「高みの見物に加えて薔薇とはな。良いご身分だ」
「単に声を掛けるよりは君好みだと思ったんだけど」
「逆効果だ。さっさとメトロポリスに帰れ」

 そう言って顔を戻せば、すぐさまクラークも下りて来た。彼のブーツが地面に着くより早く、ブルースは手を開き花弁を飛ばす。引ったくりの背中に落ちたそれは、風流と言えなくも無い。
「今夜はまだ予定が?」
「お前ほど暇じゃないんだ」
「そうか」
 やや寂しそうに目元を翳らせながらも、案外あっさりとクラークは頷く。見ればその手に握られている薔薇は一輪だけではない。ちょっとした花束を作れそうな量がリボンで結ばれている。だが買ったにしては、ビニールや紙に包まれもしていないのが奇妙だ。
 だが問えば興味がある、と言う事になる。無駄話に付き合う優しさは無いとブルースは背を向けたが、それでも視線で感じ取ったのだろう。問わぬにもかかわらずクラークが口を開いた。
「実は、君にあげようと花を買っていたんだ」
 何も応じずブルースは引ったくりを担ぎ上げる。近くの交番にでも置いてくれば良かろう。そんな無言のブルースに口を閉じる事なく、背後のクラークは話を続ける。
「でも帰りに乗ったバスがうっかり歩道に突っ込みそうになって」
 うっかりで済む話なのか、と言いたいが、堪えてブルースはワイヤーを近くの柱に投げ掛ける。
「着替えて止められたから良かったんだけど、慌てていたから花束を放り出してしまったんだよ」
 振り子の要領で飛び上がっても、背後で響く声の大きさに変わりは無い。均一な距離を取りながらクラークは付いて来ているらしい。無論、ブルースは振り向かなかった。
「バスの中は人で一杯だったから、踏まれて花は滅茶苦茶になってしまってね」
 物悲しげな苦笑が聞こえる。溜息を吐くクラークの姿が目に浮かぶようだったが、振り払ってブルースはビルとビルの間をすり抜ける。
「それで質問だけど……」
 不意にクラークの声と気配が遠ざかった。諦めたのか帰ったのか、どちらにせよ集中出来て良い。
 近付いた交番の中には警官がいるようだった。下りても怪我をしない程度の高さを取り、引ったくりを放り投げる。警官が交番から出て来るより早く、ブルースは再び高度を上げ、ビルの暗がりに身を潜めた。現れた警官が男を認め、次に訝しげに周囲を見渡す。
 背後に気配を感じたのはその時だった。振り向くと、クラークが相変わらず薔薇を手にしたまま笑っている。
「花束は滅茶苦茶になったのに、どうして僕が薔薇を持っていると思う?」
「…バスの突っ込んだ先が花屋だった。そしてそこの店員がお礼にどうぞ、と薔薇を何本か取り出した。束ねているリボンのみで包装が無い理由はお前が断ったからだ。断った理由は、待っている間に野次馬が増えるとやり切れないから」
「……大正解だよ」
 目を丸くする様に少し溜飲が下がったが、しかし相手にしてしまった事には変わりない。ワイヤーを縮めブルースはビルの屋上に着地する。わざわざ速度を合わせてクラークも付いて来た。
 道行く誰かに見咎められぬようにと、退るブルースに従って立ち位置もずらす。多少は気が利くようになったらしい。
「じゃあ僕が後悔した事も分かるかい?」
 軽く首を傾げるクラークに、薔薇を指しつつブルースは答えた。
「“贈答用に使うのだから、刺は抜いて貰えば良かった”」
「流石だね」
 そう言ってクラークは苦笑した。同じ人物なのだから当たり前の事だろうが、そうやって眉尻が下がると、今の姿と朴訥な新聞記者の姿がきっちり重なる。いささか毒気を抜かれながら、ブルースはあえて肩を聳やかした。
「だがお前なら薔薇の刺など一瞬で抜けるだろう」
「うん、それも思ったんだけど――」
 空いた片手でクラークは茜色のケープを掴み、ひらひらと振ってみせる。
「この格好で、その格好の君に渡すなら、刺がある位で丁度良いかなとも思ってね」
 そうして差し出された薔薇の瑞々しい茎には、推理通りに針のような刺が存在を主張している。だがそれを差し出す手は、刺の痛みなど微塵も感じぬ頑健なものだ。薔薇と、傷ひとつ付いていないクラークの指を眺め、ブルースはふんと鼻を鳴らした。
「今夜の予定はまだあるが」
 薔薇の赤さと対照的な、青い瞳を見つめながら、唇を歪めて手を伸ばす。
「……その度胸に免じて受け取ろう」
「ありがとう」
 黒い手袋が花の刺を通す筈も無い。受け取った薔薇はまるで無害であるかのようにゆらゆらと揺れていた。
 だがこう捻った贈り方をされると、こちらも何か仕返しをしたくなる。何か無いか、と考えながら、薔薇を束ねているリボンを軽く結い直した。
――そうだ。
 閃いた思い付きが零れぬよう、ゆっくりとブルースは顔を上げる。
「それでだ、先程言ったように私はまだ街を巡る予定がある」
「うん」
「折角の品を枯らしても悪い。だから、頼んだぞ」
「え?」
 目を瞬かせるクラークの胸元に、もう1度ブルースは薔薇を差し出した。
「私の部屋に置いて来てくれ。窓の鍵は開いている」
「い、いや、ブルースそんな」
「薔薇を抱えたまま私に戦えと言うのか?」
 そう問えばクラークが口を噤んだ。幾ら何でもヴィランに近過ぎる姿だとでも思ったのだろう。渋々といった様子ではあったが手が薔薇を握る。
 彼のブーツの踵が宙に浮かんだのを見て、ブルースは手を離し数歩下がった。
「アルフレッドには頼まなくて良い。私の机の上に空いている花瓶がある」
「そこに入れれば良いんだね?…分かったよ、置いて来る」
 唇を尖らせてクラークは本格的に飛び上がった。まだ名残惜しげにこちらを見下ろす彼に、ブルースははっきりと告げる。
「花瓶は机の上の1つだけだ」
「了解しました」
 クラークがボーイさながらの恭しさで、軽く上体を屈める。それから素早く翻った茜色のケープに、ブルースはうっそりと微笑んだ。



