午前中はなかなか良い日だった。良く睡眠を取ったお蔭か、昨夜負った擦過傷も大して痛まず、メトロポリスの犯罪者の新たなデータも手に入った。
午後も悪くなかった。メトロポリス行きの飛行機が遅れる事も無かったし、取ったホテルの花屋には見事な薔薇が置いてあった。メトロポリスで付き合っている女性3人分の花束を、明日に配達するよう頼んでみれば、二つ返事でにこやかに頷いてくれた。
会議もくどくど続く事はなく、無事に時間以内に終了出来た。やかましい老人に捕まって説教される事も無かった。
珍しく爽やかな気分でビルの外に出てみれば、夜空には明るい満月が掛かっていた。これも悪くない。
ブルースはそのまま、ホテルまで歩いて帰る事を決めた。
バレンタイン・ビギンズ
午前中は散々だった。目覚ましが壊れていて遅刻し掛けた上に、PCの不調で原稿のデータがバックアップごと消え去った。幸い概要を手書きで残しておいたからまだ良かったが、死刑囚の刑が執行されたと言う記事は、再度完成させるまで酷く時間を要した。
午後も不運だった。取材先で激高した相手に追い出され、バケツの水を浴びせられた。同行していたジミー、と言うか彼の持っていたカメラは守ったが、上半身はすっかりずぶ濡れになった。スーツの内ポケットに入れていた、携帯電話の待ち受け画面は奇妙な点滅を繰り返している。
『溜息なんか吐いちゃ駄目よ、クラーク。幸せが逃げていくわ』
――でも母さん、少しくらいは吐かせてよ。
ただでさえ先週から公私ともども忙しく、疲れていたと言うのに。こう悪い事ばかりが続いては遣る瀬無い。水を掛けた取材相手からの情報をとりあえずメモに纏め、鞄の中に仕舞うと、クラークはクッション部分が窪んで来た椅子から立ち上がった。これが壊れなかったのは今日の幸運だ。
「あら、今日は早いのね」
細い腕にA4サイズの紙束を抱え込みながら、ロイスがそう声を掛けて来た。通る同僚達の邪魔にならぬよう、壁に身を寄せクラークは頷く。
「うん。ようやく一段落付きそうだから」
「お疲れ様。貴方の所にスクープが迷い込まないよう祈っているわ」
「そうなったら君にリボン付きでプレゼントするよ。…ところでロイス、スクープにoは幾つ?」
「1つね」
「2つだ」
にっと笑ったクラークに、ロイスは整った柳眉を寄せる。ごめん、と苦笑しながら手を振って、クラークはオフィスのドアを抜けた。
外へ出ると鋭い風に空っぽの胃が反応したのか、もの寂しげな音が鳴った。夕食時をそろそろ回った頃だが、淡い灯りの中を歩く人影は存外多く、今日が休日前なのだと言う事をクラークに知らせる。
部屋の冷蔵庫も胃と同じくらい空っぽだ。外食するにしても少々混んでいるかもしれないが、と言う考えがちらりと過ぎったが、空腹には勝てない。クラークは足を近くのファーストフード店へと向けた。
赤と黄色のマークを横目に中へ入れば、案の定ぎっちりと人が座っていた。注文したセットを持ち2階席へと赴いたが、いるのは若いカップルか家族連ればかりで、到底入っていける雰囲気ではない。
階段を下りながら1階を見回しても、先程と変わらない光景が広がっているだけだ。だが最後の3段目を下り、何気なく横に目をやると、奇跡があった。
窓際に面した長いテーブル席。途中に立てられている柱と、階段に隠されるようにして、たった一つだけ椅子が空いている。
――良し!
