中天高く上った赤い太陽が、砂に覆われた大地を鈍い赤に染める。
だが灼熱にも見えるそこは、決して死に絶えた世界では無い。少し湿り気を帯びた風が辺りを揺らし、人間が住むにも不快なまでの暑さには到達していない。また、網の目のように周囲を流れる川辺には、青々と生い茂る草がある。
そして何よりも先程からは、びびぃ、と気の抜けた人工音が響いている。
「だから、その設定を動かす時には注意が要ると言っただろう?!」
「ちゃんと注意を払ったのに反応しないこいつがおかしいんだ!」
それに被せて轟く2つの怒声に、重なるのは幾つかの溜息だ。
「…またやってるよ、あっち」
「喧嘩好きだよな。まあボスはいつもの事だけど、クリプトニアンって皆ああなのかな?」
「もっと冷徹なのを想像してたけど、結構神経質だよね」
「うん、短気だし」
水をろ過する為の機械を調節しながら、2人の少年はそう呟き合った。
技術提供と指導補佐という立場で、エル家の息子が来てから数時間、ずっと彼らはああやって怒鳴り合っている。最初は警戒していた他の地球人達も、今ではすっかり呆れ顔で遠巻きにしていた。
「ああ、まただ!」
再び響くエラー音に頭を抱える気配。少年達は振り向かなかった。巻き込まれて神経を使いたくない。
「でもさ、何時間もああやって喧嘩してるけど、もう嫌だって別れる事はないんだよな」
「意外と相性良いって事じゃないのか?」
「……やっぱり?」
そうっと2人は背後を振り返る。顔を真っ赤にした彼らのボスと、運悪く少年達は目が合ってしまった。
「ディック、ジェイソン!お前達もこいつの穴だらけな指導をだな!」
「穴だらけだと?!失礼な!」
「…あー、僕達ちょっと忙しいから」
「これが終わるまで待っててー」
おざなりに手を振ってから、少年達はまたろ過機の調節に戻った。
「…やあ」
「……また来たのか」
慰みになるかと持っている花を机の上に置けば、案の定ゾッドはすぐにドロイドを呼んだ。花瓶に差すよう言い付けてから、机越しの場所に新たな椅子を出させる。
「仕事はどうした」
「息子のお蔭で大分楽になった」
ふん、と花を鳴らしてから、黒衣の男は窓の外を眺める。不可視の電流や赤外線スコープの付いた窓の外を。ジョー=エルも何気なくそちらに視線をやった。
「暇だろう」
「別に」
「そうか」
「お前が鬱陶しいまでに来るからな」
「そうだな」
寄せていた眉間を更に強く寄せ、ゾッドはジョー=エルを横目で見やる。
ドロイドが花を持って来た。瑞々しいオレンジ色の花弁が、白い花瓶に良く引き立つ。
「宇宙には、もっと美しい花が咲いているのか?」
「さあな。愛でる暇など無かった」
オレンジ色の花を挟んで会話が途切れる。
空は今日も晴れで、事件が起こる事も無く、時間は悠々と流れていく。ここ数日間が嘘のような穏やかさに、少しばかり戸惑うのはどちらも同じようだった。
「…あの小僧は帰ったようだな」
「バットマン?ああ、帰った」
彼の世界へ、という言葉を飲み込む。そうか、とゾッドは頷くだけで、特にどうこう言いたい訳では無いらしい。再び訪れる沈黙に、ジョー=エルはゆっくりと席を立った。
「行くよ。また来る」
「ああ。…ジョー=エル」
背中に掛けられた声に振り返る。ゾッドは花を見つめていた。
「宇宙にどのような花があるかは知らんが、クリプトンの花も悪くないな」
「……そうだろう」
行けと言わんばかりに手が振られる。苦笑を小さく漏らしてから、ジョー=エルは扉へと向かった。
真っ白な地表を落ちた水滴が濡らしていく。
息を整え、先程出て来たばかりの水面へしゃがみ込めば、道化師に良く似た姿が浮かび上がる。白い顔、赤い唇、緑の髪に紫の服。
「ヒッ」
口を突いて出たのは恐怖の声では無く、笑い声だった。
もう自分には何も無い。否、それは妻子を失ったあの日からだ。交戦相手が仕掛けた爆弾で燃えて砕かれた2人。骨さえも残らぬ爆発を前に、自分もBも何も出来なかった。
縮れた髪を振り仰げば、その合間から彼方へと沈み行く赤い太陽が見えた。まるで2人を燃やしたあの炎が、空へと甦ったように。
――甦らせてやれば良い。
