「それじゃあ、元気で」
演技でそう言った訳ではない。声音に申し訳なさが篭っていたのも地だ。
ブルースが声を掛けても、しかし、彼女は鏡に向かったままだった。金縁の鏡には、美しい無表情が映り込んでいる。
数多い“恋人”の中でも、相手の家にまで赴く事は少ない。タイミング良く現れるバットシグナル、華麗に派手に登場するヴィラン、そして何よりブルースの罪悪感が、そこまで進めるのに歯止めを掛けていた。
尤も、相手の家に赴いた所で、すぐさま肉体関係になる訳でもない。ゆっくりディナーや際どい会話を楽しみ、キスをする。それ以上進もうとしても、上3つのどれかが必ず妨げた。
「“さよなら”だけでも言ってくれないかな?」
鏡越しの目線さえ向けて来ない彼女とも、ベッドを共にした事はない。しかし彼女の住んでいるホテルの部屋に、何度もやって来たという程度には近しい仲だ。
終わりを持ち掛けたのは彼女だが、そうさせたのはブルースだった。間抜けでよく怪我をする、物好きでお人好しの大富豪。そんな人物相手でも、ウェイン家の財産目当てに近寄る人間は大勢いる。彼女は例外の1人だった。ブルースが「ボジョレー・ヌーヴォーを買い占めて、ワインの海で泳がないか」と真剣な眼差しで言い出した頃から、関係について考え出したようである。
「…君との時間は楽しかったよ。ありがとう」
優しい気質で、上流階級の人間にしては常識的だった。世間知らずで、ブルースの口説き文句に、頬を上気させるのが可愛らしかった。結婚したら、きっと月並みに幸せな家庭が築けただろう。
ブルースは栗色の髪に背を向ける。もう踏む事のないカーペットに足を埋め、ドアノブに手を掛けたところで、ブルースの耳に鋭い飛来音が届いた。
――避けるな。
軽い音からして危険物ではない。ブラシか手鏡か、はたまたコンパクトか。覚悟を決め、ブルースは咄嗟に動こうとした体へ、強くそう命じた。
次の瞬間、頭に衝撃が走った。
誤算は2つ。頭にぶつけるとは思わなかった事と、それがよりにもよって割れ物であった事。いや、もう1つある。
「とっとと出て行ってよ、この――野郎!!!」
彼女が激情家だと、気付かなかった事だ。
その夜、バットマンがゴッサムに現れなかったのは、言うまでもない。
「…臭うかな」
「はい、正直に申し上げますと、非常に香って参ります」
そう答えてから、アルフレッドは白いハンカチで、そっと鼻を押さえた。
「もう1回入って来る」
「坊ちゃま、それ以上のご洗髪はキューティクルに、ひいては数十年後の御髪に関わりかねないと存じますが」
「今日はまだ5回しか洗っていない」
「昨日の回数も含めると12回でございますよ」
アルフレッドは、ソファから立ち上がろうとするブルースを押さえる。勿論、鼻に当てたハンカチは取っていた。
「再度のご挑戦は、数字の不吉さから考えても、お止めになった方が賢明でございます。1度乾かしましょう」
「……分かったよ、頼む」
目に掛かった濡れ髪を跳ね除けて、ブルースは渋々頷いた。
ドライヤーが轟々と響きを上げ、熱風を吹き掛けてくる。アルフレッドの手に髪を委ねながら、ブルースは長い溜息を吐いた。
「この分だと今夜も街に出られないな。ラルフローレンを付けたバットマンなんて」
「広告出演をお引き受けになっては?」
「冗談は止めてくれ」
「“ご友人”の中には、広告をなさっている方もおいでだと伺いましたが」
「それは、彼らは姿を隠す必要がないから」
ぴたり、とブルースはそこで口を噤む。
「いかがなさいました?」
「しまった」
メトロポリスにあった大きな広告が、ブルースの脳裏でちかちか点滅している。爽やかな笑みを浮かべた、青いタイツのナイスガイ。
「今日は、クラークが来る」
ブルースが見上げた時計は、訪問時間までの僅かな猶予を告げていた。
厚い雲を背景にした邸宅は、まさに王城だ。軽薄なプレイボーイが住むには、いささか豪壮に過ぎるが、あのバットマンが住むにはこれほど相応しい場所もないだろう。
街からここまでは、人の足では余りに遠い。タクシーを使うにしても、何かと詮索されるに決まっている。よってクラークは、己の飛行能力に感謝しながら、いつも自力でウェイン邸に通っていた。
昼下がりだが相変わらず人気はない。それでも一応注意してから、ブルースの部屋のテラスに着地する。ケープを払いのけ、いつも鍵が開けられている窓を、クラークはそっと押した。折り良く吹いた風が、レースのカーテンを掻き分けてくれる。
「やあブルース、久し、ぶ、り……」
