PADMA

「こんな夢を見た」

耳まで裂けた口をもごもごと動かし、男は言う。

「教会の上にいる。馬鹿でかい鐘と、カビの生えた木と石しかない、埃臭い部屋だ。真夜中なのに時々明るくなるのは、なるのは……まあいい、スポットライトだろう」
人気者は辛いと男は手を擦り合わせる。
「俺は踊っている、花嫁と。教会だからな。白のドレスには乱れた金髪が似合う。俺は彼女と手に手を取って、幸せに踊っている。石の悪魔が『やったな兄弟!』としけた面で祝福をくれる。世界一幸せなカップルだ。彼女は蕩けた表情で俺にキスをする。だがそこへ」
人差し指の深爪が、震えながらも目の前へ照準を合わせた。
「嫉妬に駆られた蝙蝠が乗り込んでくる。そして言う、『月夜に悪魔と踊った事は?』」
男の声が途切れる。数分前に蛍光灯の消された室内を沈黙が支配した。向かい合う2つの気配だけが、暴虐に怯える市民のようなか細さで、闇の中を蠢いている。
「蝙蝠は俺を殴る。滅茶苦茶に殴る。なんて酷い奴なんだ、お前は。眼鏡を掛けても容赦しねえ。俺は床に転がって埃まみれ。一張羅が台無しだ。いつぞやと違ってあばらを殴っても、呻き声一つ立てやがらない」
うう、と痛みを思い出したように男は呻く。握った拳を擦る。真っ赤な唇を尖らせ、がちがちと奥歯を鳴らす。
「そして俺は落とされた。ビルなんて目じゃねえ教会のてっぺんから、石の悪魔を足に括り付けられてだ。念の入った犯行だ。ライトに照らされたお前の背中がどんどん遠くなる。俺はもがく。足掻く。俺は悔しさで咽び叫んだ」
「夢は」
初めてバットマンは口を開いた。緑と紫の道化師は、その落下からまさに救われたと言わんばかりの顔で、彼を見上げた。
「そこで終わりか?」
少しばかりの沈黙が落ちてから、男の唇が引き攣る気配がした。モップのような髪がざわりと揺れる音がした。立て続けに出された「No」の答えは、殺された笑みの断末魔に思われた。
「い、いや、いいや、いいや違う!終わっちゃいねえ。俺は落ちた。だけど落ちていく内に気付いたんだ。俺は今まで重力に逆らわず、地に足付けて生きて来た。その俺が、お、俺が何故これ以上落ちるんだ?どこへ?ど、ど、どこへ向かって?」
ジョーカーは言う。声音はさながら壊れた楽器だ。時に低く時に高く、狂った調律を思わせる突拍子の無さで変化する。もう言葉にはならない。鼻にかかった笑い声を殺そうと、男は必死に背中を丸め、震えていた。バットマンはただ唇を結んでそれを見下ろす。
やがて唐突に止んだ笑いが、男の顔を蝙蝠へと押し上げた。
「お前だよ。落ちていったのはお前だったんだ。余りに早く落ちていくから分からなかったんだ。俺は笑った。笑い過ぎて疲れたから、途中から笑い袋に代わりを頼んじまったくらいだ。そこでようやく目が覚めた」
一息吐いてジョーカーは足を組んだ。壁に薄い背中が押し当てられる。どうだい、と両手がぱっと開かれて、バットマンの拍手を待つようだった。しかし当然与えられる筈もない。早々と見切りを付けたのか、ふん、と男は鼻を鳴らす。

「だけどお前も未練だな。お前の隣には彼女がいた」

彼女の言葉にブルースの脳裏を過ぎったのは、喪服に身を包んだ少女だった。少女はそれから長い褐色の髪と、黒目がちな瞳を持った女性へと成長する。やがて聡明な横顔は、小さなコインへ吸い込まれ、固い指先に弾かれた。
掌に乗ったコインの面は、無残な焼け跡を曝け出していた。

「そんなに1人が怖いかよ?え?全く困った奴だぜ、今も昔も人の花嫁ばかり奪いたがる」
「黙れ」

切って捨てながらも、心の底には1つの蟠りがある。
カメラで見たレイチェルの横では、ゴッサムの希望が共に歩んでいた。犯罪という絶望が作り出したものと戦っていた彼女。彼女もまた他の市民と同様に、それ以上に希望を強く求めていただろう。だからレイチェルは横を彼に許した。共に戦う仲間として、ブルースもバットマンも占められない表の場所を譲ったのだ。だが裏は、彼女の心の蓮はきっと―――。

そうでなければ自分には、一体どこがあるというのだろう。

「ここがある」

バットマンはジョーカーを見た。腰掛けているベッド、この部屋で唯一座れる場所を、ジョーカーはゆっくりと叩く。
深い洞窟がバットマンを、ブルースを見つめている。薄い毛布が1枚かかったきりの席を示しながら、ジョーカーは静かに口を開いた。
「言っただろう。お前の席はいつでもここにある。1人で落ちるのが怖いからって、俺の花嫁やハーヴェイ・デントの女を奪う必要なんざ少しもない。ただの、これっぽっちも」
奇妙に真摯な声だった。ふざけるな、という答えは喉に縫い付けられてしまう。そこへ座す気などブルースには毛頭ない。なかったがしかし、この男と自分の間に、何かが掛けられているのをブルースは感じた。細い癖に誰にも解けない、ゴルディオスの結び目が。
分厚い扉の向こうで警邏の足音が響く。ゴードンが消極的に作り出してくれた、小さな間隙を縫っての面会時間が終わる。どこか安堵しているブルースは、ジョーカーもその心に気付いていると分かっていた。

「俺は待っている。いつでも、隣を空けて」

翻るケープに向けられた声は、いつものそれに近付いていたが、それでも狂気の道化師と思えぬ憐れみで満ちていた。

design : {neut}