「俺は誰だ?」
ロビンではない。
「俺は誰だ?」
ジョーカーでもない。
「俺は誰だ?」
ならば僕は誰だ?
Odi et amo
壊れたクーラーは奇妙なうなり声しか出さない。最近はまた電気代が上がっているのだから金の無駄だ。リモコンを取り上げ、切った。途端に静かになる。
1人きりの狭い部屋。安普請なら隣の話し声が聞こえてもおかしくない。だけど狭さや高い家賃と引き換えに、手にした防音効果は抜群だ。この前なんて、向かいの部屋で殺人が起きても気付かなかった。
小さなソファに寝転んで、2日ぶりにテレビの電源を入れてみた。脳を攻撃する強烈な色彩と音。笑えない下品なジョークの数々。
向かいの部屋に住んでいたのは若い女だった。死後1週間経って死んでいるのが分かった。この街にしては早い方だ。運の悪い犠牲者ならば、半年以上気付かれない。臭いに近隣住民が苦情を出した所で、大家か警察が対応してくれるまで1ヶ月ばかり待たなければならない。
『ゴッサムシティでは昨日、観測史上、最高気温が叩き出され……』
『2週間ぶりの更新記録ね』
赤毛の女だった。エレベーターに乗り合わせた事がある。この街で、男と2人きりの状況では、警戒しない若い女がどうかしている。が、エレベーターを下りるなり駆け出していくのを見ると、流石に傷付いた。
発見した原因は矢張り死臭だった。ドアをこじ開け奥に入ると、バスルームに死体が浮いていた。恋して愛した人と良く似た髪が、水面にゆらゆら揺れていた。
『ゴッサムから最新のニュースをお届けします』
こんなものだ、この世界は。例え部屋の向かいに元ヒーローが住んでいたところで、何も出来はしない。そんなものに成り下がったんだ。
もうずっと前からだ。10年以上前から。あれほど華々しく存在していたヒーロー達は姿を消し、個性的なヴィラン達も逮捕されていった。或いは潜んだ、或いは仮装を脱いで犯罪を行った。
世間はタイツ姿のヒーローこそが、彼らを犯罪に駆り立てたと拳を突き上げた。その糾弾もやがて無くなり、気付けばもう、彼らの存在を忘れたかのように動いている。
『昨夜の脅迫事件に関するニュースです。ツインタワーを爆破すると脅迫した、通称トゥーフェイスことハーヴェイ・デントは無事逮捕され……』
――トゥーフェイス?
ここ2日ばかりは忙しかったのだ。向かいの部屋の殺人事件で、容疑者として疑われたのだから。警察の事情徴収で事なきを得たが、彼らの視線は一様に疑念を含んでいた。
そう言えば解放された日は、随分と署内が慌しいと思ったが。
まさかトゥーフェイスが再び事件を起こすとは。しかもそれほど派手な物を。
巧妙に仕掛けられた爆弾、待ち構える犯罪者の群れ、サーカスショーのように注意深く演出された犯行予告……
馬鹿な。何を考えている。
頭を振ってニュースに集中した。どうやって警察は彼を捕まえたのか。
ニュースは思考を置いて過ぎ去ったようだ。別の言葉をキャスターが紡ぎ出す。
『…これがその映像です』
画面の向こうでは、荘厳なゴシック建築のビルが黄色の光で照らされている。黄色の光。いや、それは単に影を浮き立たせる為の光に過ぎない。そしてそれはビルを照らしている訳でもないと、すぐに分かった。
描かれた美しい弧。鋭いエッジ。恐怖を敵へ与える為に作り出された、影絵。
ゴッサムの闇夜を照らす蝙蝠。
バットシグナル。
テレビの画面がスタジオに切り替わった。
僕の脳は切り替われないままだった。
「ブルース」
ずっとその名前だけを呟いていた。
長々と続いた取調べが終わり、クーラーが直った途端、雪が降った。
クーラーの部品と一緒に、食料品を買っておいて正解だった。あちこちでパニックと暴力が起こっている。通いの食品店は真っ先に潰された。レジにいた愛想の良い老人も死んだろう。
部屋に閉じこもっている限りは安全だ。あくまで今の所は、だが。幸いな事に電力は復活して、奥に閉まっておいたヒーターくらいは使えるようになった。
復旧した電話回線で、最初に話をしたのは、ティムだった。家のガレージが焦げたとぼやいていた。冷静な口調に変わりはない。
「彼だと思わないか」
