棚機津女の微笑

 メトロポリス・ゴッサム間の幹線道路がギャングによって通行止めにされて1時間。ギャングがヴィラン達に追い出されて1時間。ヒーロー2人が駆け付けてヴィラン達を薙ぎ払うまで矢張り1時間。
 3番目が最も激闘だった事は言うまでも無い。記録を更新した熱気が狂気に油を注いだのか、横転したトラクターや爆破するバイク、流れたガソリンが悪魔の舌に見える火炎瓶、果てはロケットランチャーまで登場し、道路の真ん中は世界の終わりさながらだった。
 肉体の損傷はさほどでもなかったが、コスチュームは夜でもなければ恥ずかしくていられない程ひどい。それを引きずり引きずりして、2人のヒーローが向かったのは、要塞ではなくより近くの豪邸であった。
「……」
 裾からシンボルマークに至るまで、縦にびりりと引き破れたケープを纏いつつ、クラークは濃い眉を寄せる。轟々と粟立つ滝壺を眺める姿はそれでも絵になるが、しかし彼の見ているものは自然の勇壮さではなく、その中に浮かぶ奇異なものであった。
 お池に皿が浮いている――とでも言えば、童謡じみて牧歌的な印象にもなるだろう。
 しかし生憎そのお池は滝壺、皿は流されないよう岸辺と紐で繋がれている、と来ている。
 そして今にも引っくり返りそうな皿の上には、全世界や宇宙の果てを巡り巡ったクラークにも、面妖としか表現出来ない物質が置かれてあった。
「ブルース」
「何だ」
「…出来る事なら『それはこっちの台詞だ』と言いたいよ」
 クラークは皿を拾い上げた。黄色とシトラスグリーンの爽やかな色合いで渦巻きが描かれている。きっと北欧かどこかの名品だろうに、ここまで手荒く扱えるとは。
 背中を向けたままのブルースをじろりと見ても、彼は親友がこれだと言わんばかりに、巨大コンピュータと向かい合っている。眼前に突きつけてやろうか、と考えが浮かぶのは疲弊してささくれ立った神経のせいか。クラークは声音だけは穏やかに親友へと言った。
「この、ヤマアラシみたいに針だらけの変色したモッツァレラチーズは何だ?ザタンナやワンダーウーマンにおまじないでも教わったのかい?」
「…半ばはお前の言う通りだ。ただ」
 思いの他早くブルースが振り返り、スーパースピードで彼の真横へ移動したクラークは固まった。タイミングを逸した鋼鉄の男に、真夏でも冷え込むような一瞥をくれてから、ブルースは何事もなかったように語り出す。
「それはチーズではない。発酵食品だが、豆腐という物だ」
「聞いた事があるよ」
「結構。針が刺さっているのは『おまじない』だからだ。しかしそれも私が彼女達から聞いた訳ではない」
「では誰が?」
「アルフレッドが」
 クラークには思いもよらぬ人物の名だった。アルフレッドならば『おまじない』や妖精の類に詳しくてもおかしくないが、豆腐とはなかなかに東洋的ではないか。
「…意外だな」
「私ならばやりそうだとでも言うのか?」
 ああ、と頷きかけたのを咳払いで誤魔化し、クラークは針がびっしり刺さっている豆腐をつつく。触った感じはモッツァレラチーズより少し固い。しげしげと見つめる鋼鉄の男に、どこか軽やかささえ感じられる声音をブルースが投げた。
「食うなよ」
「た、食べる訳がないだろう!?こんなに針が刺さっているのに」
「お前ならば消化出来るからな。抜いた所で危険は残るが、食べ物を無駄にするのは勿体無いとアルフレッドも考え込んでいた」
「じゃあ作る必要ないだろうに……」
 全くこの屋敷の住民は訳が分からない。その筆頭たる闇夜の騎士は、話は終わりだとでも言うつもりか、椅子の背からぶら下がっていたケープをさっと引いた。
 しかし常なら夜の帳のように巻き起こるそれも、今日ばかりは勝手が違う。死近距離で浴びた爆風や、もっと至近距離で受けた刃物や凶器の数々が、広がるべき闇に風穴を開けていた。自身のそれと引き比べても明らかに無残な有様だ。クラークは少し目元を暗くする。改めて見ると露出した唇はいつもより生気が薄く、頬も幾分か削げて見える。
 戦っている間はそう気にしない事ではあるが、終わってみると矢張り、ブルースは「普通の人間」であった。
