「ブルース?」
 思わず声が出た。
 スーパーヒアリングなど持たぬにも関わらず、横断歩道を渡って来たブルースもほぼ同時に顔を上げる。クラークとかち合った視線は、そのまま横の男へと移動して――人形のように凍り付いた。
 つられてクラークも横の男に視線を移せば、彼は何故かシェイクの容器を指が食い込むほど握り締めていた。目はひたとブルースに吸い付いている。そして整えられた口髭には、ピンク色したシェイクの飛沫がだらりとぶら下がっていた。
「……あの」
「君は」
 お髭に付いていますよ、とクラークが言うより早く、男が口を開いた。
「彼の、知り合いかね?」
――しまった!
 かの有名なブルース・ウェインと一介の記者が、知り合いである筈がない。自分のうっかりを銀河系の彼方まで飛ばしてやりたい気持ちだった。
「い、いいえ!知り合いと言うか、有名人ですし、それにあの人は僕の会社の株主で、な、何度か話した事はありますがいつも名前を間違えられる程度の関係ですよ!」
 急いで手と首を同時に振っても、男はじっと、また例の神秘的な目でクラークとブルースを交互に見つめていた。
 だがやがて、男の手がトレイに置いてあった紙ナプキンを取り上げる。
「成る程」
 さっと髭に付いたシェイクを拭き取ってから、男は横のアタッシュケースと紙袋を片手に立ち上がった。椅子に座ったままのクラークにとっては、まるで岩山が聳え立つように見える。
「夕食を邪魔してすまなかった。お蔭で有意義な時間を過ごせたよ。ありがとう」
「あ、いえ、僕も楽しかったです。お気を付けて」
 空いた片手でトレイを掴むと、男はクラークに背を向け歩いていった。



 ビルの隙間だとか、電話ボックスだとか、茂みの中だとか、そう言った所に敵の気配は伺えない。通行人もごく普通の市民ばかりで、怪しげな様子は全く感じなかった。
――護衛が無しとは珍しい。
 だが肩幅に足を開き、いつどこから襲撃されても良いようにブルースは身構える。赤と黄色のライトに照らされながら、かつての師匠は悠々と店から出て来た。
「何故ここに?」
 そう問うたのはブルースではなく、ライオンの唸りのような声だった。舌打ちしたくなるのを堪えて問いを投げ返す。
「それはこちらの台詞だ。あんたこそ何故メトロポリスに?」
「世界で最も繁栄している都市の見学に」
「今度はこの街を狙うつもりか」
 答えは肩を竦めるだけ。考えてみれば、この男に聞いて碌な答えを得られた試しが無い。完全な無駄だった。
 視線を尖らせるブルースとは対照的に、男の視線は余裕の色を帯び始める。良くない兆候だと自分を叱咤すればするほど、近付く相手の威圧感は増すばかりだ。
「お前はまた下らない仕事か」
「お前の“仕事”より下らないものは無い、ラーズ」
「その名で私を呼べるようになったとはな」
 腕を伸ばせば届くような距離。窓越しに自分達を見つめている男ほど、視力が優れている訳ではないが、相手の顔に浮かぶ微笑ははっきりと読み取れる。
「まあ良い。今回はこのまま帰るさ。――迎えも来た」
 すぐ横の道路に黒塗りのヴァンが1台止まった。軋んだ音を立ててドアが開く。中から感じる殺気はブルースにも覚えのあるものだ。
 闇に隠れ敵を倒す、影の軍団――。
 だが今回は本当に戦う気が無いらしい。ヴァンから誰かが飛び出す気配は無い。
「それにしても」
 つい、と視線が横に向けられる。その後を追えば窓越しに、眉尻を下げてこちらを見つめるクラークの姿があった。男がどこか、しみじみとした口調で言う。
「…男の趣味が悪くなったな」
「な」
 何だと、とブルースが言い返そうとした瞬間、男が紙袋に手を入れる。銃か、はたまた投げナイフか。咄嗟に鞄を胸元へ引き寄せたブルースの前に、予想以上の早さで手が伸びた。

