。特にオリバーは意趣返しもあってか、実に活き活きと語っていた。

――似た者同士か。

 自分の事は棚に上げていたが、そうなのかもしれないとブルースは改めて感じた。自分もどこか、バットマンである時には開放感を覚え、そしてブルース・ウェインの時には演技をしている。
 ならばきっとクラークも、身を切るような辛さなど感じてはいない筈だ。彼の言通り、嫌気が差す事はあっても、だ。
 何故なら道化を演じている時、そこには必ず、少なからず楽しんでいる自分がいるからだ。でなければ何十年も演じ続けられる筈が無い。どれ程かけ離れているようでも、それも自分の一部なのだ――。

 幾許かの安堵を抱えて、ブルースは話の矛先を一身に受け続けていた。
 今度バリーにタイムトラベルをさせて、オリバーを19世紀プロイセンに送り込んでやろうと、半ば真剣に検討しながら。

最初のタイトルは『情熱のプロイセン』でした。
ラストはうっかりしたバリーのお蔭で全員プロイセンにGO!の予定でした。
タイムスリップ出来ると色々楽しめて良いですね。

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