出されたのは小さなパンとコンソメ仕立てのスープだけだったが、後者にはキャベツやら人参やら蕪やら、とにかくたっぷりと野菜が浮かんでいた。胡椒が控え目なのは、夜の散歩後は食欲の湧かぬ自分への気遣いと言うよりも、恐らく早く休めという無言の圧力だ。
 スープ一杯を食べ――飲むと言うより食べる物だ――終わると、ブルースは横に立つアルフレッドを見上げた。
「それでスーパーマンと言えば何なんだ?」
「おお、思い出しました」
 手と手を合わせたアルフレッドは、しばらくお待ち下さい、と言って何処かへ消えていく。一体何があるのだろうとブルースは唇を尖らせた。クラークの事を思うと、氷で感覚の鈍くなった肩に、じくりと責めるような痛みが戻る。
 この肩以外にも傷を負う覚悟であれば、彼の手を借りずとも脱出は可能だった。そう思えば苛立つ自分に対し、更なる苛立ちが込み上げる。男を失神させた時は非難に満ちていた夏空の瞳が、自分の怪我を察した途端、憂いを帯びた事さえ気に入らなかった。
――同情に比べれば、怒りの方がましだ。
 知らず鋭くなった視線は、しかし戻って来たアルフレッドによって和らいだ。紅色で縁取りされた白の皿を、彼はブルースの目前に置く。その途端、酔うのではないかと懸念しそうな甘い香りが、ブルースの鼻腔を擽った。
「梨?」
「はい、今朝の市場で見付けました」
 これがどうクラークと関係あるのか。しばし戸惑ったが、アルフレッドの目と香りに押され、ブルースは小さなフォークを取った。柔らかな果肉に銀色が沈み込む。
 口に入れると芳香に違わぬ、蕩けるような甘さだった。噛むと冷えた果汁が一気に流れ出す。なかなかの美味だ、とブルースが答えるより早く、アルフレッドは言った。
「ゼネラルレクラークと言う品種でございます」
「ぐ」
 思わず噎せ掛け、ブルースは慌ててナプキンを口に当てた。おや、とアルフレッドが眉を上げる。
「お口に合いませんでしたか?」
「……安心してくれ、梨自体は美味だ」
「とおっしゃられるのは、私のカット方法に問題が?ナイフの金気が付きましたでしょうか?」
「そこまで繊細な舌の持ち主じゃない。…そんな名前なのか、これは」
 しげしげと梨を見詰めるブルースに、はい、とアルフレッドは深く頷く。
「レクラークであったかクラークであったか、少々定かではありませんが、そのような名前でございました。何でもこの種の中ではかなりの大きさで、そして――晩熟であるとか」
「…晩熟」
「はい」
 つまり熟するのが遅いと言う事だ。しかも、大きい。
 ブルースが思い出したクラークの姿は、当然あの赤いケープを翻す方ではなく、背中を丸めて照れ臭そうにどもる記者の方だった。
 似たような物が世の中にはあるものだと、少しばかり感嘆してしまう。ごくごく淡い紅を帯びた果肉を見ていたブルースの脳裏に、ちらりとある悪戯が過ぎった。
「アルフレッド」
「何でございましょうか」
「この梨、もう1つあるかな?」
 唇の端に笑みを刻みながら、ブルースは果肉にもう1度、銀色のフォークを突き立てた。