 しかし、襲い掛かったのは痛みでもなくサイレンサーの音でもなく、白と青の花束だった。

 余りの事で頭に昇り掛けていた熱が引いていく。まさか中に爆弾か恐怖ガスでも入っているのではないか。そう思い退こうとした所で、一抱えもありそうな花束から更に一輪、男は花を抜き取る。
「そう怒るな。短気は短慮を招く」
 夜目にも鮮やかな青をこれ見よがしに振ってから、彼はブルースの鞄の取っ手に、小さな花をそっと差し入れた。唖然とするブルースに小さく微笑んで、男はさっと踵を返しヴァンに向かう。
「デュ……ラーズ!何のつもりだ!」
 道行く人の訝しげな視線も構わずブルースは叫んだ。しかし当然、まともな答えは返って来ない。
「幾ら世間知らずでもカレンダーは見ておけ。それでは、次会う時までしばしお別れだ」
 ブルースの反論を許さず、それだけ言うと男はヴァンのドアを閉めた。黒塗りの車はそのまま、メトロポリスの夜に消えていく。
「ブルース」
 見送るしかないブルースに、脇から声が掛かった。振り向くまでもない聞き慣れた声に、思わず耐えていた溜息が口から零れていく。今日は最悪な日だ。
「…クラーク、何故あいつと仲良くマクドナルドにいるんだ?」
「たまたま席が隣になったんだよ。それより、“ラーズ”ってまさか?」
 分厚い眼鏡に隔たれた目は、既に鋼鉄の男のものになっている。消え掛かっていた緊張の糸を手繰り寄せながらブルースは頷いた。
「ああ、そのまさかだ。…しかし偶然とは言え、“悪魔の頭”と同席するとはな」
「世間は狭いな……」
 がっくりと肩を落としたクラークが、ふと首を傾げた。
「ブルース、その花は?変わっているね」
「ああ、捨てる」
「ええ?!こんなに綺麗じゃないか」
 毟り取ろうとしたブルースの手をクラークが掴む。払おうと手を振りながらブルースは言った。
「確かに綺麗は綺麗だがな、スケアクロウの恐怖ガスの原材料だぞ」
「う」
 ぱっと手が離れる。その隙に花を鞄から摘み取って、ブルースはそれにしても、と目を眇めた。
「どう言うつもりなのか……カレンダーだと?」
「カレンダー?」
 さて今日は、と脳裏に月日を並べていく。今日は別にイベントがある訳ではない。では、と明日の日付を考え出した所で、ブルースは血の気が引いていくのを感じた。
――まさか。



「例の死刑囚は?」
「既に船に乗せました。あと2時間で出航予定です」
「気付かれた様子は無いな」
「はい」
「良し」
 これで新たな“ラーズ”が見付かった。死刑執行から免れた男だ。精々それらしく振舞ってくれる事だろう。席に深く座り直すと、部下の1人がそっと紙袋を持ち上げた。
「こちらはどうしましょうか?」
「ああ……そうだったな」
 2月14日。どうせブルースの事だから、感傷的に父母の墓へ花でも捧げる事だろう。あそこには自分の血の沁みまでが埋められている。沈鬱な表情で白い花束を抱え、墓に赴いた彼の前に、例の青い花を置いておけばさぞや――と思ったのに。
「悪戯心を起こすものではないな」
「は?」
「いや、良い。無駄になった。捨てろ」
「はい」
「それと、今回はゴッサムには行かん。このまま戻るぞ」
「承知しました」
 運転手がそう答え、ハンドルを切る。
 一先ず用件は済んだ。新たに麻薬ルートのパイプも繋げた事だし、当分は骨休みが出来るだろう。タリアと故郷に帰るのも良い。ざらざらと乾いた砂と、焼き尽くす太陽が恋しかった。
 ああ、だがあの国に戻る前にすべき事がある。メトロポリスの新聞社を手当たり次第調べて、例の眼鏡の男の素性を探らねばならない。誤魔化そうと必死になってはいたが、明らかにあの男とブルースには密接な繋がりがありそうだった。
――“とても大事に思っていたから”か
 あれだけ真っ正直な事を口にする男が、よりによってブルースと知人であるなど。一体どうやって親しくなったのか。数百年の時を経て来た脳にも、これと言った答えを導き出す事は出来ない。
 ただ彼が、かつて娘達に求婚して来た男達と同じ墓に入らなければ良い。そう思いながら、静かに目を閉じた。

と言う訳で、師匠から(はた迷惑な)愛を込めて。

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