 出来るならば余り意識したくない問題だ。顔を背ける為の良い話題は――矢張りこの白い物体である。
「で、でもアルフレッドがわざわざ作るなら、何か効能があるんじゃないかい?」
「今日は聡いな」
 疲れで常より表情筋も緩んでいるのだろう。ブルースがちらりと笑みを見せた。
「東洋では7月7日に星の神を祀る儀式が行われるそうだ。乞巧奠と言って刺繍技術の類が上達するよう祈るものらしい」
「…刺繍だから針は分かるけど、どうして豆腐なんだろうな」
「…そこまでは分からんな。アルフレッドは中華街で聞いたと言っていたが」
 そう言ってブルースは首を傾げる。この様子では刺した後にどうするかも良く分からず、乾燥させるのも勿体無いので、とりあえず水辺に浮かべておいた、という所なのかもしれない。つい苦笑したクラークに、ブルースも別段咎めの視線を向けず、針と豆腐とスーパーマンという珍妙な取り合わせを眺めていた。
「しかし、刺繍と言えば」
 マスク越しの視線は鳥のように下降し、引き裂かれたクラークのケープで留まった。
「7日よりはむしろ今日に相応しいかもしれないぞ、スーパーマン」
「それは――成る程」
 微風にびらびら揺れるケープは、刺繍の腕を試すに打って付けの品に見える。
 普段はコスチュームから要塞の手入れに至るまで、全てロボットに命じているクラークだ。流石にシャツのボタン程度は自分で付けるが、スーパーマンに必要な物は全て彼らに任せ、1人で悠々としている事が多い。
「確かに、やってみたら面白いかもしれない」
「ああ。普段はロボット任せだろう」
「…君もそう変わらないと思うけどね」
 どこか小馬鹿にした匂いを感じ取り、クラークもアルフレッド任せ、という言葉を滲ませ顎をしゃくる。途端にマスクがきゅっと中央、つまり眉間に向かって寄せられる。柔らかかった唇の線も、クラークの異名さながら強張った。ある意味では非常に彼らしい表情だ。
 しまった、と思うよりも、良いぞ、と思ってしまったのは自分も疲れているからか。それ故の判断力の乏しさからか。はたまた――先程ちらりと感じた、彼の人間らしさの所為か。
 先程と同じく問題を棚上げし、クラークは空いている片手でブルースの、件のケープを指差した。
「たまには自分でやってみるのも良いんじゃないかい?難しいようなら手伝おうか」
「結構だ。…しかし、お前と刺繍か」
「悪くないだろう。幸い、針なら沢山あるんだ」
「…そうだな。お前が力任せに折ったとしても、この数なら大丈夫か」
「そうとも。ああ、でも君には糸が不足しているかもしれないな。絡まってしまったら切らなければならないから」
 両者、睨み合う事数秒。
 これで言い争いの不毛さや下らなさに気付く位なら、逆に互いの基地に出入りする程の仲は築けなかった、とワンダーウーマンあたりは好意的に解釈してくれるであろう。
「ハンディキャップは不要かい?」
「お前が欲しいならくれてやるぞ」
「お断りだな!」
「上等だ!」
 しかし売り言葉に買い言葉、自身から挑発しながら沸点まで到達しつつあるクラークには、流石のプリンセスもお手上げだろう。更に挑発と知りつつ彼同様、沸点超えを果たしつつあるブルースにも、ノーコメントを貫くに違いあるまい。
 早速取り出された糸と、豆腐に刺さっていた針が、ヒーロー達のケープを繕い始めた。

「……縁結びの効能まであるとは存じ上げませんでした」

 岩壁に隠れた執事の呟きも全く耳に入れぬまま、2人の手は猛然と動く。
 不慣れと熱中と好敵手意識が波のように去る頃、彼らの間には同じ位に無残な有様となる布が残されるのだが、それを予見するのはアルフレッドのみであった。

ケープ用の縫い針がございますと言わないのは思いやりです。
豆腐に針は折口さんの本で読んだ覚えがあるんですが、記憶違いの可能性大なり。
でもファイルの名前がtouhu.htmlな事に意気込みを感じて頂ければと以下略。
ビギンズ小説の坊ちゃまは東洋嗜好なので、アルフレッドも中華街行ったりしてそうです。

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