 滅多に掛けない電話を掛けてみれば、受話器の向こうのクラークは飛び上がるほど驚いたらしい。何かにぶつかる音、何かが壊れる音、そして嘆声がほぼ同時に聞こえた。
 昨夜の事には何も触れず、ただ暇ならばこちらに来ないか、と言った。それじゃあお邪魔しようか、と弾むような声音でクラークは応じた。
 そして数分後、ブルースは皿に盛られた3つのゼネラルレクラークを前に座っていた。
 こうして見ると確かに普通の梨より大きい。ややごつごつとした見た目も彼を思わせる。ゆったりと、しかし内心ではまだかと急きながら、ブルースは足を組み替えた。
 そろそろ来ても良い頃合いだ。一瞬だけ時計に目を向けたその時、窓辺に大きな影が過ぎる。迎え入れようかと少し足を浮かし、しかし再び床に据え直して、ブルースは「開いてるぞ」と言った。
「やあ」
 窓が軋んだ音を立てて開く。レースのカーテンが纏わり付いたのは赤いケープだったが、それをそっと払い除ける頃には、既にクラークの目は分厚い眼鏡で隠されていた。
「遅かったな」
「そ、そうかい?」
 どうやら既にどぎまぎしているらしい。不明瞭な口振りで彼はソファの側に立つ。どうぞ、とブルースが横を示してやれば、視線が戸惑い勝ちに揺れた。昨夜はあれだけ真っ直ぐな、迷いの無い視線で自分を咎めたと言うのに。
 笑みを殺したブルースの横に、十分過ぎるほどの距離を取ってクラークは座した。重みを受けて押し殺した悲鳴を上げる。
「今日は、その、暇で?」
「ああ。会議も出張も入っていない。…デートの予定もな」
 ああともううとも付かぬ声でクラークは頷く。それから、緩やかに波打つ前髪越しに、そっとブルースを見やって呟いた。
「…僕とこうしている事は、その予定には?」
 つまりデートではないのか、と言いたいのだろう。ブルースは自分の耳朶に、誰かがさっと朱を佩いたような気がした。だがこれは本題に入る為には必要なのだ。怒ってはいけない。
「さあな。お前の想像に任せる。ところで紅茶はどうだ?」
「頂くよ。ありがとう」
 用意していたポットに用意していた湯を注ぎ、しばらく待ってから用意していたカップに注ぐ。香りはやや薄くしておいた。梨があるからだ。
「君のデザートかな?」
――良し!
 案の定、ポットの脇にあった梨にクラークが目を留めたらしい。心中でぐっと拳を握り締めてから、ブルースは何気ない微笑を装って彼に振り向いた。
「ああ、それか?昨日アルフレッドが買って来たんだ」
「結構大きいね」
「少し変わった品種らしい。ゼネラルレクラーク、と言うそうだ」
 名前だけゆっくりと紡げば、クラークは音がしそうなほど長い睫毛を瞬かせた。良くレンズに付かないものだ、とブルースは少し不思議に思う。
「それって……」
「聞けば聞く程お前に似ている」
 ここからが本領発揮だ。昨夜の行動への怒りを消す為の代価である。八つ当たりという単語には一時線を引き、ブルースは語り続けた。
「名前ばかりではない。見た目通り、この種にしてはかなり大きいと言う特徴がある」
「そ、そうなんだ」
「それに果実の常と言えば常なのだが」
 梨を手にしたブルースは、ずい、とクラークに向けて身を乗り出した。慌てたようにクラークが下がろうとするが、いかんせん彼が座っているのはソファの端である。逃げ場などない。
「今は赤に近付いているが、取ったばかりの時はもっと黄色に近いんだ。ある一定期間は保存し熟させなければ青臭い。だがこのゼネラルレクラークは、その期間がかなり長いと来ている。……つまり」
「つまり?」
「晩熟なんだ」
 おくて、とクラークが繰り返す。力無く動いたその唇に梨を軽く押し当てると、ブルースは手を離し身を引いた。
「そんな所までお前と一緒なのだからな。素晴らしくそっくりだ。 アルフレッドから聞いた時は随分と驚いたぞ」
 言いたい事を言えて、ブルースの口は軽やかに動く。クラークの事だから、僕は晩熟じゃないよと頬を赤らめて反論するのだろうが、すっきりした。さあどんな反論でも来いと、ブルースはクラークの出方を今か今かと待ち侘び――
「ブルース」
 予想以上に落ち着いた、そして低い声に背筋が粟立つのを感じた。
 おかしい、これは何かが違うと思うより早く、クラークの手が左肩を掴む。そして耳朶に唇が寄せられる気配。
「君はそう言うけれど、でもそう言う物に限ってね」
 ぐっと肩を掴まれ、促されるまま、ブルースは静かに振り返る。
 黒縁の分厚い眼鏡が、節くれ立った指によってするりと外される。常より緩く撫で付けられた前髪がその拍子に踊った。そして軽く掛かった前髪の向こうでは、昨夜と同じように青い瞳がこちらを見つめている。
 真っ直ぐに、少しの油断も逃さぬ鋭さをもって。
 クラークがふと笑ってみせた。彫刻師が刻んだような薄い唇が綻び、眉尻に笑い皺が出来る。だが瞳だけは未だ変わらず、射抜くようにブルースを見据えていた。
 梨の香りよりも甘く彼は囁く。
「……熟してからは凄いんだよ?」
――全くだ。
 そうブルースが思い知るまで、ものの数十分も掛からなかった。



 夕食のフィナーレを飾るべく用意された梨のコンポートを前に、ブルースはずっと唇を噛んでいた。
「…お口に合いませんでしょうか?」
「……梨そのものは最高だよ、アルフレッド」
「では味付けがお気に入りませんでしたか。申し訳ありません」
「いや、君の所為じゃないんだ」
 下げようとしたアルフレッドを抑えながらも、ブルースの視線は梨のコンポートに吸い付けられたままだった。
「悪いのは、私だ」
 からかおうと妙な画策をした事も勿論だが、それよりも。
――あれも余り悪くなかった、などと思っている事が十分に悪い。
 反省を噛み締めながらも頬の赤いブルースの横で、アルフレッドは矢張りコンポートのワインが利き過ぎたか、とひとり静かに下げる時を待っていた。

書いていたら色々楽しくなってきて長くなりました。
読んで下さった方&見たいと言って下さった方、ありがとうございます。
ゼネラルレクラークは英語で言うと、ジェネラル・レクラークのようです。
それにしても、たまに強気になる超人って良いですよね。
強気版でもケダモノー!か紳士かで別れていると思います。
今回はご想像にお任せします。
あとアルフレッドの言う「映画」はダブルオーナンバーのアレで。

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