本日ようやくの幸運に、足取り軽くそちらへ進むと――空いている椅子の奥にもうひとつ、男を乗せた椅子があった。
電灯が照らす範囲からは僅かに外れているらしい。そこだけ切り取られたかのような暗がりで、灰色のスーツを着た50歳前後の男が1人、静かにドリンクのストローを咥えている。
――気付かなかった。
心臓の鼓動さえ聞かせないような気配の薄さだ。クラークは思わず目を瞬かせたが、極力明るい声と微笑で話し掛けた。
「あの、ここ空いていますか?」
昼間のライオンのように、重たげな瞼がゆっくりと動く。
鈍く光る瞳には、驚きの色はおろか、話し掛けられた事への反応が何ひとつ見られない。英語が喋れないと言うならば困惑を見せるのが普通だが、それにしては余りにも堂々としていた。値踏みされているのでは、と疑わしくなってしまうほどに。
だが唐突に、男はするりと椅子を引いた。
「どうぞ」
「…ありがとうございます」
音ひとつ立てぬ滑らかな仕草にどこかの執事を思い出しつつ、クラークはセットを置き椅子に腰掛けた。包み紙を剥きチーズバーガーに齧り付けば、一瞬で横の男の事は脳裏から消え去る。
半分ほどチーズバーガーを胃袋に収めた所で、踵にこつん、と何かが当たった。椅子の足かと思い目線を下にやれば、玩具の小さな車が転がっている。
拾って振り返ると5歳ほどの少年がきょろきょろと辺りを見回していた。食べかけのチーズバーガーを置いて、クラークはその子に向かって歩いていく。
「これ、君のかい?」
「あ!」
差し出すと同時に少年の顔が明るくなった。小さな手の上に、クラークはしゃがみながら赤い車を置く。
「ここは人が多いし狭くて危ないよ?遊ぶなら、お母さんかお父さんのいる所が良いな」
「うん、そうする。おじさんありがとう!」
こっくり頷いてから少年は踵を返し、階段を昇っていく。おじさんと言われた事に思わず苦笑しつつクラークはその背を見送り、再び席に戻った。
「…子どもが好きなのかね?」
「え?!」
危うくチーズバーガーを取り落としそうになった。何とか救出して横を向けば、男が相変わらず感情の読み取れぬ目でこちらを見ている。
「は、はい。好きです」
「良い事だ」
そう言って男はストローを咥え直した。中を通っていく色からして、恐らくシェイク。それもストロベリー味だろう。男の見た目とは少々不釣合いな組み合わせであったが、むしろクラークは少しほっとした。
「仕事は教師か何か?」
「いえ、記者です」
「そうか。随分と良い先生だろうと思ったが」
「…ありがとうございます」
くすぐったさを覚えてクラークは微笑した。照れ臭さを隠すべく、コーラを手に取って一口飲む。男に視線を移すと、椅子の脇に置かれた大きなアタッシュケースと紙袋が見えた。
「ご旅行ですか?」
「そうだな。仕事半分、観光半分といった所だ」
「良いですね、どちらからお越しに?」
「スイスから」
遠いな、とクラークは思った。しかしスイスにいたと言う割には、男の英語は流暢だった。端々に少しフランス訛りのような所はあるが、それに目を瞑ればクラークとほぼ変わらぬアメリカ英語だ。
「随分と遠いですね。…出身もスイスなんですか?」
「この国からはスイス以上に遠い所だ」
静かに答えて男は長い脚を組んだ。それを見て初めて、クラークは彼と自分の目線が変わらぬ事に気付いた。身長だけならば自分と大差あるまい。
「君はこの街の?」
立ったらどれ位だろう、と思わず考えていたクラークは、男の声にはっとした。軽く手を振って答える。
「ええまあ、ここと遠くない所に住んで」
「おじちゃん!」
響いた高い声に振り返ると、先程の少年が両親と店から出て行く所だった。
「さっきはありがとー!バイバーイ!」
「はーい、気を付けて帰るんだよー」
目を細めてクラークは手を振り返した。軽く両親が頭を下げ、店のドアを開ける。少年は飛び跳ねるように外へと出て行った。
「良い父親になれる」
「はは、まず相手を見付けなきゃ」
――いる事はいるけれど。
心中にきつい目を思い浮かべながら、クラークはチーズバーガーを口にした。冷めて塩っ気のきつくなった味は、“相手”の執事が作る料理には敵うべくもないが、贅沢は言っていられない。
「…私にも子どもがいてね」
ぽつりと男が呟いた。
その目線は窓の外、両親に連れられた子どもの後ろ姿に向けられていた。それから、チーズバーガーを嚥下し終えたクラークへと。
「随分と前に亡くしてしまったが。…それでも不思議なものだ。今でも時々思い出すのだから」
「…お子さんを、とても大事に思っていたからですよ」
「だが悪い父親だった。君の足元にも及ばないだろう」
「そんな!」
クラークは強く首を振った。弾みで少し眼鏡がずれたが、そんな事に構わず身を乗り出す。男が少しだけ、気圧されたように眉を寄せた。
「その子だって貴方に愛されたと分かっていますよ。今でも思い出すほど大事に思っている位なら、きっと、天国にいても通じて――」
喉が詰まってクラークは口を閉じた。視界の隅がぼやけて滲んでいる。会って間もない相手の前で泣くのは恥ずかしい事この上ないが、隠そうと俯いた拍子に涙が転がり落ちそうだった。
「…すみません、良く知らないのに勝手な事を言って」
自分が死別したのは子どもではなく、実の両親だった。顔も覚えられない内に別れてしまったが、それでも彼らの思いは十分に伝わっている。だからこそ、男が諦めたような口振りで言うのが、悲しかった。
力を込めて膝を握った手が微かに震えている。その上に軽く男の手が重なった。
「…君は優しい男だな」
「いえ、そんな」
「気にしないでくれ。私こそ夕食時にすべき話ではなかった」
促すように男が手を叩いた。溜まった涙を払うように顔を振ってから、クラークはテーブルに向き直る。頬に感じる男の視線が、先程とは異なり暖かなものに感じられた。それが逆に恥ずかしくて、クラークは包み紙で顔を埋めるようにしながら、残り二口のチーズバーガーを食べた。
味などもう良く分からない。涙を耐えた所為で喉の辺りが妙に重かった。コーラで流そうと手を伸ばした瞬間、窓の向こうから近付いて来る、見慣れた人影をクラークは認めた。