事の発端を作ったクリプトニアンも、無力で自分を戒める事さえ出来なかった地球人も、あの炎でそっくり燃やし上げてしまうのだ。
「ヒヒヒ……」
ようやく見付かった欲望を前に、狂気の道化師は高らかな哄笑を上げた。
赤い太陽の光で染まった2枚の紙の上には、どちらにも幾つも文字が躍っている。2種類の言語で使われるそれは、鮮やかなほど数を一致させていた。
「これがアウファベット?」
「ア“ル”ファベット、だ」
細かな発音を訂正してから、ブルースがクリプトン語も一緒に書かれた紙へと視線を落とす。その舌打ちでも堪えたような顔にカルは眉を寄せたが、それよりも寄せる学術的好奇心に負けた。こんな興奮の前で不機嫌など維持出来ない。腰を下ろす砂が衣服の中に入る不快だけは、少々忘れ難かったが。
「基本の言語形態は見事なまでに同じだ。単語の作りから文法まで殆ど変わらない。文字を覚えて発音さえ学べば習得は簡単だな」
「クリプトン語を喋れと言うのか?」
思いを向けた男も、出会った当時はマスクの奥でこんな表情をしたのだろう。だが彼と異なりふてぶてしい声音に、それでもカルは頷いてみせた。
「その方が何かと便利だ。万が一、翻訳機が壊れた時も意思疎通が出来るだろう」
「…意思疎通の必要など」
「あるだろう」
言い切って後もブルースは腕を組み黙り込んでいたが、やがてカルへときつい眼差しを上げた。
「承知した。だがお前も地球の言語を学べ」
「…僕も?」
「ああ。必要なのだろう?ただしクリプトン語と異なり言語形態は様々だから、習得は困難だろうがな」
そう言いながらも、視線は既にクリプトン語の紙へと移っている。本気で覚えるつもりなのだろう真剣な様子に、カルの心から苛立ちと抗議の心が失せていく。彼にそっくりな見た目と、刺々しさ極まりない中身とのギャップに最初は怒りさえ覚えたが、考えてみればそれはこちらの勝手と言うものだ。勝手に期待して、勝手に失望しただけだ。
それにブルースもそう悪い男では無い。不慣れな肉体労働と指導で疲弊したカルに、悪態を吐きながらも喉を通りやすい食事やタイミングの良い休憩時間を、きちんとセットしてくれたのは彼だ。
「会話訓練は明後日からだ」
「明日ではなく?」
「明日は来るな。草臥れ果てていたお前の事だから、1日くらい休まんと体が持たんだろう」
今もそうやって、口は悪いが気遣いをしてくれている。
バットマンのブルースの方とも最初は反りが合わなかった。原因は自分が反発していたからだが、今度はこちらがされる側になったのだ。世の中は上手く均衡が取れているものだと、そう思いながらカルは答える。
「馬鹿にするな。言語指導など軽いさ。…君の覚えが早ければ、の話だが」
「…良い度胸だ。その台詞、そっくりそちらに返そう。明日は絶対に来い」
「了解」
だから今度は、多少なりとも余裕がある。
答え方にむっと顔を顰めたブルースへと、カルはあえて片目を瞑ってみせた。
「なあジェイソン、あの2人、何だかんだで相性良いよ」
「喧嘩するほど、ってやつかな」
何やら囁き合う少年達の声を背に、カルはさて特訓だと地球語の文字が書かれた紙に目を落とした。負けるのは癪に障る。
向こう側の彼とは、短い間だったが心を交わす事が出来た。こちら側の彼とは因縁のある仲だが、時間もたっぷりとあるのだ。
「君の名前はどう書くんだ?」
ひらりと紙を動かして、カルは傍らに立つブルースへとそう問うた。
シェードランプの丸い灯りの中、目を閉じた鋼鉄の男の顔が浮かび上がる。柔らかなベッドの中で眠り続けるクラークへと、ブルースは足音と気配を殺しながら歩み寄った。
柔らかい髪の毛に手を忍ばせ、円を描くように動かしながら、睦言じみた小声でそっと呼び掛ける。
「狸寝入りがお上手だな、クラーク?」
「…ばれたか」
ぱちりと瞼が開かれる。ランプの灯りを受け、空色の瞳が刹那、一際明るく輝いた。悪びれぬ様子にわざと片眉を吊り上げて、ブルースはベッドの端に腰掛ける。
「キスしてくれるかも、なんて思ったんだけど――」
「世の中は甘くないんだ」
子どもにするように髪をかき混ぜれば、たちまち癖が戻って来る。縺れ始めた黒髪の感触にブルースは目を細めた。こうするのも久し振りだ。
