“……州刑務所内での暴動は、武装警備員らによって無事鎮圧されました”
“この暴動による死者はゼロでしたが、怪我人が数名出た模様です”
“暴動に元ヒーローが関わっていると”
“―――”
“番組中、不適切な表現がありました”

Escape


 黄金の樹に止まった鳥の刺繍に、澱んだ紅色の液体が降り注いだ。たちまち広がり絨毯を侵食していく血溜りに、長い吐息が覆い被さる。
「悪い。汚しちまった」
「構わん」
 カーテンの向こう側には曇り空が広がっている。屋敷の外の風景は、一足先に冬が訪れたかのように沈鬱だった。葉を散らされた木は無言で手を伸ばし合い、時の流れ以外のものを頑なに拒み続けている。
 強引にその囲みを破った男は、引っ張り出してきた古い担架に横たわっていた。銃弾が掠めたと言う脇腹に黒ずんだジャケットを巻き付けて。尤も、傷が開いたのは門に突っ込んだからだ、と言うのが可笑しかったが。
「このお体で良くお越しに」
「こんな体でなけりゃ、ここまで来なかったさ」
 頬の裂傷に血を滲ませながら、幽鬼じみた顔色でオリバーは微笑む。腕まくりをしたアルフレッドは慎重な手付きでジャケットを剥がし始めた。出血量は多い。が、男の年齢不相応な回復力と、同じく執事の年齢不相応な腕から考えれば、最悪の事態にはなるまい。
 2人の様子を見つめながら、ブルースは額に張り付いた髪をかき上げる。もう半ば以上白に染まった髪は、寝起きの慌しさで乱れ切っていた。
「アルフレッド、バイクを片付けて来る。車庫は空いているか?」
「旦那様のご趣味のお蔭で、あちらはもう一杯でございますよ」
「適当なものを1台捨てれば良いだろう」
「もっと盗難車に相応しい置き場を存じております」
「どこだ?」
「地下に」
 ドアを開き掛けていたブルースは、手を止めた。
 アルフレッドが乾いた声で言う。
「お嫌でしたら、ガレージ業界の更なる発展に一役買われるおつもりは?」

 朝の光も薄暗がりも、この地下世界には存在しない。バイクのヘッドライトが辛うじて行く手を示しているだけだ。一歩間違えれば奈落の底に行きかねない、崖だらけの道ではあったが、それでもここはブルースにとって馴染み深いものだった。
 微かな水の匂いも、果てしなく続く闇も、蝙蝠達の羽音も、全て。
 数多の技術を結晶した車体が居並ぶ中に、ちっぽけな盗難バイクを座らせる。車体に血が付着していないかもう1度確認してから、ブルースは周囲を見渡した。壁に彫られた彫像のように、往年の名車達には蜘蛛の巣が張られ、夜を疾走していた頃の面影はない。静かに滑らせた指には、厚い埃が纏わりつく。
―――墓場だ。
 だが振り仰いだ上空で口を開けているのは、あの頃と変わらぬ太古の闇だった。

 屋敷に戻った頃には、既にオリバーの治療は一通り終わっていた。
「お早いお帰りで」
 ブルースの姿を見てアルフレッドが言う。何も返答せず、ブルースは担架へと歩を進めた。慣れっこだった血の臭いが、妙に生々しく鼻腔をつく。
「寝室へご案内しようと思いますが、お手を貸して頂けますか?」
「ああ、勿論だ」
滑車が回る。オリバーの灰がかった金髪が揺れる。
「…痩せたな、オリー」
 楽々と掴めそうな手首を見つめ、ブルースはかつての友の寝顔にそう呟いた。



“…州刑務所内での暴動は、警備員からの殴打がきっかけと当局は発表しています”
“重犯罪者への暴行は以前より問題視されており、特に元ヒーローへの扱いは”
“―――”
“番組中、不適切な表現がありました”



 今の所、どのメディアもオリバー・クイーンの脱走については言及していない。
 それは必ずしも、当局側が問題にしていない事の表れではなかった。むしろその逆というのが、ブルースとオリバーの間で一致した考えだった。
 5年前の事件以前から、オリバーは過激派ヒーローの代名詞のような存在だった。その男が刑務所を脱走したのだ。醜聞と妙な刺激を嫌って内密にしているのだろうが、実際は血眼になって探している筈である。こういうタイプの男は、放っておくと何をしでかすか分からない。
 深手にも関わらず、オリバーはどこへも寄らず一直線にウェイン邸へやって来た。目撃者はいない筈だ。
 しかし盗んだバイクのガソリン量や、可能な走行距離を検討に入れれば、逃亡範囲は自ずから決まっていく。当局側がゴッサム市内へのみ目を向けてくれれば良いが、ウェイン邸が怪しまれる可能性も少なくない。ここ数日は迂闊な動きを慎むべきだとブルースは判断した。
 そして選んだ行動は、いつも通りに過ごす事だった。