「クラーク」
言葉が途切れたのは、ブルースがバスローブ姿だったからでも、その髪が濡れていたからでもない。
「……!!!」
「あ」
声にならない悲鳴を上げて、クラークは――床に転がった。
「…矢張りな」
ブルースの後悔が混じった声も、今のクラークには届かない。その唇から発されたのは、強烈な咳と、息を吸う間もなく続いたくしゃみだった。
「げほっ!…ぶ、ブルース?!これ、は、一体」
くしゅん、くしゅん、と3回ほどくしゃみが吐き出される。それが終わるのを待ってから、ブルースは溜息交じりに答えた。
「香水の瓶が割れたんだ。洗っても取れなかった。…大丈夫か?」
「く、クリプトナイト」
並みだよ、と答えたかったのだろうが、再び咳がクラークに襲い掛かる。新鮮な空気を求めて、青いタイツが窓へと這っていった。
嗅覚ならば犬より鋭いクラークだ。この部屋は、と言うよりブルースは、彼にとって香水地獄に等しかろう。出来ればその背中をさすってやりたいが、今ブルースが近寄れば、呼吸困難で死んでしまいそうな様子である。代わりに少しでも離れようと、ブルースは後ずさった。
「その、電話して断ろうかとも思ったのだが、通じなくてな。時間も迫っていたから」
言い訳じみた事ばかりが、ブルースの口を突いた。それを聞いてはいるのだろう。げほげほごほんと咳き込みながらも、その合間にクラークは頷いていた。
ようやく辿り着いた窓に、半ば顔を突っ込んで、彼は忙しない呼吸を繰り返す。丸まった背中が、酷い仕打ちをされたと訴えているようで、ブルースはぎゅっと眉を寄せた。
――罰だ。
もう1つの顔を隠す為、好意を寄せてくれる女性を利用した。しかも自分にはクラークがいるというのに。二重の咎に二重の罰が当たったのだ。後頭部に出来た腫れと、強烈な匂い。
「……すまない」
どちらに謝ったのか自分でも分からないまま、ブルースはそう呟いていた。ようやく収まった呼吸を整え、肩を上下させながら、クラークが振り返る。
「…ブルース?」
「“恋人”に別れを切り出したら、香水の瓶を投げられた。それで、こうだ。…怒っただろう」
居丈高にそう言って、ブルースは視線を何もない壁に注ぐ。
今まで女性と付き合っても、クラークが激しく怒った事などない。目の前で抱き寄せ、キスしたところで、傷付いた目でじっと見つめる程度だった。何か言って来た所で「お前には関係ない」と返せば、黙り込んでしまった。
今回もきっと、クラークは激昂しないだろう。そんな甘えと、しかし今回ばかりは怒るかもしれないという不安が、ブルースの胸の中ではぶつかっている。
「…そんな、怒るなら怒れって態度されちゃ、怒り辛いよ……」
至極もっともな事を呟き、クラークは立ち上がる。目尻には涙が浮き、鼻も少し赤くなっていた。
「その人、かなり怒ったのかい?」
「頭に香水を投げる程だぞ」
「そうか」
距離を詰めぬままクラークは頷く。目を合わせようかどうしようか、ブルースは迷い、視線を間にある空白に泳がせていた。
「君が立場上、色々あるのは知っているし、女性を弄ぶような性格じゃないって分かっているけど」
「ああ」
「やっている事は、それと同じだよ?」
――その通りだ。
胸が痛んだ、締め付けられたように。
「呆れたか?」
「うん、少しだけ」
でも、とクラークは続ける。
「僕の前でキスされた時よりは、大分マシかな。あの時は本気で――まあ良いや、済んだ事だし」
「…悪かった」
微笑んで言われる方が、怒りをむき出しにされるより堪える。項垂れたブルースの肩を、それでもクラークは優しく叩いた。
「ドライヤーは?乾かさないと風邪を引くよ」
「ああ、下にある」
「じゃあ行こうか」
もう1度だけ小さくくしゃみをして、クラークがケープを翻す。
「クラーク」
「何だい?」
「今度から、その……女性との付き合いは、控え目にしようと思うのだが」
「うん」
「私が女性と目の前でキスした時、本気でどうしようと思ったんだ?」
ブルースがそう尋ねると、クラークの瞳が一瞬揺れた。ドアノブを握ったまま立ち止まり、ようやく唇を開いた時、その顔には“ケント”の気弱げな微笑が浮かんでいる。
「駄目だよ。教えられない。君が知ったら、真っ青になるから」
「……」
「本当に本当に苦しかった、って事だけは言っておく」
「…悪かった」
2度目の謝罪にも、クラークは矢張り、ブルースの肩を優しく叩いた。
一体どんな事を考えたのか、まだ疑問は残るものの、ブルースは大人しくクラークと共に階下へ足を進めた。