もうこれで何日目だろうか。無反応の装置を見ながら、クラークは見なくなって久しいカレンダーに視線を向けた。
照明がなくとも目はしっかりと物体を捉える。だが日付を数える気力は起きなかった。いや、数えて絶望するのが怖かった。
仕事に行って、人助けをして、そうして帰って来るのはアパートの部屋ではなくこの要塞だ。装置がここにあるのも理由ではあるが、ここの方が、彼のいた痕跡は少なくて済んだから、という理由も確かにあった。
アパートのベッドに寝転んでも、広さが意識させられるだけで、少しも眠れない。3週間前に彼が訪れた折、忘れていったペンや、彼専用となっているマグカップを見るのも辛かった。流石に職場では気を張っていられたが、それでもロイスは何かに気付いているようで、仕事の後に良くどこかへ誘われたが全て断っていた。
憔悴振りを見られるのが嫌で、ジャスティスリーグのメンバーとも必要事以外連絡を絶っている。蝙蝠の翼に集った者達相手でもそうだった。
どんどん独りの時間が積もって、やがてそれに押し潰されそうな気がした。だけどそうすれば多少は気持ちが楽になるかと思い、そんな事を考える自分に密かに絶句する。
「……」
駄目かもしれない、とは誰も口にしない。皆が皆、彼の帰還を信じて待っている。
「信じなければ、な……」
椅子から立ち上がる。赤いケープがだらりと下がって足に纏わり付いた。何気なく裾を払ったその時、ぴぴ、と甲高い音がクラークの耳に届いた。
信じられず、殊更ゆっくりと振り返る。
リモコン型の発信機が鳴いていた。
『転送機信号確認。転送位置は座標22.38.99.41、南米……』
その最後の地名を耳にした瞬間、クラークは全力で床を蹴った。
『新たに座標を発信しますか?』
機械の声が無人の要塞でうつろに響く。
北極から飛び出した赤い軌跡は、雲ばかりでなく空さえも引き裂くようだった。
耳朶を打つばさばさと言う音にブルースは気付いた。目を開ければ、赤い太陽ではなく黄色い太陽が、世界を祝福する光を注いでいる。
しかし帰って来たのだと、安堵する暇は無い。
「……!」
すぐ横を雲が通り過ぎた。息を呑み下へと視線を動かせば、緑色の地表の上に豆粒のような建物が点在する景色が広がる。
――落ちている。
地上から数キロ離れた地点を自分は落下しているのだ。当然、何も頼る物は無い。ワイヤーなど役には立たない世界。
同じ座標とジョー=エルは言った。確かに同じ座標なのだろう。しかしあの転送装置は“隕石”であり、つまり――自分も同じように落下して、ばらばらに砕け散る。
ブルースは力を抜き掛けた。息苦しさで再び気が遠くなっていく。死は数キロ先に、だが確実に存在していた。
――すまない。
誰へと言う訳でもなしに、ブルースはそう思い、目を瞑った。
だが瞑る寸前、視界の隅に赤い何かが映る。目を完全に開き切るより早く、全身に衝撃が走った。見れば地表は接近していない。
「ようやく見付けた」
声のする方へと顔を向ければ、輝く黄色い太陽も共に目に入った。
「もう離さない」
「……クラーク」
逆光を浴びる見慣れた顔は、呼ばれて顔をくしゃりと歪めた。
「ブルース」
背中と腰に回した手はまるで怯えているようで、いつもの抱擁の方が余程力が入っている。だがブルースは、これがクラークの癖なのだと知っていた。
溢れる情動に力が暴走して、相手を傷付けてしまわぬ為の。
「ブルース」
だからクラークは本当に感極まると、こうして繊細に、触れているだけとも呼べるような力の入れ方をする。
「ブルース」
今は彼といるお蔭で守られているから、薄い空気で呼吸困難になる事も、失神する事も無い。だがブルースは呆然と、クラークの半ば泣いている声を聞きながら、赤いケープの背に手を回すだけだった。
否、呆然では無く――陶然としていた。
「会いたかったよ。本当に会いたかった。探したくても手掛かりが無くて、必死になって地球中見て回っても見付からなくて、ただ待つだけで、怖くて」
「クラーク」
ようやくクラークは顔を上げた。赤くなった目尻からは涙の筋が幾つも流れていて、それでも彼は微笑む。
「……もっと呼んでくれ、ブルース」
「クラーク」
手を伸ばし、濡れた頬をぐいと拭いながら、ブルースは今までの沈黙を取り返すようにまくし立てた。
「泣くな、クラーク。こちら側でどれ位時間が経ったかは知らんが、涙脆い所は相変わらずだなクラーク。そんな調子だとまたロイスにクラークはどうこうと言われるぞ、クラーク?だからクラーク、とっとと顔を……クラ」
逞しい腕に今度こそ強く抱き締められて、ブルースは口を閉ざした。耳元で響くくぐもった笑い声に眉を寄せる。
「君も相変わらずだ」
「…こちらでは何日経った?」
「2週間足らず。そっちは?」