「…で、どうしてキスしてくれなかったんだい?」
「私に童話の王子役を宛がうつもりか?」
「違うよ。さっきの…会ったばかりの時の話さ」
髪と指の間から見える瞳は、いつしか真剣な色を湛えている。指を引き抜こうとすると手首を捕らえられた。そのまま手の甲に当たる、薄い唇の感触。
さりげなく避けたつもりだったのに。時として鋭いクラークの直感に、ブルースは舌打ちしたいような気分になった。
「別に、理由があった訳では無い」
「そうかい?」
眉をひそめてクラークは首を傾げる。もう1人の彼とした口付けに、しばしの間、唇を占有させてやりたかっただけだ。それ以外に格別な理由は無い。
「…向こうで恋人でも出来たのか?」
「まさか」
すぐ口を突いた否定の言葉に安堵したのか、クラークは薄い唇だけを綻ばせる。何十回となくキスした癖に、まだブルースの独占を求めるそこは、ヴィランも及ばないほど強欲だ。
「私相手にそんな事を思う物好きは、お前くらいだ」
嘘ではない、多分。
「そうかな」
クラークが喋る度に熱い吐息が手に掛かる。手首を彼に捕らえさせたまま、ブルースは指先を動かし、傷一つ無い頬を撫ぜた。子どもにするような優しさで。
「そうだ。そもそも向こうの世界では……」
「クリプトン?」
「ああ。向こうでは、お前の家族以外の人間とは殆ど会っていない」
「――僕とは?」
どうして今宵に限ってこんなに勘が良いのか。驚きを指先にまで伝えまいと努力しながら、ブルースは頬を撫ぜ続ける。
「会ったよ」
「年は?どんな性格だった?あと、どんな仕事に?」
「拗ねた次には質問責めか」
お手上げだ、と言う風に肩を竦めても、クラークは諦めようとしなかった。手首も本気で嫌がれば離してくれるのだろうが、今はそんな様子も無い。
「年齢は同じか少し下くらいだろう。お父上の助手をしていた。お前とは…違う所もあったが、向こうの方がより直情だったな」
「…何だかずるいな」
手の甲に再び唇が押し当てられる。
「僕の側にはもう1人の君なんていなかったのに」
「……」
言葉と唇に誘われるようにして、ブルースはクラークへと顔を近付けた。
カルとてクラークそのまま、と言う訳ではない。お前が拗ねるのはお門違いだと、そんな言葉が脳裏を過ぎるが、声に出すつもりは無かった。良く似た部分に、彼を重ねていた事はあるのだから。
「今はいるのだから、良いだろう」
答えを待たずに額へと口付ければ、ようやく手首が解放される。離れていったクラークの手がやがて、ブルースの背中へと回った。篭る力に逆らわず従い、完全にクラークの上に横たわる。一際大きくベッドが鳴いた。
「もっと実感したいな」
「倒れ掛けていたのに元気な事だ」
「単なる睡眠不足だから、もう本調子に戻ったよ」
そう言う間にもクラークの手はシャツの中へと入り込み、古傷だらけの背中をゆっくりと撫で始めている。ブルースが軽く頬を噛むと、うわあと誇張された悲鳴が上がったが、手の動きは動じず止まない。
「ブルース」
駄目かい?と見上げて来る空色の瞳に、わざとらしくブルースは溜息を吐く。
「なら、駄目な理由は無いな」
躊躇わずクラークの唇に己の唇を寄せた。
普段初めにするキスは優しく、と不文律のような法則があったけれど、今日はどちらもそれに従う余裕は無い。たちまち噛み付きにも似た性急な動きが始まる。ほぼ同時に、ブルースは僅かに体を浮かし、挟まれていたシーツを強引に取り去った。
乾いた衣擦れと、2つの唇が作り出す濡れた音、そしてベッドの軋む声が、卑猥な三重奏を紡ぐ。やがてそれに床へ落ちる服の音や、どちらの物とも知れぬ荒い呼吸が被さっていく。
「いつか……」
「え?」
髪に指を絡めながら呟くブルースに、クラークが顔を上げる。その額にもう1度キスしてから、ブルースは言った。
「いつか、お前も彼らと会える日が来ればと――そう思っただけだ」
「…その時は、君も一緒だ」
また行方不明は困るだろうと言うクラークに、ブルースは小さく笑う。その頬を、今度はクラークが軽く啄ばんだ。
今夜は2人揃って、向こうの世界の夢を見る事だろう。そう思いながらブルースは、クラークとまた、心まで吸い上げられそうなキスを交わした。