ハンドルを切る度に右肩がじくじくと痛む。熱を帯び始めたのだろうか。骨が折れていなければ良い。
森に包まれた隠し道路はバットモービルのライトでも照らし切れぬ程に闇が深い。木々の枝がぶつかると誰かが外から叩いているような、ぞっとしない音が上がる。
だが、じきにケイブへ入る頃だ。怪我の事は街中を出る折、アルフレッドに通信で話しておいた。中では彼が包帯や消毒液、ついでに小言までを持って待ち受けているだろう。
カモフラージュの為にも舗装されていない道が、車体を小刻みにがたつかせ、ブルースの肩に蠢くような痛みを与え始める。森の中よりもなお深く、ライトの光をも飲み込むようなケイブの闇めがけて、ブルースはアクセルを一際強く踏んだ。
「お帰りなさいませ」
「アルフレッド、右肩だ」
「承知しております。こちらへ」
降りて早々、ケープを脱ぎ捨てながらブルースはそう言った。元軍医の指し示す診察台へ歩きながら、左手でユーティリティ・ベルトを外す。ケイブの硬い床に当たったそれは、がしゃりと重たい音を立てた。
主に置いて行かれた道具達を振り返る事もなく、ブルースはさっさとタイツの上も脱いでしまう。こちらは流石にアルフレッドの視線を受け、床に捨てていくような真似はしなかった。
「…鉄パイプか何かが当たったようだ。折れてはいないと思うが」
「失礼。…おっしゃる通り、日々のカルシウムが利いたようでございます」
嫌がられても牛乳をお勧めして来た甲斐がありました、と言ってアルフレッドはアイスパックと包帯を取り出す。それを横目にブルースは軽く眉を寄せた。
「待ってくれ。何時の話だ?」
「坊ちゃまが4つの頃で。臭いが嫌だと」
「そんな昔の話」
「骨は幼い頃に形成されるものですよ」
言い返そうかとも思ったが、肩に当てられたアイスパックが心地良く、ブルースは思わず口を噤んだ。詰めていた息をゆっくり吐けば、硬くなっていた体が少しずつ解れていく。バットマンとして常に保っていた緊張感や、動いていた時の高揚感までもが吐息として体から出て行く気がした。
「…牛乳と言えば、本日はメトロポリスの方がいらしていたご様子ですな」
いかにもさりげなく呟かれた言葉で、ブルースの身が再び引き締まる。開き掛けていた眉を再び、今度は先程よりもきつく寄せると、ブルースは肩越しにアルフレッドを見据えた。
「どこで聞いたんだ?」
「ラジオで小耳に挟みました」
「私の事は」
「一緒にいらしたのですか?」
アルフレッドの重たげな瞼が僅かながら揺れ動く。かまは掛けたが確信してはいない、と言う事か。ブルースは視線を逸らした。
黙ってしまったブルースの心境を察したのか、アルフレッドも口を噤んで手当てに専念する。上空を自在に飛ぶ蝙蝠達の鳴き声と、包帯を切る鋏のリズムが合間って、何かの音楽のように響いた。
「…ドラッグの売人達を追って、良い所まで辿り着いたんだ」
しょきん、と鋏の音が終わるのと同時にブルースは言った。
「ただ、脅した相手から連絡が入ったらしい。捕まえに行った相手はもう逃げていた」
「命知らずな事です」
「全くだ。その命知らずの馬鹿は、工事現場の中に入っていった」
「映画の見過ぎですな」
包帯が強く引っ張られた。結ぶつもりなのだろう。鈍い痛みにう、と一瞬息を呑んでから、ブルースは続ける。
「…君の言う映画かの影響かは分からないが、そいつは高い足場に昇った。残念ながら映画の主人公からは大分かけ離れている。横幅だけなら私より1.5倍も大きいような、しかも50過ぎの男だ。悪役をやった方がまだ良い。男は案の定足を滑らせて――足場や工具と一緒に、呆れて見上げる私の前へ」
「奈落の底に落ちたと言う訳でございますか?」
「少し違うな。男は受け止めた」
雨あられのように降り注ぐ、金属諸々もついでに体で受け止めた、とまでブルースは言わなかった。アルフレッドも静かだった。成る程、と言わんばかりに鼻を鳴らす気配はしたが。
ついでに、入り口を塞ぎ掛けた巨大な鉄鋼を、何処からともなく現れた鋼鉄の男が防いだ話もするべきだろうか。ブルースは迷ったが、その事には触れず振り返った。
「で、君が小耳に挟んだ話とは?」
「ゴッサムタクシー協会がスーパーマンに感謝の像を送ったそうでございます。メトロポリスのタクシージャック事件を覚えておいでで?」
「…その運転手がゴッサムから来ていた訳か」
「左様でございます。ゴッサムタクシーを模したその像を見せれば、スーパーマンは何時でも無料で乗車出来るようで。羨ましい限りですな」
「そうだな。会ったタクシーを飛んで運んでくれる事だろう」
暴れる男を殴って黙らせた時、投げ掛けられた非難の目を思い起こしながらブルースはそう言った。
余計な真似をする、と自分は怒ってさっさと踵を返してしまった。彼が何の為に来たかは分からなかったのだが、そう言う理屈であったとは。
とりあえず自分を助けにとか言う、腹の立つ理由では無かったのだ。それで苛立ちが消える訳ではないが、そこまで馬鹿な相手ではない、と言う事にブルースはほっとする。
「スーパーマンと言えば」
アルフレッドの声に思わずブルースはぎくりとした。まだ話は繋がっていくらしい。だがアルフレッドは話を続ける前に、ぽんと軽く、傷の付いていないブルースの肩に手を置いた。
「治療は済みました」
「…何かあるんだろう」
「いえ、何でもございません。お気になさらず」
言いながらもアルフレッドの視線は、邸内へと通じる階段に向けられている。何とも言えないもどかしさに、ブルースは彼の前へと顔を差し伸べた。
「気になる。教えてくれ」
「左様でございますか。ならばお夜食を取られた後にでも、お話しする事に致しましょうか」
してやられた、とブルースは思った。