「…やられた」
鏡に映るのは白い古傷だらけの背中だ。そこに、存在を誇示する如く赤い痕が散っている。
首や鎖骨に付ける様子がないので安心していたら――これだ。
気付かないとはよほど調子が鈍っていたのだろう。次はただではおくまいと決心して、ブルースはシャツを羽織った。
廊下に出ると、朝食の良い匂いが鼻腔をくすぐる。焦げたシチューとは大違いだ。有能なウェイン邸の執事は、既に帰宅しているらしい。
「おはよう、アルフレッド」
「おはようございますブルース様」
食卓にはパンケーキや卵が輝いている。その中央に、新しい花瓶に入れられたヨーク・アンド・ランカスターがあった。
「ここに持って来たのか」
「はい。相応しいかと思いまして」
アルフレッドが牛乳を差し出しながら説明する。
「こちらはどなたから?」
「クラークだ。昨日の晩に置いていった」
「左様でございましたか」
訳知り顔、と言っても見慣れぬ者からは普段と変わらない表情で、アルフレッドは頷く。ブルースは動揺と共に、口の中へ牛乳を流し込んだ。
――親が留守中に恋人を連れ込んだティーンのようだな。
自分がした事は、確かにそれと大差ない。
「おはようロイス」
「おはようクラーク。…機嫌がいいわね、何かあったの?スクープ?」
「まさか」
クラークは笑ってロイスの横を歩いた。
街路を鳴る風は相変わらず冷たい。道端の花屋は矢張り閑散としている。
「バレンタインは仕事ばっかりだ、って言ってたから、恋人じゃないわよね」
「…まあね」
押さえていても足取りは軽い。
メトロポリスに戻って来てから出社まで、時間は少なかったが体力的には常人の数十倍あるクラークだ。大した支障はない。
身支度を整える前に、貰った白薔薇を花瓶に活ける事は忘れなかった。独身男性の部屋とも思えない華やかさに、少し照れたが心は躍る。
「バレンタイン、って言ったら、花言葉に落ち込んでる友達がいたのよ」
ロイスが桜色の唇を尖らせて言った。クラークは首を傾げながら答える。
「花言葉って…あの、“あなたを愛してます”とか?」
「そうそれ。その花の意味が“軽薄”とかで。同じ花でも花言葉は色々あるし、贈った相手は意味を知らなかったんだろうって言ったんだけどね。もう泣くわ喚くわ」
「はは、ショックだったんだろうね」
ブルースはそういう方面にも詳しいだろう。あの白薔薇にも何か意味があるかもしれない。
――会社のパソコンで調べてみようかな。
幸いにも、今日は早めに着きそうだ。
「しかしバレンタインに贈るには、少し問題のある花だがな。花屋も花屋だ。言ってやれば良かったのに」
「…確かに、いささか憚りのある品と言えるかもしれません」
「あのクラークの事だ。花屋に行くのが遅れたんだろう」
「懸命さの象徴でございますよ、あの方の」
ブルースは小さく笑った。
「まあ、あの男が花屋で必死になったと思えば――悪くないな」
「…相変わらず、素直なご感想ではありませんな」
「何か言ったか?」
「いえ、世間では“その人からのプレゼントというだけで嬉しい”とも言うようだと、それだけでございます」
耳元を赤く染めてブルースはアルフレッドを睨んだが、彼は鳴り始めたヤカンの方へと行ってしまった。
はらりと散った花弁が、ブルースの手元に迷い込む。
「“私は貴方に相応しい”?」
現れた白薔薇の花言葉を、クラークは思わず読み上げた。
らしいと言うか、らしくないと言うか…やや大胆な響きだ。
純白の薔薇と、つんと澄ましたブルースの顔を交互に脳裏に描きながら、クラークはふと思い付いた花の名前を入力した。ブルースに贈った花がどんな言葉を持つのか、気になったのである。流石に妙な意味は持っていまい。
「ヨーク・アンド・ランカスター、だっけ。長い名前だな……」
「この花を見せながら、君は薔薇戦争について教えてくれたんだったな」
「これはまた、懐かしい事を……」
「白薔薇はヨーク家で赤薔薇はランカスター家。この薔薇は白も赤も出るから、両家に因んで名付けられたとね」
「左様です。しつこいまでにお教えしましたな」
海を越えた故郷を思い出しているのだろうか。アルフレッドはやや遠い眼差しをしていた。
「どっちがどっちか、なかなか覚えられなかったが……花の名前と意味だけは覚えたよ」
愛に関連する花言葉の多い中で、一風変わったそれは強く記憶に焼きついたのだ。
オールド・ローズの1つ、ヨーク・アンド・ランカスター種。
「その花言葉は――――“戦い”」
紅茶を淹れ終わったアルフレッドが続ける。
「ある意味、ブルース様に相応しい花かと存じますが」
「…君の言う通りだ」
小さく笑ったブルースは、ナイフを手に取りパンケーキに突き刺した。
その途端、玄関のチャイムが鳴り響く。
「いらっしゃったようですな、2つ目の花束が」
「そのようだ。…去年より2日も早い」
アルフレッドが軽やかに玄関へと歩いていく。
ドアの向こうでは、バレンタインに毎年遅れる青年が、豪奢な花束とスイーツを抱えて待っている筈だ。
――さて、私も取って来るか。
奥の部屋には、彼に渡す花束とチョコレートが置いてあるのだ。パンケーキを一口味わった後、ブルースは席を去っていく。
誰もいなくなった食卓では、ヨーク・アンド・ランカスターが物寂しげに揺れていた。
その頃。
「ちょっと、クラーク?具合でも悪いの?」
デイリープラネット社の一角、パソコンの液晶画面前では、クラーク・ケントが机に突っ伏し撃沈していた。