夜よ来い

 夏は暖房、冬は冷房付きと言われるゴッサムにも、ようよう良い季節が訪れようとしている。邸を囲む森や草叢には緑が芽生え、こう表現するのも何だが、「らしくない」ほど優しげな気配が満ちていた。
 しかし春の陽気に誘われるのは、何も植物や虫ばかりではない。生き物としての本能が何かを告げるのか、週の平均気温と競うようにして犯罪の発生率も上がっていた。
 最も厄介なヴィラン達の動向に変わりは無い。彼らのいかれた本能からは、寒さを厭い暖に喜ぶ習性などとうの昔に拭われているからだ。むしろ問題なのはその他の、ヴィランと名の付く訳でもない、ごく普通の犯罪者達の方だ。路上での犯行が特に増え、道行く住民の耳に、蝙蝠の羽音の届かぬ日は無いほどであった。
 かくして蓄積された疲労は、肉体へと声高に休憩を求める。
 常日頃は無視されがちな訴えは、今回は新年度という事もあって特別に受理されたらしい。春眠暁を覚えずとはこの事か、と、クラークは首を捻って真下を――ソファで寝転んでいるブルースを見下ろした。
 窓からカーテン越しに注ぐほっそりとした陽光が、躊躇いがちに鍛えられた肩から腰までを撫ぜている。薄い毛布代わりにはなっているのだろう。先程一瞬とは言え窓が開いたのに、ブルースに寒そうな様子は全くなく、頬の緩め具合からして心地良さそうだ。ほんの少しだけ開かれた唇にも、普段の神経質なまでの緊張が全く窺えない。
――どうしたものかな。
 そう口中で呟いてみても、「起こす」という選択肢はクラークの内に生まれなかった。一方で調査を頼まれていた書類を置き、来た時と同様静かに立ち去る、という選択肢は生まれてはいる。
 が、それを選んでしまうには、この光景はなかなかに勿体無いではないか。
 安全極まりないウオッチタワーだろうと、物慣れたウェイン邸だろうと、ブルースは眠っている時も気配の探索を怠らない。何かあればすぐに覚醒してしまえる。例えそれが、良く知っているクラークの来訪でも、だ。
――だけど今日は。
 違っている。長い手足をきゅっと縮めて、ソファで丸くなっている。まるで子どものように。
 ただ子どもにはない、瞼の下の薄い翳りといい、月明かりの下にいるような顔色といい、矢張り近頃は忙しいのだろう。昼間の睡眠が取れそうな時間も、犯罪者の傾向と対策に費やしているに違いあるまい。
 彼は人の子なのだ。犯罪者を倒す毅然とした横顔、ドゥームズデイをも斧で叩き潰す様など、不死身と思わざるを得ない彼の映像が脳内を駆け回るというのに。それでも彼は眠らねばならぬ、ごく普通の人間なのだ。
 人の子。つまり自分の体が終わる時よりもずっと早く――彼の終末は訪れる。

 不意に背中を寒気が走り抜けた。

 クリプトナイトを突き付けられた時より酷い。穏やかな風景に不釣合いな想起が、喉を詰まらせ冷や汗を流させる。
分かり切った事である。必ず人は終わるものだ。しかし言い聞かせてなお消えぬ不安感に、クラークは少なからず戸惑った。

――もし彼が「いなくなった」ら、僕はどうなるのだろう?

 暗い想起を打ち破るように、廊下から足音が聞えて来る。少しせっかちな歩調と心拍数から考えて、相手は恐らく、ブルースが大事に育てている駒鳥だ。彼が眠っている事など知りもせずここへ来て、元気良く扉を開けるだろう。流石のブルースも目覚めるに違いあるまい。
 手の中の書類と、真下の彼とを等分に見比べてから、鋼鉄の男は軽やかに窓へと飛んでいく。窓枠の軋みもカーテンの衣擦れも許さずに窓を開けると、クラークは1度振り返った。
 ソファに収まる長身はそれでも、果てなく続くケープを翻し、悪夢の登場人物のように巨大な夜の姿に比べて、随分と小さく見える。時としてひどく苛立たせるあの怪物じみたものが、今のクラークにはひどく、懐かしかった。
「また、夜に」
 小さな呟きに残滓がある筈もない。書類も手の内にあり、一瞬で開き閉じた窓からは、春風のひとつも室内に迷い込まない。
 何ひとつ自身の痕跡を残さぬまま、クラークは未だ夜には遠い空へと飛び立っていった。

最初はいちゃつく話にするつもりが暗くなりました。
S/Bではよく「彼が普通の人間だという事を忘れそうになる」と超人が言っていますよね。
それにDSAでのやり取りもありますし、蝙蝠が普通の人間と思いたくないのは、蝙蝠自身よりも超人の方かもしれないなと考えてしまいました。

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