丘の上から眺める景色は以前と変わりない。あれだけ傷付いたゴッサムも、ここから見れば絵本の中の街並みに似て穏やかだ。今でも犯罪者がひしめき合っているとは思えない。
久々の風景から目を背け、ブルースはそっと背後を振り仰ぐ。こちらも以前と変わらない屋敷が、新たな主に向かって背筋を伸ばしていた。
「寸分違わぬとはこの事ですな。『中身』はさておき」
「アルフレッド」
歩み寄る執事の目には、悪戯っぽい輝きが宿っている。彼にそう言わせた工事会社は、世界一の腕を持つと誇って良いだろう。白髪を風になびかせながら、アルフレッドは主の背を優しく促した。『中身』を確かめよと言うつもりらしい。ブルースはそれに従い、いつもよりも重たい足を動かす。
修復を決めた日はレイチェルとこうして歩いた。手を繋いで見た焼け跡には、柔らかな過去と未来が宿るように思えた。だが今は、完全に修復された屋敷を見ても、以前と同じ墓標の影が付きまとって離れない。
「もしバットマンをやめたら」―――そんな日が果たして来るのだろうか。ブルースと生ける世界を繋いでいた、輝かしい良心は、天の蓮へと去ってしまった。果たして彼女は、その隣を取っておいてくれるのだろうか?
「ブルース様」
「…どうしたんだ」
「鏡はお持ちですか。行方不明になられる前と良く似た目をしておいでです」
足を止めた。アルフレッドもまた同様に留まる。ウェイン邸と同様にブルースを待ち続け、足も口も動く気配が無いと知ると、そっと微笑む。
「また老いた墓守りと2人きり。そんな嫌気が差されましたか?」
「違うよ」
「あの頃も今も嘘を吐くのが不得手でおられる」
「違う」
ブルースは頑なに首を振った。駄々っ子のようではないかと思うが、それ以外上手く言えない。アルフレッドの前ではいつもそうだ。彼の青い瞳を見ると、思いを言葉よりも態度で表していた頃に戻ってしまう。
「そうですな、あの頃と違う所はあります。貴方はもう誰かがいなければ立てない幼子ではない。立ち止まる事はあっても、ご自分で道を選び取って進んでおいでです。誰かの罪を背負ってまで」
「僕はずるい、アルフレッド」
ついブルースは吐き出した。
「ハーヴェイの罪を肩代わりしたのは、使命感からだけじゃない。どこかで思っていたんだ。僕は、レイチェルが、彼女が本当に選んだのが……ハーヴェイではないかと」
彼女の選んだ相手がハーヴェイなら、自分は愛し合う2人を引き裂いた事になる。その罪への恐れ、罪悪感もまた、あの時のブルースを動かしていた。
「ハーヴェイがレイチェルを愛している事も知っていた。なのに、見て見ないふりをした。彼女が隣を許しているのも、共に戦う仲間だからと言い訳をして、バットマンを止めればいつかは一緒にいられると。知っているだろうアルフレッド、彼女はチルが殺された日から、ずっと僕の道標だったんだ。僕は……」
口の渇きに反して視界が滲む。アルフレッドの顔がよく見えない。情けない、と自分を叱咤する蝙蝠の声に逆らい、ブルースは言った。
「彼女を失うのが怖かった」
俯いた拍子に1粒零れたものは、母の真珠のように地面で跳ねず、草叢の中に吸い込まれていく。
「それでも貴方はご自分で選ばれました、ブルース様」
肩に手が置かれる。両親が逝ってからずっと影で支えてくれた手だ。そしてブルースがどれ程甘えても、決して寄りかからせようとしなかった冷厳な手だ。
「貴方がご自分で考え、選び取られた道です。深く愛する人であっても、その方の名に任せて放棄する事があってはならない。どれだけ誰かの側に寄り添おうとも、我々の道は、我々1人1人の中にしかないのですよ」