無事を聞いて来た後、ティムはそう言った。
「ミサイルの弾道を変えた“奇跡”が?」
核爆弾投下を聞いて、アメリカ全土がテレビに集中していた。電磁パルスの影響が来る直前、テレビのクルーは言ったのだ。
「弾道が変わった。ミサイルが向きを変えた」と。
飛行機が落下しても、火事が起きても、暴動が発生しても、核ミサイルの直撃で死ぬ人数よりは遥かに少ない。
紛れもないこの“奇跡”を起こした者に、心当たりはある。
神ではない。神ではないが、地球上で暮らすものの中では、最も神に近い男。
「…彼かもしれないな」
もう10年も表舞台に登場しない、我らの青きボーイスカウト。
酷い目に合っていなければ良い。願う事しか出来ないけれど、そう思う。
「ブルースは何か?」
「いいや。電話もしていないよ」
「そっか」
ティムは落ち着いた声でそう言った。今や全世界を飛び歩く彼が、この時期この国にいたのは不運だったかもしれない。それでも、彼の声を聞けたのは喜びだ。
「なあディック」
「何?」
「あんた、あれを……」
「歯切れが悪いぞ、名探偵」
「――“ロビン”を見たかい?」
笑い声は宙に消えた。
暗闇から出ようとしなかったバットマンは、宿敵を捕らえる為に昼の遊園地に現れた。彼の姿は辛うじて現れなかったものの、代わりに大写しになったのは、ロビン。
ロビン。驚異の少年。かつては僕がそうで、ジェイソンがそうで、ティムがそうであったもの。
衣装は昔と少し変わっていたけれど、あれは隠しようもなく“ロビン”だった。
僕が作り、ジェイソンが受け継ぎ、ティムが終わらせた筈のもの。
「見たよ」
「…やっぱりね」
ジェイソンの事の後、バットマンにはそれが必要なのだと口説き落とし、ティムは3人目のロビンになった。
ヒーロー達の存在が突き上げられ、法案が提出された時、ブルースはティムを辞めさせた。ティムも反対しなかった。法案が通るにせよ通らないにせよ、バットマンの引退も間近に迫っていると、ティムは感付いていたのだろう。
「あれだけ“2度とロビンは”って言っていたのにな」
「いいんだよ。ジョーカーとの対決なら、ロビンは不可欠だ」
ロビンとジョーカーは鏡のようなものだろう。ロビンを生み出したのは他ならぬバットマンだ。完成させたのは僕だったが。
ジョーカーを生み出したのもバットマンだ。完成させたのはジョーカー自身だったが。
どちらもバットマンをバットマンたらしめる為に存在した。だから、バットマンが消えれば彼らも消え、バットマンが蘇れば彼らも蘇る。ジョーカーも僕もそれを知っていた。
「だから、いいんだよ」
分かっていなかったのは、ブルースだけだ。
「ディック」
「ん?」
「そのさ、こっちに来ないか」
「……」
「今すぐには無理だろうけど、落ち着いたらこっちに来るといいよ。あんたが住む部屋くらいあるんだから。少なくとも、そっちよりは安全だ」
返事は保留にして、僕は受話器を置いた。
答えられない理由は簡単だ。電力の復旧や街の混乱が落ち着くのと同時に、いつもの客も訪れるようになった。
今日もまた、普段と同じ時間にチャイムが鳴る。
「グレイソン、時間だ」
ドアを開けると黒服の男がそう告げる。軽く頷いて、彼に従って部屋を出る。
向かいの部屋の殺人事件。警察で取り調べを受けた際、かつてヒーローだった僕に興味を持った刑事がいたらしい。彼は冗談交じりで“上”の人間に僕の話をしたようだ。
『殺人犯の元ヒーローか』
2回目の警察からの呼び出しで、男はそう言った。妙に愛想の良い男は、軍関係に知り合いがいるとも言った。
『彼らに少し協力してもらうと助かるのだがね。何、ほんの少しサンプル採取をしたいだけだそうだ。どうだね。それと引き換えの釈放なんて、安いものじゃあないか。君の昔の“お仲間”だって、すぐに捕まるだろう。その時に少しでも、彼を有利にしてあげたいとは思わないかね?ええ、“驚異の少年”?』
備え付けのテレビでは、その時、ジョーカーの死とロビンの姿が繰り返し流されていた。
ジョーカーが死んだなら。
それでもロビンがそこにいるなら。
新たなジョーカーが必要だとは思わないかい、ブルース?
