冷め始めた紅茶を片手に、ブルースは窓の外を眺めていた。特に何が見えるという訳でもない。ウェイン邸の外には、訪れて久しい闇が広がっているのみだ。
――ここに座って、もう何時間経つ?
柱時計を見ると、まだ20分も経っていない。9時まであと15分はあるだろう。
――早く9時にならないものか。
待ち遠しいような気分で足を組みかえる。だが9時になったからと言って、実は何がある訳でもないのだ。何もする事がないからこそ、 ブルースはただ、早く時間が過ぎないものかと考えていた。
書庫から持って来た推理小説は、そのまま横に置いてある。普段ならば没頭するのに手間ひとつ掛からないのに、数ページ読んだだけで放ってしまった。
――暇だ。
詰まる所、それに行き当たる。
アルフレッドだけでもいれば違っただろうが、彼を街へ出したのは他ならぬブルース自身だった。
話は5時間ほど前に遡る。
「今日はまた街に出てくれ、アルフレッド」
「おや」
スコーンを差し出しながらアルフレッドは目を丸くした。
「ご注文の品を引取りに、ですかな?昨日のように?」
「いや、違う。それより長く掛かるだろうな」
スプーンでミルクを混ぜつつ、ブルースは小さく微笑んだ。
「畏まりました。どのような?」
「私の代わりに、ある女性に花束を渡して貰いたい」
「その方のお名前は?」
「レスリー・トンプキンス」
その時に見せたアルフレッドの顔を、ブルースは一生忘れまい。
なお躊躇うアルフレッドだったが、休み同然なのが嫌ならバットマンも休みにするという強引な言葉を持ち出すと、渋々ながら承知した。その彼に自分からの花束とカードを持たせ、明日まで帰って来るなと無理矢理押し出したのである。傑作だった。
彼とレスリーがどのような仲なのか、ブルースははっきりと知らない。だがアルフレッドがバレンタインの花束を贈っても、不自然ではない仲だろう。
――親孝行はいいものだな。
爽やかな満足感に浸りながら、ブルースは午後をのんびりと過ごした。
今年は「外のプールで泳いで風邪を引いちゃって」とあちこちからの誘いも断っている。
まさに久し振りの休暇だった。どちらの顔にとっても。
しかし夕食を取る頃になると、ブルースの目元には険が現れ始めた。
原因は、温め直すのに失敗したシチューの味ではない。
焦げを取り分けながら窓を見ると、外はもう暗くなっていた。これでは何も見えないだろう。
――恐らく、あの派手な色も。
旗のように翻るケープが、ブルースの脳裏に過ぎる。
「……馬鹿か」
音を立ててスプーンを置くと、ブルースは皿を片付け始めた。
――今日来るとも言っていなかった。
スポンジに食器洗剤を掛ける。どろりとした感触が手の中にまで広がった。気にせず皿を取るとあやうく落としかけた。
――だから待っている訳ではない。
装飾が禿げるほどブルースは手に力を込める。その鋭い目の輝きだけを見て、彼が皿洗い中だと分かる者など誰もいまい。
哀れな皿を食器棚に戻してから、ブルースはソファへ戻った。
読みかけの小説を手に取り、さて一段落という所で――ベルが鳴った。
気付くとブルースは早足で玄関に向かっていた。
――屋敷は広いからな。
今日はアルフレッドもいない。客人を待たせるのは気の毒だ。ブルースじきじきに出迎えれば相手は驚くかもしれないが、今日はバレンタインだ。少しくらい驚きがあっても良い。
そう、今日はバレンタインなのだ。
「はい」
ブルースは扉を開いた。
眼前に――白と薄紅色の世界が、突如として出現した。
「アルフレッド!いきなりで悪いがこれをブルースに渡し……ブルース?!」
「……騒がしいな」
出た早々、花束を突き出されるとは思っていなかった。
驚愕が表れるのを辛うじて防ぎながら、ブルースは花越しにクラークを見つめる。そこで我に返ったのか、クラークは庇うように花束を引っ込めた。勢い余って臙脂色のリボンが揺れ、可憐な花弁が地に落ちる。
「ど、どど、どうして?!アルフレッドは留守かい?」
「ああ、今日は休みを取らせたんだ。…で」
クラークの背中に匿われた花を、ブルースは示した。
「それは私が受け取っても?」
「……うん」
たちまち頬に赤味を上らせたクラークが、ルーサーの作るロボットよりもぎこちない動作で花束を抱え直す。バレンタインの贈り物にはいささか相応しからぬ風情だ。
――卒業式の花束贈呈だな。
そう思いながらもブルースは笑いを堪えた。受け取った花束は見た目通りの重さで、矢張り礼式に使われるものを思い起こさせる。それでも、悪い気持ちはしない。
「ちょっと変わってるけど、それも薔薇らしいんだ。…名前は…何だったかな、えーと」
「ヨーク・アンド・ランカスター種だな」
「…詳しいね」
「母が薔薇を好んでいたんだ」
裏の広大な敷地には薔薇園も存在している。中ではこの種も栽培されているのだが、言うのは控えておいた。
白から薄紅色まである濃淡が鮮やかだ。1つとして同じ色合いが出ないのだとアルフレッドは言っていた。中に潜む黄色も美しい。
「では活けようか」
「ブルース」
踵を返しかけたブルースの腕を、クラークが急に掴んだ。
「どうした?」
