午後になって降り始めた雪が、窓に当たりぱらぱらと高い音を立てている。おそらくこの冬――もう春に入ってはいるが――最後の雪になるだろう。空に漂う雲は先月に比べると随分薄く、覆われている太陽の日差しが透けて見えた。
春の近付く外を眺めながら、ブルースは氷の詰まったアイスバッグを左手からそっと外した。
手の甲は未だ赤く、小さな丘のように盛り上がってはいたが、受けてすぐの頃に比べるとずっと良い。ただ、氷のお蔭で始まったひどい痺れが、打撲から来る熱と同じような不快感を齎してくれていた。
夜が来てもこれでは使い物にならない。半ば溶けた氷が波打つアイスバッグを、どうしようかとブルースは首を傾げる。痛み止めを打つにしても感覚の鈍りは否めまい。
アルフレッドは夕方まで様子を、と言っていたが、彼の事だ。休むべきだと分かっていただろう。確かに今の所、急を要する用件は無かった。
とりあえず氷を入れ替えて、それからアルフレッドに相談しよう。長椅子から立ち上がったブルースの視界に入ったのは、雪の粒でも灰色の雲でもなく、青いタイツの男だった。
「…熱心な社員と思っていたが見込み違いだったか。昼間から飛んで来るとは」
目元を顰めてそう呟くと、テラスに立つクラークは違う、と言わんばかりに手を振った。僅かに眉尻を下げて彼は唇を動かす。昼休みの遅れ、と言う所まで唇を読んだブルースは、成る程と呟く代わりに肩を竦めた。
窓を開くとケープと共に雪が舞い込んで来た。ブルースが思っていたよりずっと小粒のそれは、絨毯に触れてもなかなか溶けず、粉砂糖のように窓辺を白く彩る。
「午前中が立て込んでいたんだ。ようやく一段落付いたから、交替でランチタイムにね」
「ならメトロポリスのマクドナルドにでも行ったらどうだ?」
「寄って来たよ」
ケープのポケットにでも入れていたのか、クラークはさっと小さな人形を取り出した。何かのセットで貰ったのだろう。彼のケープよりもなお明るい赤と黄色が、ブルースの目には少々痛い。
「本当は夜に来られたら1番なんだけど……帰りが何時になるか分からなかったから」
「昼間は飛んで来るな。外からはカモフラージュしてあるが、万が一と言う事もあるんだぞ?」
「すまない。今度から気を付ける」
クラークの手の中から人形が消える。同時に、頬に浮かんでいた苦笑も。
「この前の礼を言いに来たんだ」
ちらりと青い瞳がブルースの左手に走る。言葉よりも、そこに浮かんだ痛ましげな色にブルースは思わず顎を引いた。作っているのか元のものなのか、自分でも分からなくなって来ている低い声音で否定を投げる。
「不要な行為だ」
「でも」
「庇いフォローをする度に礼を述べられては煩わしくて仕方ない。気にしないでくれ、スーパーマン」
あえてヒーローとしての名前を言う事で、自分もまた彼と対等の存在なのだと含めたつもりだった。冷ややかに過ぎたかとも思ったが、こちらを見つめるクラークの目から、先程の色が消えている事にブルースは満足する。
「…そうかもしれない。だけど、この前の事件はメトロポリスで起こった事だ。協力してくれた君には矢張り礼を言いたい、……バットマン」
深みのある声が自分のもう1つの名前を紡いだ。少しばかり硬くなった彼の頬に、ブルースは静かに頷いた。それを受けて、クラークが再び口を開く。
「それに、君の声が僕を繋ぎ止めてくれたも同然だった。呼んでくれただろう?」
持っていた氷が不意に重みを増した。
これよりも冷たいMR.フリーズの氷の中に、閉じ込められたクラークの姿がまざまざと瞼の裏に甦る。その時感じた激しい怒りもぐるぐると胸の中で渦巻き出した。
だが同時に、怒りを凌駕して沸き出た焦りの念が、ブルースに違う答えを紡がせる。
「いいや。…そのような余裕は無かった」
首を振って否を示せば、クラークは訝しげに少し眉を寄せた。
「聞こえたんだけどな。君が名前を呼ぶ声が、しっかり――」
だが彼が言い終わるより早く、ドアの外で控え目なノックが響いた。
「アルフレッド?」
「氷の替えをお持ち致しました」
置いておいてくれ、と答えようとしたブルースの視界の片隅で、ゆらりと茜色が揺れる。目を窓際に移せば、クラークは既にテラスへの一歩を踏み出していた。
「寛いでいる所を邪魔してすまなかった。今度からは夜に、ケイブに行くよ」
「…そうしてくれ」
「それじゃあ」
そう言って微笑したクラークの頬を、一瞬だけ雲間から差し込んだ陽光が照らす。
ブルースが瞬きする頃には、窓は閉まり、日差しも再び雲に覆い隠されていた。どうやら雪も止んだらしく、外からは何も音が聞こえて来ない。
「ブルース様?」
「入って構わない」
「失礼致します」
氷の入った盆を持ち、アルフレッドが中に入って来る。彼は名残のようにゆらめくカーテンへと視線を移しはしたものの、それ以上何も言わず手を差し伸べた。
「大分溶けてしまいましたな。早速変えましょう」
「…ああ」
ぐったりと横たわる人間のように、柔らかになったアイスバッグをブルースは手渡した。ついでに窓際を見ると、絨毯にはもう先程の雪の欠片さえ残っていない。
手際良くアイスバッグを開いたアルフレッドが皿に溶けた水を移していく。
その音を聞きながら、ブルースは静かに、再び熱を帯び始めた左手へと触れた。