「似たような物だな」
1日が28時間あるクリプトンと地球とでは時差がある。それでも多少の差で済んだ事にブルースは安堵した。和らいだ頬の線に、クラークが唇を押し当てる。
「…無事で良かった」
涙も少し引いたのか、先程より落ち着いた声でクラークは呟く。それでもまだ存在を確認したいと言わんばかりに、唇がマスクで覆われた耳朶や顎を辿っていく。軽く啄ばまれる感触は決して嫌な物ではなく、ブルースも目を細めていたが――それが唇に来た時、ふと顔を逸らした。
「ブルース?」
どうかしたかい、と目を瞬かせながらクラークが問う。
「いや、何でも――」
無い、と答えるより早く、クラークのケープから何かの音が流れ出した。
「ウオッチタワーかな」
ブルースをしっかりと片腕のみで支え、小型の通信機をクラークは取り上げる。
「どうした?」
『スーパーマン?!発信機が反応したわよ!今どこにいるの!』
「オラクルだ」
そうちらりと笑ってみせてから、クラークは晴れやかに答える。
「バットマンは捕まえたよ。無事だ。今は例の落下地点上空さ」
『…帰って来たのね』
「ああ」
横から首を伸ばし、ブルースも通信機に語り掛ける。
「心配を掛けたようだな。すまない」
『お詫びは後でたっっぷりと受け取るわ。それよりも』
「それよりも?」
小さく息を吐いてから、オラクルは硬い声で言った。
『アーカムでまた脱走よ。しかも今度は妙なロボットまで降って来てゴッサムは大騒ぎ』
「…ルーサーか」
『おそらくはね。早くゴッサムに向かって。ワンダーウーマンとジョンに行って貰っているけれど、2人だけじゃ――』
「分かった。すぐ向かう」
そう答えたのはブルースだった。目線だけでクラークを促す。飛行を始めながら、2人は通信機と話を続けた。
「被害範囲はどれ位だ」
『ゴッサムスクエアから78番通りまでに集中しているわ』
「ロビンとナイトウィングは?」
『ゴッサムスクエアに向かっている最中よ』
「分かった。私はそちらに行く。スーパーマンは――」
ちらりと見やれば、クラークは間髪入れずに答える。
「ロボットの相手を」
『了解。位置を指示するわ。2人とも気を付けて』
「ああ、任せろ」
クラークが通信機を切った。速度が上がる。
「前、君に言った事だけど」
「…どうかしたか?」
赤いケープが黒いケープと共に翻る。
「君を守りたいと思う事に変わりは無いんだ。出来れば無茶はして欲しくないし、もっと頼って欲しい」
「…それで?」
「多分それは、強い弱いに関係がないと思う。君を失いたくないからだ」
間近に広がる空色の瞳が、ひたとブルースに視線を当てた。
「だから、僕はこれからも君の気に障るような事を続ける。大人しくしてろって訳じゃないよ。でも多分、君を庇ったり、危険な状況に飛び込むのを怒ったりするのを止めるつもりはない」
「……」
「…理解して欲しいと思うのは、我が侭かな?」
「――ああ」
ブルースは頷き、クラークの落胆を横目に見ながら続けた。
「だが私も、強さ弱さに関係なく同じように思っていると――その事を理解出来るなら」
アメリカには既に突入した。地上が近い。近付きつつあるゴッサムを視界の彼方に捕らえながら、ブルースは言う。
「我が侭とは言えんな」
「ブルース」
「言っておくが、私も行いを改めるつもりは無いぞ」
「分かっているよ」
「多少は手助けを求めるかもしれないが」
腰に回っていたクラークの腕に、強めの力が篭る。
「僕もきっと、そうだ」
「…見えたぞ」
石造りの街の上を2人は飛ぶ。ゴッサムスクエアの中央では、ジョーカーとその手下達がナイトウィングに向けて銃を撃っていた。
「ここで良い。下ろせ」
「ああ、また後で会おう」
地表すれすれまで近付いてから、クラークは手を離した。名残惜しげな声を後に、ブルースは地面へと着地し、補充してあったバッタランをベルトから引き出す。
「ジョーカー!」
叫ぶと同時にバッタランを放てば、ジョーカーの持つ銃に当たった。暴発しながらそれは街路樹の向こうへと飛んでいく。
「お前の相手は私だろう」
「……」
無言のままジョーカーは振り返った。
「出たな蝙蝠やろ……」
銃口を向けようとした男の顔面に、ジョーカーの拳が激突する。呻く男に視線もくれず、ジョーカーはこちらへつかつかと歩いて来た。しかし10歩分ほど離れた所でその足は止まる。
「生きてやがったのか」
「当たり前だ」
言い返せば紅い唇が、耳まで裂けんばかりに笑う。
「紳士諸君!」
叫び声と同時に、花開くように広がる腕。
「あの尖がり耳に向けて全弾発射だ、蜂の巣みてぇにしてやりな!」
一斉に向けられた銃口にブルースは微笑し――頭上の街灯に向けてワイヤーを放った。
