「…故に、我々は新たな未来を作り上げようではありませんか!」
満場の拍手と喝采、スポットライトに慣れた男というものは輝かしい。もう少し若ければ溢れる自信が嫌味なものとなったろうが、彼の年齢と、地位に似合った腰の据わりが、ぎりぎり一歩手前で臭みを消している。
「眩しい限りだ」
どこが、とブルースは言わない。傍らのクラークには分かり切っているからだ。全く、と言わんばかりに頷く彼の眼鏡も、焚かれたフラッシュを反射して眩しげだった。
スピーチを終えて取材陣――ロイスを含む――に囲まれたレックス・ルーサーから、ブルースはより近いレンズへと視線を移す。
道楽社長の顔は生クリームをたっぷり盛り付けたパフェにも似て甘く、そしてとびきり緩んでいるが、鋭い瞳にはスプーンを入れられる余地などありはしない。
「仕事は良いのかな?先日は彼に随分と世話になったそうだが」
「ええ、夜中までたっぷりと。だから今日はロイスに任せます」
周囲に多少の配慮をした声と口調、そして笑顔のまま2人は話し続ける。夜の顔としてはお得意様の部類に入るルーサーだが、昼の顔の時まで会いたいとはどちらも思っていなかった。
「貴方こそ良いんですかミスター・ウェイン?こんな所に記者といるなんて」
「構わないさ。僕はロイスや君といる方が部下も安心する」
「いえいえそんな」
「…それに、今後は昼にも会わねばならないからな」
ブルースの顔に一瞬だけ蝙蝠の翼が過ぎる。
ビジネスマンは辛い。業務提携に対して出来るならば声高にNOと叫びたかったが、幾ら道楽CEOとは言え出来る技ではなかった。技術を盗み、犯罪に活用するつもりだろうと分かっても、ウェイン社の為と周囲に訴えられればYESと答えるしかない。
その辺りの警戒は十二分にするとルシウスも言ってくれたが、ルーサーと手を結ぶその事が、喉に刺さった小骨じみて気に障る。自社に有益性があるのも小骨の痛みを気にしてしまう要因だった。
「お互い大変だ」
果たして翼の翳りが広がったのか、クラークもまた、何かに耐えるように眉を顰めた。珍しい、とブルースは、戻した笑顔のまま目を瞬かせる。
「何かあったのか?」
「いや……その」
鋼鉄の気概が滲み出ていた表情が、不意に和らいだ。大きな肩から見る見る内に力が抜けて、少し猫背の野暮ったい新聞記者が出来上がる。茜色が宿れば一面を焼き尽くす目線も、今となっては分厚いレンズでおぼろに隔てられ、会場の向こうにいるルーサーを見ていた。
否、ルーサーがクラークを見ていた。
ブルースの視界の中央にルーサーが居座る頃、既に彼はまたスピーチ用の敏腕社長に戻っていたが、良く動く目はしかとそれまでの顔を捉えていた。世の全ては自分の臣民と塵芥に分けられると信じ、なおかつ前者からは反乱の気配を常に疑っているような――つまりは彼らの良く知る「レックス・ルーサー」が、ちらりと見えたのだ。
すぐに顔は報道陣へと移っていったが、しかし衆人環視の前でルーサーがあのような顔を見せるとは、ブルースにも意外であった。しかもそれを向けた相手が、不倶戴天の敵とも言うべき鋼鉄の男ではなく、彼とは何の関係もない善良なる記者である。
更には、ルーサーの顔が逸れた瞬間、ふっとクラークが力を抜いた事も、ブルースは空気越しに感じ取っていた。
「――ケント君」
「は、はい」
「何があった」
「言えない」
眉間が寄ろうとするのを耐えたブルースに、ゆるりとクラークが首を振る。室内の薄暗さにも、フラッシュの明るさにも負けない瞳の青は、動きに合わせて軌跡を残すような気さえ感じさせた。
「迷惑が掛かるだろう」
「…らしくないな、スモールビル。記者の鉄則を忘れたのか?」
間近を通った婦人の、大胆に開いた背中をブルースの目が追う。少なくとも周囲にはそう見えるだろう。その流れのままクラークへと顔を寄せたのは、それだけ彼女に気を取られている証に見えるだろう。