彼はレイチェルと良く似ている。彼女を失うまいと足掻くブルースに、レイチェルは自分を幸せへの手段にするなと言った。ブルースも良く分かっている。だが寂しかった。それでも目に浮かんでいた水は渇き、世界はいつものような鮮明さを取り戻している。
「…僕はどうすればいいんだ、アルフレッド」
「そうですな」
背中を擦る掌に任せ、何時の間にか歩みを進めながら、ブルースは問うた。ちょっと小首を傾げてから、アルフレッドはまたいつもの微笑と、どこまでが冗談かよく分からない声音で答える。
「まず暖かなお屋敷に入られる事です。それから辺りを見回して、荷物を片付け、修築パーティのプランを考えましょう。盛大に催さなければ」
「どうしてだ?」
「たまには明るい話題が必要です」
「…そうだな、ゴッサムには暗い話が多過ぎた」
強盗、誘拐、爆破に殺人、そして地方検事の死。数え上げればきりのない事件が、ここ1ヶ月の間で起こった。過ぎ去ってみれば良くぞここまで生きていたものだと思う。自嘲混じりの笑みを浮かびかけた時、アルフレッドが眉をひそめた。
「いいえ、ゴッサムの為だけではございません」
「何だって?」
足元は既に草叢を越え、正面玄関の石畳へと変わっている。懐から門の鍵を取り出しながら、アルフレッドはしれっと答えた。
「貴方の為にもです、ブルース様。存分に悲しまれた後こそ、乱痴気騒ぎは真価を発揮するものですから」
「正直に言えよ。君が1番騒ぎたいからだって」
「良くぞお分かりで」
鍵が回される。何百年も前から立っていたような門が開く。曇天を仰ぎ笑いながら、ブルースはアルフレッドの背をひとつ叩き、再び滲み出した涙を堪えていた。
床に打ち付けられた横顔は、やや苦悶を帯びながらも、あどけない表情をしていた。
ようやく巣立ちの時を迎えたと思ったのに、この青年には未だこんな顔を隠している。こんな甘ったれた男を今まで見捨てる気持ちにならなかったのは、彼の才能の為だ。断じて下らぬ情の為ではない。ブルース・ウェインの可能性こそが、自分に今までにない忍耐を強いている。それさえも消え果てるようならば、この手で命を奪うまで。デュカードは青年を見下ろしながらそう思う。
だが今は、その時ではない。赤子も容赦なく消してきた自分が、こんな無防備な姿を見て殺さないでいる。馬鹿馬鹿しいモラルに未だ捕われ、失望を感じさせてなお殺す気にならないのは、時ではないからだ。
デュカードは曼荼羅を仰いだ。この裏に描かれた地獄の様こそ、彼に見せるべきだったかもしれない。蓮台の影にどれほどの愚者が潜んでいる事か。救い上げられるのは選ばれた善人のみだ。その現実を改めて突きつけねば、ブルースは決して分かるまい。そこで初めて、デュカードは未だ彼の修正を考えている事に気付いた。半ばは殺す事になると悟っているのに、もう半ばでは己の夢を断ち切れていない。
それも良かろう。口中で呟き、デュカードはブルースを持ち上げた。まだ時があるとは言え、この青年を育て上げた時間を思うと、雪の下に埋めるのは些か惜しい。覗き込んだ顔にまだ、非情に徹せぬ甘さが残っているとしてもだ。彼と世界を繋ぎ止める縁を消せば、もしかしたらこの甘さも消せるかもしれない。
「お休み、ブルース」
しかしそれも後の話だ。今はまだ、青年を磨き上げる事だけ考えるべきだろう。
「家族のものにせよ恋人のものにせよ、最後の良い夢を過ごせ」
終わりの時は近い。それすら知らずに眠り続けるブルースの唇が、誰の名を紡いだのか、デュカードにはよく分からなかった。