序章

膝辺りまで伸びた草が鬱陶しい。ともすれば足を取られそうになる。だから早く刈っておけば良かったのに、と思いながらスカートをたくし上げた。人目など気にしている余裕が無い。
心臓がもう1つ、こめかみに作られたようだった。自分の鼓動が喧しい程に鳴り響いている。走る足も妙にふわふわとしていて、まるで夢の中にいるみたいだ。
――ああ、夢の中だったらどれだけ幸せか。
足を奮い立たせていた気力が萎えそうになった。涙の浮かぶ目を叱咤して必死に駆ける。眼鏡ががくがくと揺れるのが邪魔だった。それでも常より伸びた気がする慣れた道の果てが、ようやく見えて来る。
もうすぐ家だ。父のいる家。ドアを開けて中に入り、布団を被ってベッドに潜り込もう。そうすればきっと助かる。背後から迫る気配も消える。
背後から迫る気配も――背後?
林の果てに立つ人影を見て、手からスカートの端がするりと逃げていった。
「鬼ごっこは終わりだよ、アリスちゃん」
小柄な人影は長い帽子を取って一礼した。チェック柄の洋服が忌まわしい程に明るい陽光の元に浮かび上がる。にたりと笑う口から覗く、尖った牙も。
――人じゃない。
「私の名前はアリスじゃないわ」
後ずさりながらも言ってやった。男は嬉しそうに頷く。
「そうかい、そうかい、でも君はアリスにぴったりだ。くるくる巻き毛に薔薇色の頬。とても可愛いアリスになれる」
歩いた様子も見せないのに、男は距離を詰めて来た。あと10歩、あと5歩、手が伸びる。
踵を返し、駆けた。
「やれやれ、お茶会はお嫌いかな?」
「ひ」
目前に男の姿が現れた。手首が捕まれる。もう駄目だと諦めが脳裏に過ぎった。だが同時に、諦めるものかと反骨精神が首を擡げる。父に教わった護身術を思い出す暇は無かったが、しかし小柄な男の脇腹に蹴りを入れるのは造作も無かった。呻いて男が手を取り離す。
「誰か!誰か助けて!パパ!」
叫びながら家に向かって走った。抜けかけていた力が腹に甦る。必死で声を張り上げた。
「助けて、助けて、助けて!」
全速力で走っているのに男の手を背後に感じる。追って来るのが分かった。背中に流れた髪を掴もうと、白い手袋を伸ばし――
「大丈夫だ」
今度目の前に現れたのは、青い鎧だった。
力強い手が自分を止め、抱え上げる。ずり落ちた眼鏡を上げる余裕も無い。彼はそのまま自分を道の脇へと座らせた。その拍子に見えるのは、鎧の胸に赤と黄で描かれた奇妙な模様だ。蛇だろうか?
「怪我は無いかい?」
「……」
先程の男とは似ても似つかない、端整な顔が視界を占める。大きな夏空色の瞳にこっくりと頷けば、彼は優しげに微笑した。
「そこに座っているんだよ」
「…動きたくても動けない」
喉の奥で笑いを殺すと、彼は鼻の辺りまで落ちていた眼鏡を上げてくれた。そして立ち上がり駆け出す。赤いケープがひらりと踊った。
はたと視線を動かせば、先程の男の前に、もう1人鎧を纏った男が立っていた。こちらは鼻の辺りまで覆う兜を着けている。それと長いケープは夜を流したような黒だったが、鎧の色は暗灰色だった。
「帽子ではなく少女を狙うとはな、マッドハッター。どう言う風の吹き回しだ?」
マッドハッターと言うらしい男はぴくりとも動かず、どうやら黒ケープの男に呑まれていたようだった。しかし黒ケープの男の言葉を受け、またあの嫌な笑いを浮かべる。
「分からんのか?豊穣月の終わりには何がある?」
「収穫祭だな」
黒ケープの男の横に立った、青い鎧の男が言った。
「…黙っていろ、スーパーマン」
「正解だ」
マッドハッターは指を振る。それから被っていたあの長い帽子をちょっと取った。敬意を表したつもりなのだろうか。
「ヒントはこれまで。俺としてもお前達が来るのは予定外だったんだ、アーカムに帰らせて貰うよ」
「待て、どう言う――」
「Twinkle twinkle little bat , How I wonder what you are……」
煙のようにマッドハッターの姿が薄くなっていく。やがて歌声だけを残し、彼は完全に消え去った。
「…帰ったらしいな」
「ああ」
スーパーマンと呼ばれた青い鎧の男が、こちらに振り返った。次いで黒いケープの男も。どきりと跳ね上がりそうになる肩を思わず抑える。
「君の家はこの先かな?」
「え、ええ」
「良し、送るよ」
先程と同じように、スーパーマンは軽々と自分を抱き上げた。もう12になるのに、と感じる程のゆとりが心には生まれている。だが今は絶対に1人で立てない。口にするのは止めておいた。
「あの、助けてくれてありがとう」
「どう致しまして」
間近になった端整な顔が綻ぶ。通った鼻筋や薄い唇は冷たい印象を与えがちなものだが、優しげで朴訥とも言えそうな表情からは、そんな雰囲気が微塵も出ていない。その横で唇を引き結んだ、黒いケープの男の方が余程冷たそうだ。
「君の名前は?」
「バーバラ」
問われてすぐにバーバラは答えた。
「バーバラ・ゴードンよ」

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