 薔薇を散らさぬよう気遣いながらも、クラークは全速力で見慣れたウェイン邸の一室へと飛んだ。テラスに落ちていた枯れ葉が、到着の勢いでふわりと舞い上がる。
 いつもは中から開くまで待つ窓を自分で引いて、大股で中へと入り込んだ。灯りのない部屋はどこか寒々しく、勝手の違いに一瞬戸惑う。だが幾ら個人の部屋にしては広いとは言え、机がどこか迷う訳がない。
 問題は花瓶だった。
――おかしいな。
 机の上にひとつだけ。確かにそれは正しい。だが予想に違い、花瓶の中にはきちんと花が入っていた。しかも薄いオレンジ色をした薔薇が、蕾から艶やかな大輪まで咲き誇っている。
――誰かさんからの贈り物を、アルフレッドが入れたとか?
 それともまさか、ブルース一流の嫌がらせだろうか。いやそんな筈は無い、と疑念と何度も戦いながら、クラークは花瓶と手の薔薇を交互に眺める。明らかにこちらが見劣りするのが少し悔しかった。
 しかし見劣りするしないはともかく、この薔薇をどうにかしなくてはならない。だが花瓶から花を取り出す訳にもいかない。赤い薔薇を入れる隙間が無いものかと、クラークは花瓶を見つめる角度を変えた。
「あれ」
 花瓶の薔薇の中に、小さなカードが入っている。贈り主の宛名でも書かれているのだろうか。それとも愛の言葉が連ねてあるのだろうか。
 読んではいけない、と自分を叱咤しながらも、クラークの目はついついそちらに引き寄せられていく。もし女性であれば――いや男性であってもだが――落ち込む事は分かっているのだが、それでも気になるものは気になった。
 一瞬だけ、一瞬だけだ、と自分に言い訳しながら、クラークはそうっとカードの文字に目を向けた。



――さて気付いたかどうか。
 呼び寄せたバットモービルを走らせながら、ブルースは自室に置いておいた花に思いを巡らせる。バーバラに渡す花束と一緒に予約するのはどうかとも思ったが、今月上旬のスケジュールを考えると正解だった。
 ついでに花瓶の横にはチョコレートの包みも置いてあるのだが、そちらに気付く可能性はまず薄かろう。十中八九、花束に書いておいた名前に感激して、他の事など目に入らなくなる筈だ。
 それとも、どれにも気付かず機嫌を損ねたまま戻って来るか。そうなればそうなったで屋敷に帰ってからが見物だ。青くなったり赤くなったり、コスチュームさながらのクラークの顔色はあっさりと想像出来た。
 だがそれは無いと言う事を、車内に取り付けたナビシステムが告げる。画面には、背後から猛スピードで迫る“何か”が映っている。
 どうやら花には気付いたらしい。だが、もう片方はどうか――
 ブルースはバットモービルを道脇に止めた。素早く飛び下り、暗闇が支配する路地へと走り込む。そして完全に気配を絶つ寸前、聞こえよがしに小さく呟いた。

「私は花束のようにはいかんぞ」

 ゴッサムを守る闇夜の騎士を、果たして夜が明ける前に捕まえられるか。
 眼前をすり抜けていった茜色のケープに笑みを殺しながら、ブルースは静かに夜の中へと紛れていった。

ハッピーバレンタイン。
去年のバレンタインとは繋がっていませんが、ちょっとだけ対照的にした部分もあります。
薔薇を降らせる超人と、追いかけっこを楽しむ蝙蝠が書けて満足…!

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