薄い菫色に染まった廊下を、くぐもった笑い声が通り過ぎていった。
ブルースは食堂へと向かっていた足を止めた。気の所為かと思ったが、確かに右手から笑い声が聞こえる。
顔を巡らせばそこにあるのは、ディックの部屋に繋がるドアだ。よく耳を澄ませると、聞こえるのは確かに彼の声である。彼以外の気配も感じられないが、しかし1人でいるにしては、随分と大きな笑い方だった。
「ディック?」
辛そうな咳が聞こえた所で、ブルースはドアをやや強く叩いた。途端に、咳が止まる。ブルースは眉を寄せた。
「入るぞ」
返答は無し。拒否も無しだ。
ドアを開くと、ディックは慌てて床から立ち上がっている所だった。横に椅子があるのを見ると、どうもそこから転げ落ちたものらしい。
机に置かれていたノートパソコンを1度閉じてから、ブルースへとディックは向き直る。
「何か用?」
笑顔は昔と変わらない無邪気さだが、近頃めっきり伸びた手足が居心地悪げにもぞもぞと動いている。これならば鋼鉄の男でも誤魔化されまい。ブルースは溜息を押し殺して、顎を机にしゃくった。
「楽しそうだな」
「そうでもないよ」
答えてすぐディックは視線を逸らした。その肩が僅かに震えている。どうやら笑いを堪えているらしいと知って、ブルースはいよいよ眉を寄せた。
これが単に、ディックが馬鹿笑いしているだけならば踵を返して放っておく。だが彼の態度は何かブルースの勘に訴えかけるものがあった。前髪越しにひっそりとこちらを伺う視線、結ばれた唇、そして閉じられたノートパソコン――。
つまり、嫌な予感がする。
世界最高の名探偵は、ディックが俯いた瞬間、彼の脇をすり抜けた。そして原因と思しきノートパソコンに手を掛ける。
蓋は閉まり切っていないから、今開けばディックが何を見ていたかすぐ分かる筈だ。数分前に一瞬だけ目に入った画面には、年頃の青年が好むような画像が無かったから、恐らく極度に気まずい思いはしまい。
だが開けようとしたまさにその時、背中から妨害が襲来した。
「駄目だー!」
「なっ」
鳥のように飛んだディックが腕をブルースの胴に回す。それだけならばまだしも、ほぼ同時に仕掛けられた足払いに、ブルースは思わず絶句した。
――本気で投げ飛ばすつもりか?!
驚きで少しだけバランスが崩れた所へ、ディックが更に力を込める。彼の本気を汲み取ったブルースは、即座に応じて肘を彼の腹へと突き入れた。
勿論、こちらは本気ではない。ディックが回避出来るだけの速度と、命中しても吐かない程度の加減はしてある。
だがディックが腕を放し、ブルースから距離を取るには十分な動きだった。
「あ」
ディックの上体が反る。足払いを掛けようとしていた為、下半身の安定は悪い。ブルースは逆に、彼の足を思い切り良く払った。
青年の重みを一気にぶつけられた床が、抗議の声を上げる。しかし構わずブルースは右手でディックの腕を取り肘を取り、ついでに左手で襟を抑えた。
「ちょ、ちょっと待ってブルースー!」
「何故私にここまで隠そうとするんだ?答えろ」
見事な寝技を決めながらブルースは問う。少しばかり右手に力を込めると、ディックは足をばたつかせながら悲鳴を上げた。
「何で腕挫十字固するんだよ!嫌がっただけじゃ、痛い痛い!」
「腕を痛めて当分休むか?それとも私の質問に答えるか?」
「質問じゃないだろ、拷問だ!」
よいしょ、とブルースはディックの腕を引っ張った。たちまち静けさが部屋に訪れる。
「…言います。見せます」
「良し」
ブルースは手を離して立ち上がり、襟を正した。力無く横たわるディックを置いてパソコンを開ける。
画面に表示されていたのはメールだった。おかしなサイトの類を予想していたのに、いささか肩透かしな気がする。
そしてブルースが送り主と件名に目を通し、背後を振り返る頃には――既にディックは匍匐前進で逃げ出していた。
「ハロー、ダーリン!見たぜ読んだぜメールをよ!」
「…お前もか」
人1人通るのがやっとのような狭い路地で、ジョーカーが器用に両手を振り上げる。発せられた声はまるで快哉を叫ぶかのようだ。