だから僕は承諾した。
若返っているのか妙な進化を遂げたのか、僕の身体能力はやがて10代の頃を上回るようになった。挙句の果てに再生能力まで加わって来ている。
科学者達曰く“完成形”になるまで、あと3年ばかりは投薬と手術が必要らしい。
だからティム。あと3年は君に会えないんだ。連絡は絶やさないでおくから、許してくれるかい?
もっとも、3年先まで世界が残っているかは分からないけれど。
3年先までブルースがバットマンでいるかは分からないけれど。
それでも、僕は。
「俺は誰だ?」
壊れた人形のように呟きながら、僕は岩の間から這いずり出た。空気を吸い込む度に肺が焼け、どこかに触れる度に肌は燃える。
だけど細胞は再生を繰り返す。どうにか人間の形を保ったまま、一歩また一歩と背後の熱から遠ざかった。痛みなんてとっくの昔に、理性の彼方へと置いて来た。
溶岩を使うなんて、相変わらず無茶な男だ。あと一瞬でも再生速度が遅かったら、いくら僕でも死んでいた。
激怒した結果なら実に喜ばしい事態だ。彼は今度こそ、ロビンを捨てたりしないだろう。
可愛い可愛い、ブルースの大事な娘。僕を射た時の冷たい瞳が、昔のブルースに少し似ていた。
また殺しに行くかもしれないけれど、その時も寸前でブルースが駆け付けられるよう、ちゃんと気を付けておくよ。今度は名前も聞いておこう。
しかし。
「俺は誰だ?」
正体が知られてしまった以上、もうジョーカーは名乗れない。かと言ってもう僕にロビンを演じる気力はない。
「俺は誰だ?」
さて僕は何になろう?
サーカスの演目のように、新たな仮面をとっかえひっかえしようか。
色んな仮面を着けて会いに行こうか。
そしてその度に死に生き返ろうか。
それまで体がもつか分からないけれど、あの様子ではブルースもさして長くない。演じるのも長い時間にはならないだろう。
さてまずはここを抜け出すべきだ。もう1度溶岩を引っ被ったら今度こそ危うい。
ジョーカーだったら手下が、ロビンだったらバットマンが、ナイトウィングだったら仲間達が助けに来てくれただろう。
だけど今は、誰も助けてくれる者はいない。
振動する地面がそろそろ第2弾の始まりだと告げてくる。走ろうにも今の体では歩くのが精一杯だ。急かされた足が岩にもつれ、僕は盛大に倒れ込む。
ああもしかしたらここで終わりなのだろうか。
ジョーカーのように何度も甦り、バットマンを狙う事も出来ず、中途半端に幕を下ろさねばならないのか。
背筋を嫌な寒さが走り抜ける。立とうとしたけれど力は殆ど再生に費やされていて、支えにした腕は無様に崩折れた。その拍子に、緩やかな下り坂になっていた岩山から、僕はがらがらと転げ落ちていく。
落下が終わると地面は平らになっていた。ゴッサムまで続く道が見える。あそこまで行けば、ともう1度手を地面に付き、膝を持ち上げようともがく。
頭上から聞き覚えのある声が降って来たのは、努力も虚しく再び大地に貼り付いた時。
「何やってんだよ」
車の黄色いランプが、地面で伸びる僕を照らす。
逆光に浮かぶ見慣れた姿に、僕は小さく微笑んで、それから意識を手放した。