“…鎮圧された州刑務所内には静けさが広がっています”
“収容者の間には逃げた人物がいたとの噂も広まっているようで”
“―――”
“番組中、不適切な表現がありました”

Escape


 ブルースは扉を開けた。漂っていた血の臭いは大分薄れ、代わりに包帯や消毒液の臭いが鼻腔を擽る。まるで病院だ。
「よう」
「起きたか」
「体がなまって来てな。おちおち寝てもいられん」
 オリーの言葉はいつも、半ば本気で半ば嘘だ。鉛色をした顔が、今日は些か嘘の割合が多いとブルースに告げてくれる。僅かに苦笑してブルースはベッドの横に座った。
「その様子だとすぐ治る」
「当たり前だ。とっとと出てってやるから安心しろ」
「どこに出て行くつもりだ?」
 ブルースはオリーの左肩を軽く叩いた。既に5年前、そこから先を失った場所。
「ひとまずはキューバだな」
「止せ。あと数年もしない内に地球から消えるぞ」
「数年は大丈夫って事だろう。その間に葉巻とラム酒をたっぷり味わっておくさ。あんたには興味が無いかもしれんが――」
 ふとそこでオリーは言葉を切る。1度まじまじとブルースを見上げてから、彼は首を振った。
「そう言えば禁酒禁煙は止めたんだったな」
「ああ、随分と昔に」
「俺がぶちこまれる前だったか?」
「後だ」
 少し首を傾げながらブルースは記憶を掘り返していく。霧か靄に覆われたような手応えしか感じられないのは、恐らく年の所為なのだろう。
「4年前か、5年前か、もう覚えていない」
 朧な語尾に、折り良くこつこつと扉を叩く音が被さった。入ってくれとブルースが答えれば、替えの包帯や薬を乗せた台を押しながら、アルフレッドが扉を開く。立ち上がって重い扉を押さえながら、ブルースは寝台のオリーに目を向けた。
「キューバでもどこでも行くのは構わんが、傷が治ってからにしてくれ。でなければ向こうの暑さに傷がやられるぞ」
「分かってるさ」
「治ってからファーストクラスで乾杯すると良い」
「…悪かない。美人の同伴者がいたら最高だ」
「セッティングしよう。心当たりがある」
 オリー好みの、網タイツが似合う脚をした、振るいつきたくなるような美女だ。
 ただし30年前は、という言葉は、彼女とオリーが会う時まで取っておく事にした。月の基地が役目を終わらされてから、久しく会っていない相手の電話番号はどこにしまっただろうか。
 扉を閉めながらブルースは思い出し、唸る。
 どこに?
 ――地下に。