 耳朶に叩き付けられる咆哮は、いつ聞いても心が休まる。
 重厚なハンドルを力ずくで切り、壁を擦ってカーブを曲がる。車体にはさぞ美しい傷が出来た事だろう。ブレーキを踏んだ瞬間、タイヤが悲鳴を上げて身を捩った。
 そして目前に現れる壁。
だが全身をばらばらにするような衝撃の前に、純白の布地がたちまち世界を包んだ。
「前から思っていたけど」
 前方を潰され、エアバッグを作動した開発車に溜め息を吐いてから、キャロルはブルースに向き直った。
「あなた、死ぬ気なんじゃないの?」
「さて」
 大仰に肩を竦めたブルースに、キャロルの眉間の皺がまた深まった。その皺にブルースは軽く笑いかける。
「次のレースまでは生きるつもりだよ」
「…じゃあ開発車もその頃まで生かしてあげて」
「努力する」
 予備の車が運び入れられる。ブルースは踵を返してそちらへと向かった。
 運転が生活の一部になっていたのはいつからだろうか。馬力や速さよりも、死の淵を覗き込むような感覚に憑かれたのはいつからだった?
もう覚えていない。全てが遠い昔のようだ。
ケープとタイツを洞窟に埋葬した日から、ブルースにとっての現実は淡いものとなっていた。時だけが、老いという形で現れていく。その時間から、心が蝕まれるような焦燥感から逃げ出す為に、プレイボーイ時代よりも道楽にのめり込んだ。
 ヘルメットを着け車に乗る事、酒に酔う事、それら生を明白に感じられる瞬間こそが、ブルースにとっての全てだった。
 再び爆音が上がる。
 限界までスピードを上げ、コーナーをきわどい速さで折れた。観客席にいるキャロルやスタッフが唖然とした様が良く見える。彼らには悪いが――爽快だ。
 だが、3つ目のコーナーを曲がった瞬間、ブルースはアクセルを踏む足を緩めた。そしてすぐ停車させる。
「どうしたの?」
 駆け寄るキャロル達にブルースは一瞥もくれず、ある一点をひたすらに見上げていた。
「何でもない。今日は止そう」
 開かれたままの非常口のドアが、きぃきぃとか細く泣いている。
 数秒前までそこに立っていた男の姿を、ブルースの目は確かに捉えていた。

 エントランスホールには小さな喫茶店が入っていた。ログハウスを意識した店内は今時珍しく暖かみがあり、コーヒーの味もそれなりに良い。何より好奇心を丸出しにしない店員がありがたかった。昼食に利用するには打って付けの場所だ。
 小さなベルの音を立てて木製のドアが開く。足を踏み入れてすぐ、ブルースは彼に気付いた。
挨拶をしてくる店員に軽く答える時も、ブルースの視線はその男に注がれている。彼もまた、ブルースの目を見つめていた。
 他の客が燻らせた紫煙の中を、ブルースはゆるやかに潜り抜ける。日当たりの良い店内がまるで別の、ゴッサムの深い闇夜に変わったような錯覚を覚えながら。
「…やあ」
 夏の空を集めた瞳が、穏やかに微笑んだ。

 運ばれたコーヒーにブルースが口を付けるまで、クラークは何も言わなかった。
 外を眺める横顔は、同い年と言うのに精々40歳前後にしか見えない。単なる外見だけで判断するならば、ブルースの方が大分年上に見えるだろう。
 ただ、身に纏う空気がその年代の者とは明らかに違う。目の配りから、態度や喋り方に至るまで、彼は見た目とは不釣合いに老成している。こうして向かい合って対等に会話を交わしていても、怪訝な目で見られた事は1度もない。
「知っているかい」
「何を?」
「オリバーが脱走した」
 ブルースでも聞き取れないような声で、クラークはそう囁いた。静かにブルースは眉を寄せる。
「…初耳だな、いつの話だ……?この前の暴動か?」
「その通りだよ。当局側は内密にしているが、彼が収容者を煽って暴動を起こしたらしい。その隙を」
 間近を通るウェイターに会話が途切れた。クラークが誤魔化すようにコーヒーを一口啜る。ウェイターが去ってから、クラークは背筋を伸ばして再び囁いた。
「正直に言ってくれ」
 少しずり下がった眼鏡のフレームが、日差しを受けてちらりと煌いた。
「君は、関わっていないのか?…ブルース」
 久方振りに聞く声が、紡ぐ名前に鼓動が跳ねる。
 持っていたカップをソーサーに置く。澄んだ音は刹那の動揺によく似ていた。
「残念だが」
 陶器よりも冷たい声でブルースは言った。
「私は無関係だ、クラーク」
 鋼鉄の男の顔に安堵が浮かぶのも、疑念が走るのも見たくは無い。先程の彼と同じくブルースは顔を外に向けた。
 石畳の歩道横に黒い自動車が止まっていた。やや小柄な、どこにでもあるようなデザインだが、それが逆にブルースに正体を気付かせる。あの奥では、鷲の瞳が獲物を逃すまいと光っている筈だ。
 口中に広がった苦味を、無理矢理コーヒーで押し流した。