身を吊り上げれば、足元を銃弾が掠めていく。ふと横へと視線を移すと、10メートル近いロボットに向かう赤いケープが見えた。
――帰って来た。
己を育んだこの世界へ。
振り子のように身を動かし、ジョーカーに向かって蹴りを放ちながら、ブルースはようやくそれを実感していた。
「お帰り」
「お帰りなさい」
「本当に心配掛けさせてくれるよね」
あちこちに散らばっていたヴィランを再びアーカムに収容し、ロボットを完膚なきまでに破壊し終わると、仲間達はたちまちブルースを取り囲んだ。帰還を喜ぶ声を受けていると、不意に、少し離れて立っていたクラークの姿がかくんと揺れた。
「スーパーマン?!」
「え?あ、ああ、ごめん」
素早く支えるジョン=ジョーンズの肩に寄り掛かりながら、クラークは力無く笑みを浮かべて手を振る。
「緊張が解けたからかな…何だかどっと、疲れが来て」
「余り眠っていないのだろう」
気遣いを目元に滲ませてジョンが言った。いや、と否定しようとするクラークを抑え、彼は淡々と言葉を続ける。
「誰かが送っていった方が良い」
誰とは言わないが、その目は明らかにブルースを見ている。頬にも刺すようなロビンとナイトウィングの視線を感じた。
「そうね、出来れば何かに座った方が楽なのだけれど」
ブルースを見ないワンダーウーマンもそう言った。その圧力に押し負けて、ブルースは一歩、クラークに近付く。
「…私が」
「いや、良いよ。君は帰って来たばかりじゃないか」
満場一致の結論に水を差すのは、当のクラークだ。定まらない足元でブルースに首を振ってみせる。むしろその言こそが、ブルースにベルトのボタンを押させた。
「バットウィングを呼んだ。乗って行け」
「しかし」
「もう遅いみたいだよ」
空を見上げてロビンが言う。蝙蝠の翼がやがて太陽を覆い、その顔に濃い影を作った。
「ジョン、そいつを貸してくれ」
「よろしく頼んだ」
「ブ……バットマン!」
ジョンからクラークを受け取り、腕を自分の肩へと回す。歩けるな、という代わりに凝視すると、ようやくクラークも諦めたように項垂れた。
「行き先は北極だな」
「…ああ、だけど」
「オラクル達にはこっちから連絡しておくよ」
振り返ればナイトウィングとロビンがひらりひらりと手を振っている。
「安心して、ちゃんと面倒看てあげて」
頷きを返してから、ブルースはクラークをバットウィングの中に放り込み、自分も乗った。機体がゆっくりと浮かび上がる。重力の厚みを感じるのが新鮮だ。
「着いたら起こす。少し眠れ」
「ブルース」
「良いから寝ろ。…全く、今日の睡眠時間はどれ位だ?」
横のクラークが僅かに苦笑を浮かべる。瞼は既に落ちかかっていた。
「ここ5日間」
「は?」
「ここ5日間、全然眠れなくて……」
「……馬鹿だ、お前は」
答えた声の語尾が掠れているのを、悟られなければ良い。右手で操縦桿を、左手で赤いケープの端を握りながら、ブルースはそう思った。返答はもう、寝息に溶け掛けている。
規則正しい呼吸音が聞こえ始めてから、ブルースは左手で通信ボタンを押した。
「アルフレッド、私だ」
『ブルース様』
小さな液晶画面に忠実な執事の顔が映る。
『お帰りなさいませ』
「心配掛けてすまなかったな。これから帰るよ」
『何かご入用の物はお有りですか?』
「客人用の部屋を1つ。あとは――」
クラークが完全に寝入ったのを確認してから、ブルースはそれでも囁き声で答えた。
「君の作った軽食でコーヒーが飲みたい」
『レモンパイで宜しければ用意してございます。メレンゲをたっぷり乗せて。コーヒー豆も挽き立ての物が』
「…君には敵わないよ、アルフレッド」
『世界最高の探偵にそう評して頂けるとは、光栄でございます』
恭しく頭を下げるアルフレッドに、思わず苦笑が零れる。
「それじゃあまた、屋敷で会おう」
『畏まりました。お気を付けてブルース様』
「“邸に帰り着くまでが遠足でございます”とは言わないでくれ」
『勿論でございますとも。2週間近い留守を要するものは、遠足ではありません』
肩を竦めて、ブルースは通信ボタンを再び押した。液晶画面からアルフレッドの姿が消える。
それからブルースは、傍らで眠るクラークの髪に、そっと指先を伸ばした。果たして起きて目に入るのがウェイン邸の調度だと知ったならば、この男はどんな反応をするだろう。カルなら唖然として、そして機嫌を損ねるに違いあるまい。
眼前の空とクリプトンの空とは異なるが、それでもブルースにはクラークの瞳がある。どれだけ離れても、この目を覗けばすぐそこに、あの世界が広がっている。
ブルースはなるべくクラークを起こさぬよう気を付けながら、邸へ向けてスピードを上げた。
家路は極めて近い。雲を抜ければすぐそこに、懐かしい屋敷が見えるだろう。