冬の風が枯れ草を揺らす。ようやく昇り始めた月が、広大な庭へと柔らかな光を注いでいた。
「エース」
 野原を駆け回る愛犬にブルースは呼びかけた。今まではしゃいでいたと言うのに、彼はすぐさま主の元へと走り寄る。
「帰るぞ」
 硬い毛並みを撫でるブルースへ、エースは小さく鼻を鳴らした。

HOME SWEET HOME



 ゆっくりと道を拾う老人と犬を、城とも言うべき邸が見下ろしている。幽霊屋敷と囁かれるほど、普段は人気も火の気も少ない邸だが、今日は淡いオレンジの光が灯っていた。
 さながら帰りを待ち侘びるように。
――迎えの灯など何年振りだろう。
 白い息が風に乗って消えていく。
――アルフレッドが逝って以来、無縁のものだと思っていたのに。
 月を背にしたウェイン邸が、酷く眩しく見えた。

「お帰り」
 巨大な玄関の扉を開けたのは、中にいた少年だった。
「…まだいたのか」
 傍らをエースが駆ける。足にじゃれつく大型犬を撫でながら、テリーは唇を尖らせた。
「何だよ、“ただいま”くらい言えって。あんたの家だろ?」
 それでも黙ったままのブルースを、テリーはそれ以上気にとめなかった。エースの体中に付いた草を乱雑にほろう。
「家、か」
 テリーに聞こえぬようブルースは独り呟く。夜の帳のような外套を脱ぐと、ちゃんと掛けろよ皺になるから、とテリーが言った。
「あ、そう言えば」
「どうした」
 弾かれたように少年は顔を上げ、ブルースに視線を合わせると、笑った。
「あんたに電話が来てたんだよ、珍しく」
「…珍しくは余計だ」
 顔をしかめたブルースに、テリーはますます笑みを深める。予想通りの反応を返してしまったと気付いたが、それを表情に出すと更にからかわれるだろう。若い者は時として老人より執拗だ。
「それで、会社関係か?」
「いいや?知り合いだって。オレが出たら随分びっくりしてたな。あんたがすぐ帰るって言ったら、また連絡するってさ」
 えーと名前は、と言ってテリーはメモを取り出した。無邪気な笑みが口の端に残っている。よほど意外な事態だったのだろう。
――嫌な予感がする。
 ゴッサムの夜に潜んでいた頃以来の勘が、ブルースの心に警鐘を鳴らしている。
 何か、とてつもない何かが、この屋敷へ向かっている気がしてならない。
 そんなブルースを露知らず、テリーはメモに視線を走らせ、軽やかに指を鳴らした。

「そうそう!ミスター・ケントだ、クラーク・ケント!」


 暖かな灯が―― 一瞬で消えた気がした。


「やっぱり、あんたにも友人いるんだよな。この前はうっかり孤独な老人とか言って本当に」
「逃げろ」
「え?」
 ブルースはテリーの肩を力強く掴んだ。目を丸くするテリーに構わず、どんどん力を込め、玄関へ押し出しに掛かる。
「ここは危険だ、テリー。もう帰れ。帰ってこの名は忘れるんだ」
「ちょっ、ブルース?!待てよ!」
 その手を跳ね除けてから、今度はテリーがブルースの肩に手を置く。
「どうしたんだよ。まさか、ジョーカーみたいな仇敵なのか…?!」
「ある意味それと似たようなものだ。さあ帰れ!今ならまだ間に合うかもしれん!」
「ブルース……!」
 テリーの手を振り払うと、彼は固く拳を握り締めた。
「分かったよ…」
「そうか、なら早く」
「バットスーツを着てくる!」
「……待てー!」
 踵を返した若者にブルースは慌てた。半ば、いや、全力で必死となりテリーの行く手を塞ぐ。
「何で止めるんだよ!あんたの敵なんだろ?!」
「誰がそんな事を言った?!」
「ジョーカーと似たような奴って言ったじゃないか!」
――これだから若い者は。
 うっかり眩暈を起こしそうになったブルースへ、テリーは真剣な面持ちで話し続ける。
「分かってるさブルース。あんなに堂々と電話するんだから、きっとジョーカー以上に危険でしつこい奴なんだろう?あんたが過去に何をされたかは知らないが、きっと勝ってみせるさ!さ、ケイブへ下りよう!」
「……どんな勘違いをしているんだ、お前は……」
「だって、あんたの仇敵でジョーカーと似てるって事は――」
 そこでテリーは口を閉じ、ブルースを見ると、顔を伏せた。精悍な顔にはそこはかとない哀愁が滲み出ている。
「……ごめん」
「謝るな!何故だ!」
「でも、あんたにはもう指一本触れさせやしないさ!」
 状況が状況であれば頼もしい台詞を吐きながら、テリーはブルースと奥へ行こうとする。丁度、柱時計が住人の騒がしさとは無関係に、時を告げ始めた。
 1つ目の鐘が鳴った、その、瞬間。
 空気が震えた。
「!」
「ああ、くそ、遅かったか……!」
 時計の鐘と合わせるように、外の大気が唸りを上げる。窓の硝子が小さく震え、大地の底が咆哮する。

――奴が、来る。

 戸惑いながらまだケイブへ行こうとするテリーを押さえ、ブルースは身構えた。エースは毛並みを逆立てている。
 柱時計が、鳴り終わった。刹那の静寂が辺りを支配し――

 耐えかねたように、玄関の扉が内側へと弾けた。

 猛烈な風が全身に叩き付けられる。エースの鳴き声も幕を隔てたように遠い。調度品にかかっていた布は全て剥ぎ取られただろう。所々で何かの割れる音がする。
 ブルースは腕を交差して顔を守りながら、目を開いた。空気の流れが痛い。
 糸のような視界を占めるのは、ただひとつ。
 波打つ赤だけだ。

「ブルース!!」

 紅炎のような叫び声は、屋敷と周辺数キロ四方に響き渡り、そして


「何で!君の!電話に!若い男が出るんだーっ!!!」


 …余韻を残しながら引いていった。
 快晴の空と同じ瞳に、限界まで涙を溜め込んだ男が、床に降り立つ。
 ブルースは俯く。先程とは打って変わって、嫌な沈黙が邸内を支配する。
「…あのさ、ブルース」
 幽霊屋敷もかくやと言う静けさを破ったのは、テリーだった。
 引きつった声というものがあるならば、まさに、これである。
「そこの青くて赤い人、もしかして、スーパーマ」

「今すぐ宇宙に飛んで行けー!!!」

 鋼鉄の男がウェイン邸の屋根をぶち抜く。美しい放物線を描きながら、それは遥か数百万光年の彼方へと吹っ飛ばされていった。


「……ナイスショット、ブルース」
「お前も帰れ!!」

いつまで経っても夫婦漫才していればいいと思います。
ちなみに後日談→こちら。

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