 踏みしだいた葉が悲鳴を上げた。灰色の空は重たく、空気は淀んでいる。ゴッサムの秋はそろそろ終わりに近い。ブルースの背筋に僅かな寒気が走った。
「今日は帰るのか」
「ああ。…野暮用を片付けてからね」
 背後から黒い車が近付いて来ている。バットモービルを彼らは棺桶と言ったが、あれよりもよほど棺桶らしい。ブルースは小さく鼻を鳴らした。
「野暮用、な」
「ああ。…今度は、いつ会える?」
 弱い語気は昔と殆ど変わらない。答えを遮るように冷たい風が2人の間を駆けた。
「お前の好きなようにすれば良い、クラーク」
 それだけ言ってブルースは踵を返した。振り返らなかった。そのままただ歩き続けた。
 クラークのような耳を持たない事に、感謝した。

「どうだった?」
 車の窓が下がり、陰険な男の顔が突き出される。クラークは小さくなる背中を見つめながら首を振った。
「彼は、関わっていないと言った」
「…そのまま信じる気か?」
 乗れよ、と男はドアを開ける。クラークは数呼吸の後、従った。車は再び人の歩みと変わらぬ速さで動き出す。
「ケント、あいつに問い質すよう命令された訳は分かっているだろ?」
「ああ」
 車内は窮屈だ。クラークは良くそれを知っている。ただ今日はその狭さが苛立たしい。喉に刺さった小骨のようだった。
「あんたがあの大富豪と知り合いだから、ってだけじゃない。上層部はウェインの資産を狙っているんだよ」
「聞いたよ」
 せめてもう少し足を伸ばす事が出来れば、居心地は良くなるのだが。
「なら話は早い。要するにだ、あいつが白じゃ困る訳だ。数年前の騒動でだって、あいつは、その……あんた方を庇っていた。動機はどうにでもなる」
「彼があちこちから煙たがられているのは知っている」
 助手席のシートがもう少し前に行けば良いのだが、この男がもう少し脇にずれてくれれば良いのだが――。
「だから?僕にどう報告しろと?」
「分かっているだろ。あんたなら相手の心拍数がどうの、体温上昇がどうのと機械無しでも文句を付けられるじゃないか」
 車内は更に空気が悪い。3人分の二酸化炭素が篭っているのだ。少しだけ窓を開ければ幾分か楽になるだろう。
「要するにだ、ウェインは黒だって言えば良いのさ」
 その途端、車内が薄っすらと茜色に染まった。
 燃え上がったクラークの瞳の力は何も傷付けず、ただ辺りを朝焼けの色に染めただけだった。だが運転手は余程驚いたのだろう。笛のような悲鳴が上がったと同時に車はがくんと左右へ揺れた。
「何してやがる!」
 男が運転手のシートを蹴り飛ばす。鈍い音に呼応するように車内へと暗がりが戻った。前後して車がまともに走り出し、四方八方から鳴り響く警笛も背後へと遠ざかっていく。
「ブルース・ウェインは」
 普段と変わりない穏やかな声音で、クラークはゆっくりと言葉を紡いだ。
「白だ」
「…そうかい」
 頷く男の瞼が微かに震えている。まるで化け物を見ているようだ。
 化け物。確かに彼らから見れば怪物以外の何者でもない。クラークは瞬く間に彼らを殺せるだけではなく、ここら一帯を灰燼にしてしまえる。もう少し時間があればこの星までもばらばらに出来る。
 恐れるのは当たり前なのだ。クラークはそう自分に言い聞かせる。だからこそ、力を正しい事へ用いる為に、こうして国に従っているのだ。そうする事がきっと、彼らから恐れを取り除いてくれる。
 狭いシートにクラークは座り直した。今日中にも結果を報告しなければならない。
 お前の考えは欺瞞であり詭弁であり、屈服以外の何物でも無いと罵った、あのブルースを守る為にも。

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