闇に浮かぶ白い顔は、普段に増してご機嫌に見えるが、気の所為だろう。赤い唇が2割ほど吊りあがって見えるのは、きっと目の錯覚だ。
しかしブルースが肩を落としているのにも構わず、ジョーカーは靴音も高らかに距離を詰めてくる。部下を全てブルースに殴り倒されたと言うのに、余裕のある仕草だった。間違いなく、今宵の王子様は上機嫌だ。
「お前があんなに熱烈な文を書くとはな。流石の俺様もちょいと驚いた」
「書いたのは私ではない」
「水臭ぇじゃねえか。言ってくれたら紹介したってのに」
こうなったジョーカーに何を言っても無駄である。話を聞け、と言いたいのをブルースは抑えた。代わりに込み上げた、スパムメール作成者への怒りも、奥歯を噛んで鎮めておく。
ただ、次のジョーカーの言葉ばかりは看過出来なかった。
「まあ選択肢は多い方が良いからな、ちゃんとアーカムの連中にも回しておいたぜ?お前が彼氏募集中だって」
「待て」
ブルースはジョーカーの襟を掴んだ。糊の利いたシャツが皺になる。ジョーカーは少し顔を顰めはしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「貴様、あのスパムをアーカム中に転送したのか?!」
「おいおい馬鹿な事を言うなよ、何十人もいるんだぜ?転送するのは大変だろ?だからちゃあんと印刷して、食堂の掲示板に――」
貼り付ける動作をしたジョーカーに、ブルースの頭が刹那、白く染まった。それを背景にして、ディックのPCで見たスパムメールが浮かび上がる。
送り主の名は『バットマン』。件名は、『素敵な男性募集中』。
あのスパムメールを、あのヴィラン達に見られたとは――人生最大の悪夢だ。
「とうとうお前にも春が来たか、って皆で喜んじまったよ」
大きなお世話と恥以外の何者でもない事をジョーカーは言う。しかしながら「皆」の所で引っ掛かるものを感じ、ブルースはジョーカーを揺さぶった。
「……まさか、お前達が今日アーカムを集団脱走したのは」
「決まっているじゃねえか!」
鈍い恋人に呆れたような顔で、ジョーカーが肩を竦める。
「素敵な彼氏候補をお前に教えてやる為だよ、ダーリン?まあ勿論、俺に敵うような男がいる訳ないが――」
とりあえずそこで眼前のお喋りを黙らせてから、ブルースは深く俯いた。今夜捕まえたのはジョーカーが初めてと言うのに、既に果てしない疲労感が肩に圧し掛かっている。
何とも言えない倦怠感がブルースを包んでいくが、しかし溜息が口から出て行くよりも、後頭部あたりに視線を感じる方が先だった。
ゆっくり視線を振り上げれば、今にも泣き出しそうな雲を背景に、どこにいても目立つ格好の男が浮かんでいる。彼の整った相貌に浮かぶのも、今にも泣き出しそうな表情だった。ブルースの注視を受けて、震える唇が開かれる。
「君が、恋人が、その」
「スーパーマン」
鋼鉄の男が何かを言い切る前に、ジョーカーを地に投げ捨てて、ブルースは人差し指を付きつけた。二の句を許さぬその速度に、クラークが口を噤んで目を瞬かせる。
「私を恋人候補者達に会わせたくないなら、メールの送信者を突き止めて来い。一刻も早くだ」
「え」
戸惑うクラークにきつく眉根を寄せ、ブルースは力一杯叫んだ。
「あの下らんメールと私と、どちらを信じるつもりだ!探しに行かないならお前は金輪際出入り禁止だからな!」
「行って来る!」
答えと共に突風が埃やゴミを舞い上げる。ケープで顔を覆い隠し、それらをやり過ごしたブルースの目に映るのは、ある一点で2つに別れた雲だ。
「…見つけたら只ではすまさん」
「よしてくれよ、ベイビー……」
幸せそうに寝言を呟いたジョーカーの、背中をきゅっと踏み付けながら、ブルースは決意に満ちた表情で夜空を見つめていた。
その後、バットマンの名でスパムメールを送り続けていた少年の元に、件の本人と何故かスーパーマンが現れたと言う。
彼がどんな教育的指導を受けたかは謎だが、それ以降、バットマンの名でスパムを送る者はなかった。