北風が吹く。誰もがコートの襟をかき合わせる中、焦げ茶色の帽子がビル街に踊った。
「おっと」
逃亡中の帽子はしかし、自由を満喫する間もなく捕らえられた。しっかと掴む大きな手から、2度目の逃亡が出来る筈もない。帽子は捕獲されたまま、持ち主と共にデイリープラネットの玄関を潜った。
滑らかな床を歩き、エレベーターに乗り込めば、いつもと変わらぬ日常が待っている。
…が、今日は異なっていた。
ガラスに囲まれた空間は、普段ならば見向きもしない。しかし今日はそのガラスに、嫌でも目立つような色合いの紙が張られていた。それも、幾つもだ。
「あ」
力の抜けた手から、帽子は再び逃亡の機会を得た。今度は床を使ってである。持ち主はすかさず屈んで取ろうとしたが、視線は違う方向にあるのだ。床に手を付ける羽目になった。それでも彼は、そちらを向いたきりである。
「……そうか、明日は」
その行事名が口に上る直前――業務開始のベルが鳴った。
LA VIE EN ROSE
「という訳で、今日は遅刻しかけたよ」
「クビにされる日も遠くなさそうだね」
「酷いな。いつもは5分前に着いている」
「事件がない時は、だろ?」
クラークは二の句が告げなくなった。
ディックが笑いながらフェンスの上から降りる。軽やかな動きは、重力に囚われた者と思えないほど自然だ。
「ま、それはともかく。前日に気付いたなんて大したモンだよ」
「皮肉かい?」
「まさか。去年の僕がいつ気付いたと思う?」
足元に広がるブルードヘイブンを見つめながら、クラークは答えた。
「……3日前?」
「惜しい、3日後。散々だったよ」
あれは不味かったなぁ、とディックは首を傾ける。
あと2歩も進めば地上への自由落下が始まるだろう。曇り空と夜景に囲まれながら、旧知のヒーローは語り合った。
「今年はどうなんだい?もう準備済み?」
「そりゃあね。今年はちゃんと花束もプレゼントも購入済みだよ。予定もないって聞いた。ただ…」
「ただ?」
ディックの眉間に強く皺が寄る。
「明日はちょっと仕事が入っててさ?市内ならともかく、向こうにまで行けるか分からないんだよね。電話するのも、ほら、何か」
「恥ずかしいんだろう」
今度はディックが言葉に詰まる番だった。彼と師匠の間のいざこざは、当事者顔負けなほど知っているクラークである。ディックの勝率は低い。
「…ま、まぁそれはさておき。そっちはどうするの?」
不自然な咳払いをしてから、端正な顔がクラークに向けられる。ここへ来た理由を思い出したクラークは、溜息交じりに答えた。
「……実は僕も仕事でね……」
「ああ……」
それでか、と呟かれた言葉に、がっくりとクラークは項垂れた。
「せめて土曜か日曜なら何とかなるけど」
「火曜日だもんな、今年のバレンタイン」
愛を確かめ合う日。それがバレンタインデー。
恋人や夫婦に限らず、家族や友人、世話になっている人など、その適応範囲は広い。が、矢張り最も気合が入るのは恋人ないし夫婦である。クラークがその日に気付いたのは、DP社の1階に入っている花屋のビラのお陰だった。
曰く「バレンタインの花束は当店で!」。
それを見たクラークはようやく気付いたのだ――バレンタインが明日だという事に。
――メトロポリスに来てからは、ほとんど祝わなかったし。
去年まで花の独り身生活を過ごしていたクラークは、当日になって気付いても問題がなかったのである。精々、スモールビルの両親に電話するくらいで済んだ。
しかしながら今年は嬉しい事に、家族以外にプレゼントを渡す相手がいるのだ。
そう、ゴッサムに。
「で、どうするつもり?」
「そこで君からのアドバイスが欲しいんだディックー!」
「うわっ」
その言葉を待っていたクラークは、がっしりと青年の肩を掴んだ。弾みでディックの体が大きく揺れる。辛うじて落下地点一歩手前で留まったディックは、思わずクラークのケープを握った。
「ちょ、クラーク落ちる落ちる!僕は飛べないんだからな!」
「あ、ごめん」
力は抜いたが、クラークはディックの肩を掴んだままだった。春先の湖のような瞳を覗き込みながら、思いの丈を込めて熱く話す。
「プレゼントしようにも好みが良く分からないんだよ。多分僕には知らない拘りに満ちていると思うんだ。今更聞くのもわざとらしいし、答えてくれないかもしれないし」
