セント・バレンタインの僥倖

 バスルームで響いた「しまった!」という呟きは、キッチンのブルースにも届いた。
 1人暮らしの狭い室内だ。超人ならぬ耳にも、クラークの良く通る声ならあっさり聞こえてしまう。ブルースは軽く目を瞬かせたが、構わずコーヒーを注ぎ続けた。掃除中のバスルームはクラーク1人で一杯一杯なのだ。彼同様にかさばる体積のブルースが行っても仕様がない。コーヒーを片手にソファへと腰掛け、持て余し気味に長い脚を組む。暖房が行き渡り始めているとは言え、2月の室内はまだ冷えて、じくりと古傷を疼かせた。
 シャワーの音が消え、バスルームから背中を屈めてクラークが出て来る。どうした、とも聞かずに、ブルースはただ、彼用のコーヒーを差し出した。クラークも当然のように受け取るが、しかしソファには腰を落ち着けようとしない。眼鏡がコーヒーの湯気で曇るのも気にせず、濃い眉をきゅっと顰めている。
「参ったよ」
「何がだ?」
「シャンプーが切れそうなんだよ。リンスもだ」
「切れる時は一気に、と言うやつか」
「あとボディソープと、洗剤もバスルーム用とキッチン用と、あとひょっとしたらトイレのも――」
 不器用そうな丸っこい指が次々折られていく。黙って眺めていたブルースだったが、クラークがコーヒーをブルースに預けてからは眉を寄せ、更に足の指を使う必要が出て来た頃にはとうとう「待て」と言ってしまった。憮然とした、見る者によってはとても彼らしい声色だった。
「一気に切れるにも程があるだろう」
「い、いや、君には分かり辛い話だと思うよ。1人暮らしの経験が無いだろうし」
「文明社会での経験は少ないが、流石におかしいと分かるぞ」
 馬鹿にするな、と言外に込めてブルースは言う。少し困ったように眉尻を下げていたクラークだったが、見た目より困っていない事は、ブルースにはお見通しである。受け取ったコーヒーに再び厚手のレンズが曇り、一瞬表情まで靄が掛かったようだった。
「考えて使っているんだよ。全部一緒に切れたら分かりやすいだろう?」
「…面倒だな」
「うん、まあね。でも買い換える時は、これで何回目、って数える楽しみがあるから」
 迷子になった犬のような表情とは裏腹に、さらりとした声でクラークは言った。
「それだけの長さここにいられた、出て行くような事にならなくて済んだ、って」
 成る程、とブルースは納得した――確かに自分には「分かり辛い話」だ。この部屋はクラークにとっても狭いアパートの一室に過ぎない。ウェイン邸という一族代々の根を持ち、そこに住むブルースとは些か感覚の違う次元である。
 だがある事を思った時、コーヒーで暖められた筈の背筋が、まるで氷柱でも差し込まれたように冷たくなった。
 クラークの言う「ここ」とは、本当は「どこ」なのか?
 部屋か、街か、それとも――この星か?
 つい窺うように彼を見たが、顔の下半分はマグカップで隠れている。見えている上半分も、眼鏡の曇りで良く読めない。それでもゆっくり離れていくマグに合わせ、曇りの引いたレンズの奥は、笑っていた。ブルースの鉄面皮に隠された激しい動揺など、既に気付いていると言わんばかりに微笑んでいた。全く普通の、彼一流の笑みとも思えたが、持っているコーヒーの熱さを忘れていたブルースには、どちらとも読み切れる筈が無かった。
「暖まったよ、ご馳走様」
 長い腕を伸ばして、クラークがテーブルにマグを置く。乾いた音が鳴り、ネクタイを解く衣擦れがそれを追いかけた。ブルースが振り仰ぐ頃には、既にクラークは空と太陽から祝福されたヒーローになっている。
「ちょっと色々買って来る。すぐ戻るから」
 どんな意図が込められていた発言かは分からない。分からないがしかし、それに「ああ」とも「待て」ともブルースが言わぬ内に、姿を消していた事から考えると――彼なりに居心地の悪さを覚えてしまう発言だったのだろう。
 ようやく読み取れた事実を呑み込む為、ブルースはコーヒーに口を付け、舌先を軽くやけどした。



