THORNY ROSES
丁寧に包んだ薔薇はワインを思わせる紅色だったが、PC画面の光を受けるとやや渋い色合いに見える。もう少し色の変化を考えるべきだったかもしれない。
だがこの時計塔の主には薔薇よりも、それに添えられた四角い箱の方が重要であったようだ。何の変哲も無い白い箱を受け取りながら、バーバラは機嫌よく唇を綻ばせている。
「ありがとう。今年も手作りなの?」
「勿論だ。だが日持ちもすると言っていた。牛乳の分量がどうとか」
「良かった!流石ね」
オラクルの満面の笑みなど普段は余り見られない。ディックあたりが来たら、と思いながらブルースは室内に視線を張り巡らせた。相変わらず機械とコードに満ちた部屋に、彼がプレゼントを渡した気配は感じられない。
ここを殺伐の一歩手前でガードしているのは、メインコンピュータの前にある、バーバラ手作りの小さな人形だけである。前回の訪問ではバットガールだったが、今日飾られているのは何故かスーパーマンだった。
「…他の連中は何も言って来なかったか?」
墓穴を掘るかもしれないが、ブルースはついそう問うてしまった。幸い振り上げられた顔には怒りの色が見られない。
「そうそう、ロビンが今朝早く、わざわざ家に来てくれたのよ。“時計塔は花を渡す場所じゃないからね”だって。貴方の気障な所が移ったんじゃない?」
そう答えて彼女は唇の端を吊り上げた。ブルースは思わず肩を竦める。
「私もそこまで気が及ばない。ここへ渡しに来た位だからな」
「良いのよ貴方は。これがあるんだもの」
ほんのりとチョコレートの香りが漂う箱を、バーバラは軽く持ち上げる。些かロマンには欠けるかもしれないが、アルフレッド手作りのケーキとあらば致し方あるまい。ブルースは食い気に負けた花束へ同情した。溜息を隠すついでに、躊躇っていた名を口にする。
「ナイトウィングの方は?」
「え?…おかしいわね。貴方とロビン以外に、バレンタインデーを覚えているような人がいたかしら?」
眼鏡の奥の目が三日月のように細まった。同時に微笑も一段と深くなるが、持ち上げられた頬が引き攣って見えるのは、果たして薄暗がりが見せる幻か。言わねば良かったと思いつつ、ブルースは静かに一歩、また一歩と背後へ退った。
「あら帰っちゃうの?」
「ああ。忙しいからな」
そろそろ夜が本来の姿を見せる時間だ。多くの犯罪者達が、自由を楽しもうとする時間。闇夜の騎士の散歩には丁度良い頃合である。
…もっとも今ばかりは、後退中の自分に言い聞かせる、大義名分の感が否めなかったが。
「そう、気を付けてね。明日にでもアルフレッドに電話するわ」
「伝えておこう」
「あ、あともう1つ」
ケープを翻し出口に向かっていたブルースへ、バーバラが声を覆い被せる。振り返ったブルースの視界では、彼女がスーパーマン人形の手を握り、別れの挨拶をするように振っていた。
「忙しいのは良いけど、こっちの事も忘れないでね」
「……善処しよう。ところで、伝言代には何を?」
「嫌な言い方。彼は本をプレゼントしてくれただけよ。……著者のサイン付きで」
小さなスーパーマン人形の向こうから、バーバラがひょいと顔を出す。煌く瞳の強さは会った時から殆ど変わらない。どこか悪戯っ子のように見える笑顔に溜息を吐いてから、ブルースは今度こそ時計塔を後にした。
――忙しいのは良いけど、か。
ガーゴイル像から眼下の世界へと飛び下りながら、ブルースは心中でクラークと最後に会った、先月最後の日曜日を思い起こした。それから今日まで、彼と会った回数を数えてみる。
叩き出された数字は予想通りのゼロだった。
2月になると活気付くトゥーフェイスのお蔭で、今月は第2広場だとか第2銀行だとか2丁目だとか、ゴッサム中を駆け巡らされたのだ。それに加えてイベント大好きなヴィラン達の対処にも追われ、結局クラークと会うのはおろか、ウオッチタワーでの監視業務にも参加出来ていない程だった。
――今日で最後だとは思うが。
ひとまずトゥーフェイスは12日の22番街爆破計画でアーカムに送り込んだし、薔薇を狙って花屋を襲撃したポイズン・アイヴィーも警察署の玄関に縛っておいた。菓子工場に笑いガスを撒き散らそうとしたジョーカーも同様である。この時期最も動きそうな連中を封じた事で、他のヴィラン達も多少は大人しくなる筈だ。
だが、2月14日が終わるまで、油断は禁物なのである。クラークに会っている暇は無い。
ワイヤーを手繰り寄せ、繁華街とは通り1本で隔てられた所へとブルースは赴いた。人工の減少と治安の悪化、それに伴う地価の下落で、都市のブラックボックスとなった区域だ。周囲では最も高いビルの屋上に着地して、ブルースは街灯の無い一帯を見渡す。
吹き抜けた風がケープの裾と、危うく垂れ下がった電線を揺らす。笛の音にも似た風の鳴き声が止んだ瞬間、男の悲鳴が寒々しい空気を割った。
「泥棒ー!」
叫び声が掻き消えるより早く、ブルースは再びワイヤーを投げ出し、宙に身を躍らせた。
繁華街へと続く道の近くで、走る男の後姿が見えた。更にその前方では、紙袋を抱えて走る男が1人。
風と重力に任せてブルースはワイヤーを手放し、追われる男の背中目掛けて飛び掛かった。街灯も無い夜の闇が蝙蝠の影を作る事は無かったが、その男は何かを感じ取ったのだろう。振り返り、目を見開き、片手を懐に入れた所で――肩を掴まれ地面に縫われた。僅かに遅れて、地面にがさりと白い紙袋が落ちる。
「そこまでだ」
囁きながら男の手を素早く押さえ、バットカフスで後ろ手に拘束する。なおも蹴りを入れようとする相手の首筋を、軽く押さえればすぐ足が伸びた。
引ったくりの持っていたのは銃ではなくナイフだった。安物の刃を確認し、ベルトの中へと入れてからブルースは立ち上がる。振り向けば、いかにも会社員といったスーツ姿の男が、白い紙袋を拾い上げていた。
「あ、ありがとう。あんたバットマンだろう?」
「…ここ一帯は危険だぞ。早く大きな通りに戻れ」
胸元に紙袋を抱え込みながら、男は片足を夢の中に置いているような表情で頷く。
「いや、安い花屋を探してたら、こんな所に来ちまって……ありがとう。バレンタインに良い土産話が出来たよ」
「花と土産話を家族に渡したいなら、早く帰る事だな。ここを真っ直ぐ行けば出られる」
壊れた人形のように何度も頷いて、男は横をすり抜けていった。その背中が消えるのを見送ってから、引ったくりを担ごうと振り返る。その時ふと視界の片隅で、小さなものがひらりと舞う。反射的にブルースはそれを掴んだ。
開いた手の中にあったのは、夜目にも分かる紅蓮の花弁。
「……」
思わず眉を寄せるとゆったり風に揺れながらもう一片が落ちて来る。顔を振ってそれを避けながら、ブルースは曇り空を背にした鋼鉄の男を見上げた。