PADMA

蝋燭の灯りは影を引き立てる為に。そう思ってしまうほど闇が色濃い。
あやしく炎が揺れる度、壁のタペストリーも呼吸するように震えた。あでやかな色をした異教の宗教画だ。小さな蝋燭では照らし切れず、端が影に沈んでいる。
極めて精緻な無数の円と正方形に包まれ、大小様々な神々が、隙間を恐れるかのようにぎっしりと密集していた。炎が頼りなく揺れる度、ゆらりと重たげな瞼が動き、得体の知れぬ半眼があたりを彷徨う。この狭い小部屋自体、彼らの絵巻に描かれたものに過ぎぬかもしれないと、そう思わせるのは闇と彩りの魔術だろうか。それともどこまでも続きそうな円と正方形の連なりに、釣り込まれて眩暈を覚えたのだろうか。
ブルースは小さく息を吐いた。どちらでもないと、鼻腔をくすぐる匂いが教えていた。寺院の古柱や壁に沁み込んだ匂い。それと同じものが、この部屋にはより強く満ちている。
単純な毒物耐性の試練ならば、この部屋へ導いた男から既に受けた。ならば次は幻覚か、拷問か。どんな事が起こっても無様を見せぬよう、ブルースは手足の力を抜き、逆に腹へと力を込めた。
「美しいだろう」
傍らから突如として響いた低音に、一歩飛び退ってからブルースは後悔した。影から抜け出した相手の声にも、表情にも、ましてや気配にも、何ら殺伐としたものが感じられなかったからだ。
尤もこの男は、ブルースをしこたま殴り付ける時も、長椅子に寝そべって猫を撫ぜているような様子を変えない。分かりやすい殺気や闘争心なぞ飴玉に包み隠してしまう。だが薄明りに照らされた瞳には、明らかにブルースの過剰反応を楽しんでいる色があった。
「この寺院の至宝だ。作られてすぐ盗人に奪われたが、その男は崖から落ちて死んだ」
未熟だとも言わずにデュカードは微笑している。喉を鳴らす獅子の爪下で、ブルースは構えこそ解いたものの、緊張の糸は保ったままだ。しかし固い背中もやがて、厚い掌に促され、壁のタペストリーへと向かざるを得なくなる。
「崖の上には男が落ちた痕跡と、この曼荼羅だけが残っていた。折しも新雪が降った翌朝だ。純白の上に一幅、この絵図が広がる様は、どれほど鮮やかだった事か」
「…まるで実際に見たような言い方だな」
ブルースの言葉にデュカードは目元を和ませる。今宵はとても上機嫌らしい。彼の温順さが見た目だけと知っている身としては、だからと言って油断できるものではなかった。怪談のような霊験談にもいい気持ちはしない。
それでも先程の息苦しさが幾分か和らいだのは、横に立ち共に眺める男がいる故だろう。そう思った自身の弱さをブルースは恥じる。彼の眼に映る絵図は、神と言うよりも、そんな心の弱りに付け入ろうとする悪魔の列によく似ていた。結跏趺坐を支える台座も、天へともがく魔の爪か、煉獄の炎のようではないか。
「蓮台の紅もまだ色褪せてはいない。絵師が先程色を乗せたが如き鮮やかさだろう。寒風厳しいこの寺では希有な事だ」
デュカードの発した聞き慣れない言葉に、ブルースは噛んでいた唇を開放する。
「蓮台?」
「神々と聖人の座す蓮の花だ。良き行いをした者は死後、天の蓮に席を約束され、その上に生まれ変わる」
中心の神を同心円状に取り囲む、小さな神々をデュカードは指した。あれが善き行いをした人という事なのだろう。見れば確かに、彼らも大きな神同様、ブルースが魔の爪と見た台座にいる。中には1つの台座を2人で分け合う者もいた。窮屈ではないのだろうか。
「固い契りの夫婦は同じ蓮台に生まれるものらしい」
視線を追ったかデュカードが言う。成る程、両者の髪型と衣服は微妙に異なっていた。言われてみれば親しげな様子にふと懐かしさを覚えた時、男の瞳が冷徹な輝きを帯びる。

「お前の両親もこの中にいるかもしれん」

忘れ掛けていた銃声がひとつ、ブルースの耳元で高らかに鳴った。半身を赤く染めた真珠が散らばる。2つの体を彩る花のように。
寄り添う棺桶が大地に眠り、ブルースは老執事に肩を抱かれている。雨天の寒さを知覚した時、身を浸していた絶望から情動がふつふつと沸き上がった。

「だが、彼らを殺した男はどうかな?報いを与えられる席が用意されているか?」

均衡、バランス。善き行いをした人々には天の蓮台が待つ。ならば両親を殺した男には、それに相応しい席が必要だ。だと言うのに司法はそれを与えようとしない。

「無いならば作る必要がありはしないか?」

やり場の無い感情の泡は1つの凶器を形作る。滑らかな金属の感触。ブルースには軽すぎるほどの拳銃は、その弾の数だけの命を奪えるとは思えない。
だがブルースの目は銃から逸れ、再び葬列へと向かう。沈みゆく船から逃げ出す鼠のように、屋敷を出て行く人々の列へ。
そこには彼を見つめる少女がいる。
彼女の瞳は何年経っても変わらない。愛で支えられた怒りが、死で報いようとしたブルースを打つ。銃を永遠に手放した波止場が広がる。その冷たい霧を吸い込むと、騒いでいた心がようやく凪いだ。
同時に怒りという道標も失い、少しばかりの心細さと開放感を覚えながら、ブルースは口を開く。

「だけどそれは死の席じゃない」

自然と強張っていた肩から力が抜け、眼前には再び異教のタペストリーが甦った。そして傍らにいるデュカードの、僅かにひそめられた眉も。
ああ、ここもじきに離れなければ。そうブルースは思った。男はどれだけブルースが失態を犯しても、決して諦めを見せなかった。ブルースのもがき足掻く様子を、容赦なく叱咤し辱めながらも、一面では実父のように忍耐強かった。
その男が今、微かとは言え失望している。恐らく自分は見捨てられよう。いつか男は踵を返し、そして失望を清算するための一撃をブルースに見舞う。今すぐではない。だが互いの間にあった奇異な親しみは、まさに今、消失していた。デュカードとの間に掛かっているのは、最早「もしかしてまだ」という糸でしかない。ブルースは理解していた。ひょっとすると男以上に早く、そして強く。
「そうか」
声音がひどく疲れているように感じたのは、ブルースの希望も含まれていたかもしれない。ここ7年間世界のあらゆる縁から遠ざかっていたが、男は唯一の例外であった。彼と断ち切れて、ブルースの脳裏に浮かぶのは、矢張り彼女の瞳だった。
最後に会った時、この男のように失望を含んでいた瞳。そこへ再び自分の姿を映したい。丘に立つ白い墓標の守り手とは異なり、闇と黒に塗れながらも鮮やかな世界で生きている彼女に会いたかった。彼女の隣こそが、ブルースにとっての蓮台だった。
「既に準備はなされていると思っていたが」
デュカードの拳が動いた。優雅で軽やかな身のこなしに、ブルースは彼女の豊かな褐色の髪が、風を孕んでふわりと広がる様を思い出す。出来る事といえばそれ位だったのだ。拳を避けるにせよ受け止めるにせよ、ブルースの思考はゴッサムの娘に捕われ過ぎていた。

「お前にはまだ早かったようだな」

なす術もなく昏倒しながら、ブルースが聞き取ったのはそこまでだった。

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