本当に追っていた獲物を捕まえるため、ブルースはひそやかに唇を動かした。今度はスプーンを入れる余地はおろか、自ら一さじ掬って口元に突き付けるが如き響きを、少しかすれたバリトンに秘めながら。
「人には知る権利がある」
声音の余韻が消える頃、クラークの目尻が少し下がり、唇の端が少し上がった。
「……確かに、君にはある」
クラークはひとつ息を吐き、眼鏡のつるを押した。それが彼の、返答の背中をも押す合図だった。
「こう思われているらしいんだ。僕は電車の時刻表にしょっちゅう敗れているけど、本当は機関車よりも強いんじゃないか、とね」
「何?」
「ロイスの遭遇する事件と、僕が乗り遅れる事件とは大体一致しているんだが、ケープが空を舞うのも同じ事件の場合が多くて」
「つまり――疑われていると?」
返答は大きな頷きと、場には相応しいが今の2人にはそぐわぬ明るい声だった。
「その通りです、ミスター・ウェイン」
眼前で微笑む田舎っぺ大将に、ブルースはつい、テーブルに用意された皿をぶつけたくなった。テーブルへ腕の長さが及ばなかった事に感謝しなければなるまい。
「先日の一件もさ。僕がトイレに行っている間に、例の彼が姿を現したんだ。言われてしまったよ。『ケント君だったか、今までどこに?いや、聞かなくても敏腕記者の事だ、私には分かる。現場近くにいたんだろう?』」
「それを知りながら君はここへ来た訳だな、ケント君」
鴨が葱を背負ってやって来るとはまさにこの事だ。そうブルースは心中で呟いた。
ここがゴッサムであるならば話は異なるが、生憎と現在地はメトロポリスであるばかりではなく、ルーサーのお膝元ことレックスタワーの大広間である。ルーサーが何らかの罠を仕掛けるには十分すぎる好条件だ。
「何が『迷惑が掛けるだろう』だ。そう思うなら病欠でも使え」
「すまない。取引先がいるなら大人しいだろうと思っていた。無理だったかな」
「無理だ。奴を見くびるな」
報道陣の間から脱出したルーサーは、今度は招待客の間で遊泳魚のように振舞っている。男の足が向く先は間違いなくこちらだ。しかも、客と挨拶を交わしながら、ちらりちらりとクラークへ視線の針を刺している。
ブルースは掴み所のない笑顔の照準を、近寄りつつあるルーサーに定め、クラークへ背中を向ける。そして唇をほぼ動かさず、喉と吐息だけで、鋼鉄の男の耳朶に囁いた。
「外へ行け。何か起きるならばそろそろだぞ」
「何故?」
同様に小さな呟きが投げ掛けられる。満員御礼のパーティ会場よりも、明け方の乱れたシーツに欲しいような声だった。その連想でブルースの唇に一瞬、演技ではない緩みが生じる。
だが、その心に再び封をして、ブルースは再び囁いた。
「私への挨拶が近いからだ」
「なるほど」
「それと、眼鏡や服をトイレに置いていけ。会場を出てすぐの所にある。奥から2番目の個室だ」
「…今日は君に何故だと聞いてばかりな気がする」
「いつもの事だろう。…容易い理由だ」
絨毯の上に一歩、また一歩と踏み出すブルースは、視線の合ったルーサーに腕を開いてみせた。衆愚の街を徘徊する道化師が、夜の王へ歓迎を示す際のように高々と、力強く、そしてとびきりエレガントに。
「1足す1が2だと教えてやるんだ」
クラークの声はもう聞こえなかったが、笑顔を浮かべつつ、しかしブルースの背後へとゆらゆら動くルーサーの瞳が、彼の去った事を教えてくれる。
襲撃事件を阻止しに現れたスーパーマンが、垢抜けない新聞記者と挨拶を交わすのはもう少し後の話。
その光景に青くなったり赤くなったりするルーサーが、自身を落ち着かせるには、ふと消えた大富豪の行方を追うしかないと勘付くのは――
どれ程に遠い未来であっても無さそうな話だった。