 データは相変わらず健在だ。ブルースが埃を払うと、連動して地下のあちこちが朧に照らし出され、黒い画面が背後の展示物を反射して浮かびあがらせる。黄と緑と。妖精のようなコスチュームを彼は最初恥ずかしがっていた。
 助演俳優で生涯を終えた彼のためにと、設置したスポットライトが1度消え、画面からコスチュームもふつりと消える。構わず検索を行うブルースの背後で、再びスポットライトが点く。
 画面に浮かび上がった色は黄。曲がりくねった黄色の蛇に、赤と青が絡み付いて、ブルースから呼吸を忘れさせる。
「やあ」
「何をしに来た」
 間髪入れずに返せたのは奇跡に近い。黄に侵食されながら画面に浮かぶ、彼女の連絡先も消せたとなれば、最早これは奇跡そのものだ。ブルースは思い出して息を吸う。埃の臭いを鼻先に感じるようになってから振り向いた。
「ブラック・キャナリーのデータを消す必要は無かったな。当局が知らないとでも思ったかい?」
「もう1度尋ねよう。何をしに来た?」
「君が今更キャナリーの連絡先を探す、その理由を求めに」
 クラークが1歩踏み出す。ブルースは邸内に緊急事態を告げるボタンがどれだったか、地下世界の太陽神を見ながら指先で探す。当然、助けを求める為ではない。
「年を取ると物忘れが酷くなってな。ジョーカーにも随分と殴られた」
「拳やスパナでね。よく脳震盪を起こさなかったものだ」
「お前の目がある所ではそうだった」
 あった、とブルースは心中で呟く。指先に確かな手触りがある。
「あった」
 声に出したのはクラークだった。
 肩越しに彼方へ向けた視線は薄く青い光を帯びている。向けられた方には何体もの車があり、更にその影には盗まれた中古のバイクがある。何を見ているかはブルースにも分かった。言い逃れは出来ない。する必要もあるまい。
 問題は2つだ。ブルースがこのボタンを押す前にクラークに失神させられるか?それともブルースが素手でクラークを失神させられるか?
 青い光はもう消えて、虹彩の青さしか目にはもう宿っていない。動きを注視したとて無駄な事だと分かり切っている。ブルースはだから、クラークの目ばかり見つめていた。その端が、ふと笑う。もう少し水分があれば泣いているように見えたろう。
「…ここにあの指輪があれば良かった、と思うかい?」
 滲むような緑色の光をブルースは容易に思い出せる。5年前、鉛の黒いケースに入れ、この胸元に叩き付けた。抱えていたオリーのずっしりとした重みと、おびただしい血の流れと、呆然と佇んでいたクラークの表情まで、ブルースはとても簡単に思い出せる。
 唇が勝手に歪んで言葉を紡いだ。
「私が?あの指輪があれば良かったと?あの指輪を捨てた事に後悔を覚えると?」
 喉からぐっと込み上げた笑いを飲み干し、ブルースは延々と続く闇の天井を見上げた。蝙蝠の鳴き声が聞こえる。堪えている自分の笑いと区別が付かない。
「ああ――クラーク、クラーク・ケント、頼むから冗談は止せ。もし私があの指輪を持ち続けていたとしたら、どうなっていると思う?教えてやろう」
 スーパーヒーローの胸倉を掴んで引き寄せる程度の力は、今のブルースも有している。間近に迫った青と、そこに浮かんだ狼狽に、ブルースは恍惚さえ覚えながら囁いた。
「もっと早くに、星条旗に包まれた棺をプレゼントしていた」
「…ブルース」
「帰るがいい」
 未だに厚い胸板は突き飛ばし甲斐があった。ふらりと脚が宙に浮き、赤いケープが揺れる。突き飛ばした側を逆に転ばせないように、という細心の配慮が透けて見えても、ブルースの眉間は突き飛ばした際と同じ深さを保っている。
「ここには何も無い。ただの墓場だ」
「ブルース、話を」
「お前が“ヒーロー”でありたいならば別だ、スーパーマン」
 言い募ろうしたクラークは口を閉じた。かつての闇夜の主は両腕を開いている。
 まるで誰かを――片腕を失い墜落する友を迎えるように。
「……分かった」
 クラークはゆっくりと上昇する。
「君は無関係なんだな、ブルース」
「ああ」
「何1つとして、関わってはいないんだな」
「ああ」
 冷厳とした声音を発する彼の背後に、どこまでも、夜の果てまでも続く宵闇色のケープが見える。
 残った腕をだらりと下げた盟友の姿が、右手に持った鉛のケースが見える。
 もうすぐ胸元に投げられるだろうそのケースから逃れるべく、クラークは一気に、弾丸よりも速く飛んだ。
「私は無関係だ」
 騒ぐ蝙蝠達を見上げながらブルースは呟く。
「少なくとも、お前からは」



 2日後、1ヵ月後に飛び立つキューバ行きのファーストクラスが、2席予約で埋められる。
 飛び立ったその機体の周辺を、何かが飛び回ったという報告は、3流オカルト雑誌に小さな枠で載るだけだった。

確かOdi et amoの次くらいに書いた話です。
3〜4年くらい途中で止まっていたので絶対完結しねえ!と思ってました。やってみるものだな!
本当はロイと蝙蝠の会話とか入れたかったのですが断念しました。
DASでは特に世知辛い雰囲気ですが、TTとかYJとか若い子がらみは無事でいて欲しいです。

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