「…確かに、素直に答えてくれるとは思えないな」
ディックが小声で言いながら頷く。恐らく警戒で顰められた蝙蝠の顔を思い出しているのだろう。
「そこで君に聞きたいんだ。彼が何を好きなのか、最も良く分かっているのは君じゃないか!」
「あー、うん、まあね。アルフレッドほどじゃないけどね」
「十分だよ!…お願いだ、教えてくれないか?」
ありったけの誠意を込めて、クラークはディックを見つめた。ディックは眉根を寄せて明らかに困った顔をしていたが、やがて、白い息を吐いた。
「分かったよ、仕方ないな。他ならないクラークの頼みだし」
「ディック……!ありがとう!!」
そう叫ぶと、クラークはしなやかな体を抱きしめた。だけではなく、子どもにするように柔らかい黒髪をかき回した。
「く、クラーク止めてくれよ!誰かに見られたらどうするんだ!」
「いやー良かった!これで安心したよ!」
「人の話を聞いてくれ!僕は犬や猫や蝙蝠じゃないんだぞー!」
ブルードヘイブンのヴィランもヒーローも、はたまたオラクルの耳目もそこまで届かなかったのは――幸運としか言いようがあるまい。
バレンタインと言えば花束とお菓子だと相場は決まっている。ディックは具体的な店名を幾つか教えてくれたが、その後には「ただし3日前には予約しないと、鼻にも引っ掛けて貰えない所だよ」と続いていた。諦めた。
残された道はただ1つ。
花束。
その言葉をでかでかと背負い、バレンタインの朝、クラークは出勤した。
いつものように暴走しかけた車を止め、倒れていたご老人を病院へ運び、要人を狙っていたマフィアの狙撃手を警察に送り届けた後だが、今日はまだ40分ばかり時間が残っている。好調な出だしだ。このまま行けば、例えバレンタイン本番だとはいえ花もあるだろう。
デイリープラネットに花屋を入れたのは、他ならぬあの大富豪だ。そこで買うのはいささか気がひけるが、他にあても無い。それに天下のDP社に入っている店舗だ。下手に飛んで買いに行くより、良い品が入っているに違いない。
店構えはいかにも清潔だ。飾られている見本の花束も仰々しくなく、気軽に入れそうな雰囲気に満ちている。
――怖気付く事はないんだ。
クラークは一歩一歩着実に足を進めていく。
――花束なんて、注文したって笑われないさ。
この時期、花束を恋人の為に買っていく男達は数知れないだろう。
だがクラークは生まれて初めての「バレンタインに家族以外の為に花束を買う」という行為に対し、極度の緊張を覚えていた。
それこそ、ダークサイドとブレイニアックとルーサーのメカに集団で襲われた方がまだ良い、と思うほど。
クラークは息を殺して花屋の前に立った。
ドアが、重々しくその身を動かし始め――
「火事だー!」
「……あれ、何で自動ドアが開いたのかしら。誰もいないのに」
「故障じゃないの?」
その日、クラークは15分遅刻した。
当然、花束など買えなかったのは言うまでもない。
そればかりではなく、ランチの時間も近辺での交通事故回避に尽力し、ガス漏れによる爆発を防がなければならなかった。仕事も全力でやった。正しく言うと本気の全力を出したかった所なのだが、疑われないギリギリの速度まで落として仕事をした。
結局、件の花屋に行けたのは、午後8時を回った頃だった。
「こんばんはごめんなさいまだやっていますかー!」
「は、はい!」
躊躇も何もあったものではない。勢い良く入ったクラークの目に映ったものは、閑散とした店内だった。
――ほとんど売れてるよ……。
床に散らばった葉や花びらが、物悲しさを更に煽り立ててくれる。肩を落としながらクラークは若い女性店員に話しかけた。
「…花束とか…出来ませんよね……」
「はい、申し訳ありませんが…あ、でも」
少し待っていて欲しいと言い残してから、店員は奥に入っていく。
2分ほどして出て来た彼女の手には、白と薄紅の美しい花が、一抱え分も揺れていた。
「これは如何ですか?薔薇の一種で」
「お願いします!」
皆まで言わせずクラークは答えた。
「え、あ、あのでも、これって薔薇は薔薇でも」
「もう何でも良いです!お願いします!!」
店員は何か言いかけていたが、クラークの勢いに押されたのだろう。頷いてすぐさま花束作りに取り掛かっていった。