「ごめん、今日はこれから取材が入ってて…その、つまり」
微かに俯いた後、思い切ったようにクラークは顔を上げる。
「帰らなければならないんだ」
「……」
「本当にごめん。せめてこれだけでも渡したくて」
何の気負いもなしにブルースは頷いて見せた。
「ああ、分かった。私も出掛ける所だったからな。気にするな」
「…そうか、出掛けにごめん。それじゃ、また」
ブルースの腕から大きな手が離れた。ケープではなくコートの裾が翻る。
彼の足が地面から離れるのも待たず、ブルースは邸内に入り――ドアを、閉めた。
――9時になったか。
机の上に咲いたヨーク・アンド・ランカスターへ、目をやらないように気を付けながら、ブルースはテレビを点けた。
――もしかすると何か事件があるかもしれない。
――もしかするとバットシグナルが点けられるかもしれない。
そうなればアルフレッドも文句は言えまい。蝙蝠の衣を身に纏って、ゴッサムの夜空に飛び出せる。
そうなれば、この虚ろさからも逃れられる。
テレビの画面はしばらく経ってからニュースの映像を見せた。画面の隅に映るのは事件の文字である。ブルースは僅かに身を乗り出した。
赤毛のニュースキャスターが叫ぶ。
『今、ジョーカーが逮捕されました!』
「……」
ブルースは、がっくりと肩を落とした。
『ジョーカーは大量のチョコレートに笑いガスを混ぜ、それをゴッサム独身者の会に配布しようと計画していました。ゴッサム独身者の会は総勢三千人の男女から構成されている団体で、毎年バレンタインには』
――テレビを切ろう。
ブルースはリモコンに触れたが、映し出されたゴードン本部長の姿に手を止めた。
『本部長、今年のバレンタインは無事に終わりそうですね!』
『情報が早く回って来たお蔭だよ』
『何でも“白塗りの怪しい男女がいる”と通報があったとか』
『ああ、流石にバレンタインに白塗りはないからな』
『去年はバットマンが現れる騒ぎになりましたが』
『今年はそんな事がなくて何よりだ。バットマンにはいつも助けられているからね。今年は彼にも幸せなバレンタインを過ごしてもらいた』
皆まで言わせずブルースは電源ボタンを押した。ゴードンの顔が歪んで消えていく。
「…ありがとう、ジム」
彼の心遣いが今は辛い。
こういったイベントには誰より敏感なジョーカーが逮捕された、という事は、他のヴィランも今日は動くまい。独創性を重んじるゴッサムのヴィラン達は、誰かの二番煎じを嫌うのだ。
2月の動きが極めて活発なのはトゥーフェイスだが、彼は先日ブルースがアーカムに送ったばかりだ。22日ごろには脱走するとしても、今日のようなイベントがある日には決行しないだろう。
バットマンはフリー、ブルース・ウェインも暇。ならば――やる事など何もないではないか。
「くそ……」
細長い吐息は、柔らかなクッションに埋もれて消えた。
時計の針が11時を打った。
いつものトレーニングを終えてから点け直したチャンネルでは、たまたま映画を流していた。退屈な恋愛もので、ブルースの好みからは甚だ遠かったが、眠るまでの時間潰しにはなる。
昔ディックがやっていたようにソファに寝そべり、ブルースは流れていく話を追っていた。無論、少しも頭に入らなかったし、入れるだけの内容でもなかったが。
夜行性の生活を続けていると、日付が変わらなければベッドに入る気がしない。それまでの苦行と割り切って、ブルースはチャンネルを切り替えた。
『皆さん、スーパーマンです!』
「!」
ブルースはチャンネルを取り落としかけた。テレビの中ではリポーターが大急ぎで青と赤の色彩に近付いていっている。その間にブルースは音量を上げた。
『いつも素晴らしいご活躍ですね!』
『ありがとう』
嫌味にも思えないほど爽やかな笑顔がライトに照らされた。先程の大根役者より余程画面に映える。
『今日はバレンタインデーですが、今日は誰かと一緒に過ごされたんですか?』
少し照れたように笑って、「ノーコメントで」か「いいえ」か。いつもの彼ならばそう言うだろう。
しかしブルースの予想は、見事に外れた。
『ええ、大切な人とね』
リポーターが目と口を大きく開いた。ブルースも彼ほどではないが目を丸くした。驚きはある意味、彼以上だったが。
『それは……もしかして、恋人と?!』
息せき切ってリポーターは尋ねる。尋ねられたスーパーマンは少し首を捻ってから、片目を瞑ってこう言った。
『ま、似たようなものかな――それでは失礼』
『あ、待って下さい!もっとお話を』
ぼすん、と音を立ててテレビがクッションの向こうに消える。
――何が「大切な人と」だ。
再びクッションを投げようとブルースは手を振り翳した。
――何が「似たようなもの」だ。
鈍い音を立ててテレビとクッションがぶつかり合う。
「とんだ嘘吐きだな」
声にすると少しだけすっきりした。あと1回投げて終わりにしよう。テレビも飛び去る姿を映している。
しかしテレビとクッションの3度目の激突は、未然に防がれた。
「誰がだい?」
クッションを握っていた手首が、強い力で掴まれる。
振り仰いだブルースの唇を、鋼鉄の男が塞いだ。