大理石の床からモザイク文様をあしらった天井まで、ホールは人の声で満ちていた。
 今宵の主催者はパーティ慣れしていないらしく、参加者と場所の釣り合いが今一つ良くない。5分に1度はどこかでガラスの悲鳴が上がっている。
――忙しない。
 グラスを傾け、あるか無しかの微笑を目元に浮かべたまま、ブルースは心中で溜息を吐いた。喉を通っていくシャンパン代わりのソーダと言えば、ホール内の熱気と裏腹にしなびた味だ。
 同伴して来た女性は先程、桃のタルトを取りに行くと残して人の中に消えた。尤も、彼女に色目を使っていた鉄鋼会社の御曹司と、どこかで逢引しているのかもしれないが。
 そもそもパーティが始まって間も無いのに、デザートを取りに行く者がいるか?周囲の皿の時間はまだ前菜で止まっている。
「やあブルース」
「やあダニー、元気そうで」
「君もね」
 傾いたネクタイの男と笑顔を交わしてから、ブルースは背後の大理石にそっともたれ掛かる。運悪く視線が合った、ホテル王の若い後妻にウィンクをひとつ送ってから、今度こそ本当に小さな溜息を吐いた。
 クリスマス前後のパーティ攻めからようやく一息吐けたと言うのに、またしても始まろうとは。頭の軽いプレイボーイを演じるのは楽だが、本職のようになると流石に嫌気が差す。
 だが抜け出そうにも消えた同伴者が戻って来ては困る。どうしたものか、と頭を振りたいのを抑えていると、ふと聞き慣れた声が自分を呼んだ――ような気がした。
 ブルースは再び目をゲストの群れに投げ掛ける。礼服の黒にドレスの多彩な色、そして貴金属の煌きが混じり合い、抽象画さながらの混沌が広がる世界。密やかに投げ掛けられる目をこちらも行儀良く交わしていくと、不意にこの絵には不釣合いな、太い黒縁の眼鏡が視界に過ぎる。
 次いで、撫で付けられた黒髪と、肩の線と合っていない礼服が。
 そして彫刻刀で刻んだような、くっきりした唇の動きが。
――ブルース。
 声は聞こえなかったが呟かれた単語は明白だった。だがこちらが反応する前に、猫背気味の記者は人の海の彼方へと沈んでいってしまう。
 後は光り輝く経歴の持ち主達が、星のように視界を埋め尽くすのみだ。
「……」
 クラーク、とつい呟きそうになった唇をブルースは噛んだ。だがそれからすぐ周囲に不審の念を与えぬよう、気の抜けた表情を取り繕う。
――驚くような事ではない。
 彼は記者だ。取材に来ていても可笑しくはない。それに先程、自分が掻き消えるような呼び声に反応してしまったのも、カクテルパーティ効果と言う現象があるではないか。人は自分の名前に反応するのだ。
 そう考えながらも、視線は流れるゲスト達から離れない。グラスを左手から右手へ、右手から左手へと持ち替えても、あのサイズ違いの礼服を着けた姿は現れない。
 彼がこの綺羅星のようなゲスト達の合間から、ひょっこり顔を昇らせるまで。
 それまではしばしここにいようと、ブルースは温くなったソーダを喉へと流し込んだ。

多分、超人が人ごみを抜けてくるには30分ほど掛かると思います。
でも待つ蝙蝠。

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