「あれ?」
 弾丸よりも速い、という賛辞から想像されるよりも、クラークの帰りは遅かった。
「ブルース、これは……」
「見れば分かるだろう。ボディソープだ」
 クラークが必需品を並べるよりも早く、テーブルの上に鎮座しているのは、ピンク色したボトルだった。室内に漂うのは淹れ直されたコーヒーの香りだが、ほんのり淡く花の匂いも混じっているのは、このボディソープの仕業だろう。クラークはさっとゴミ箱に目をやった。今朝綺麗にさらったその中には、クラークの愛用している店よりもアパートに近く、しかし商品の値段がやけに高い店のレシートが縮こまっている。
 悠々と、クラークが出掛けた時とほぼ同様の体勢を取っているブルースは、その時よりも少し満足そうな色を声に滲ませている。この頃のゴッサムの海と良く似た瞳が、クラークの持っている袋にちらりと流れた。流し目1つで人を落ち着かなくさせる芸当は、矢張り彼の血筋や育ち故なのだろうかと、身分に興味のないクラークでも思ってしまうところだ。
「悪いがお前の愛用品は肌に合わない。私も使う物なのだから、少しは意見を取り入れるべきだろう」
「…今まで1度も言わなかったのに」
「今日こそ言おうと意を決めたまでだ」
 世間言う所の「ゴッサムの王子様」は当然のように吐き捨てる。ただ、クラークの持っているボディソープより二回りほど小さいそれを、足並み揃えて使い切るのはなかなか大変そうであった。
 どうしようか、と早速計算に入りかけたクラークの手から、ぐいと荷物がもぎ取られる。いつの間にか移動していたブルースだった。もう片方の手でピンク色のボトルを手に取り、クラークの目前でこれみよがしに振ってみせる。
「バレンタイン・デーのプレゼントだと思え。おあつらえ向きに薔薇の香り付きだぞ」
「…今年は『乗じるヴィランに腹が立つ。無しだ』と言っていたのに」
「気にするな。行くぞ」
 ぽい、とボトルを荷物の中にブルースは混ぜ込んでしまう。釈然とせず唇を尖らせていたクラークだったが、今度は空いた手を引っ張られて目を丸くした。重力に捕われる常人のようにつんのめりつつ、もう片方の手で大荷物を持ったブルースに引かれて行くしかない――バスルームへ。
「ブルース?そ、そこで何を?」
 我ながら、サスペンス映画の脇役が、顔見知りの殺人事件を目撃したような声だった。バスルーム前に立ち、どさりと荷物を置いたブルースは、シャツのボタンを開けながら言った。
「バスルームでする事は掃除と入浴だろう」
「前者なら既に僕が」
「ああ。消去法でいけば後者だな」
「そこで第3の選択肢を新たに作るのかい?」
「子どもの引っ掛け問題のような事をするか。入浴だ。脱げ」
 目撃者は真犯人に殺されるのがセオリーだが、クラークも正直死にそうだった。
 彼との付き合いは長い。色々と関係がこじれ混ざって、現在のような関係になってからも、それなりに長い。前世紀に流行ったようないちゃつき方をした事もある。だが、ブルースは、風呂だけは断固として1人で入ると言い続け、こだわりを守り続けていた。
 我が国の機密機関が見習うべきその頑なさを、ブルースは衣服や下着もろとも脱ぎ捨てたのだ。しかも何の惜し気も無く、照れも見せず、クラークのタイツを引っ張ってすらいる。
「…くそ、矢張りお前でなければ無理か。早く脱げ」
「は、ははは、悪い夢なのかなこれは……。まさかまたモングルの植物じゃないよな……」
 鳩尾に触れたクラークの手へ、ブルースの手が重なった。
 長い指がクラークの関節をなぞり、合間から覗けるSのマークを辿る。衣擦れにもならぬ微かな音が、クラークの脳裏をくらりと揺るがせ、喉を焼いた。
「聖バレンタインの慈悲だと思え。…ボディソープだけでは流石に軽いからな」
 ブルースの唇が薄く広がり、並びの良い歯が見えた。やや長い犬歯の尖りが、以前肌を刺したのはいつだったか。灰を帯びた青い瞳は、バスルーム前の薄暗がりだと、影に飲まれて漆黒にすら見える。自分の目がどこにあっても変わらぬ青と、思われている事などさっぱり分からぬまま、クラークはつい少しずつ彼に顔を寄せていった。
「軽いって、どういう意味だい?」
「お前の好きな浪漫に欠けるという意味だ」
「まさか足してくれると――」
「だから言っているだろう。脱げ」
 荷物の中から再びピンク色のボトルを手に取り、ブルースは囁いた。
「これでたっぷりと洗ってやる」
 かくしてクラークが守り抜いていたこだわりは、まずボディソープから打ち崩され、あっと言う間に落城の憂き目を見たのだった。



 丁度1ヶ月経った頃、前と同じアパートのバスルームで、ブルースは置かれているボトルを片端から振っていく。
 てんでばらばら、工夫しても同時に使い切れなさそうな重みに悪辣な微笑を浮かべ――すぐ目に入ったピンク色のボディソープに、白い頬を赤らめた。

題名は無意味に某海堂氏を意識してみました。
同じ題で別ネタも考えたんですが今回はこっちで。
超人は無意識にでも根無し草発言してそうだと思います。
誘う蝙蝠(全裸)が書けて楽しかったです。

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