「……っ!」
 草花の刺繍がされたクリーム色のクッションは、テレビではなくクラークの頬に直撃した。
「家宅侵入罪と暴行罪で現行犯逮捕されたいのか?!す巻きにしてゴッサム市警に放り込むぞ!」
「酷いな。そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
 素早くクッションで身構えたブルースに、クラークは口を尖らせた。

「…大体、どこから入って来た?」
 怒鳴ってすっきりしたのか、ブルースの声は幾分か和らいでいた。クラークは歌うように答える。
「玄関からだよ。鍵のかけ忘れにはご注意を、ってね」
「お前が壊したんじゃないのか?」
「そこまで乱暴な男に見えるかい?」
「…詐欺罪で逮捕されかねん顔には見えるな」
「ああ、あれ」
 先程まで自分の映っていたテレビを指し、楽しそうにクラークは笑った。対照的にブルースの顔は尖る。
「本当は“その予定がある”って答えるつもりだったけどね。君が見ていたら嫌だなと思ってさ」
 脅かしたくて、と答える顔は相変わらず明るい。真夏の晴天に似た瞳を見つめながら、ブルースはソファから立ち上がった。
「どこへ?」
「茶を淹れる。座って待っていろ」
「…ここにいても?」
「追い出したところで」
 足を動かしながらブルースは言った。
「また不法侵入されるのはごめんだ」



 ダージリンの香りが室内に漂い始めた。
 茶を淹れ終わったブルースはソファに腰掛けた。2人分の重みを受け止めたソファは、軽い音を立てる。テレビを消しているせいか、その音は妙に大きく響いた。
「取材が終わった後、隣のビルに強盗が入ってね」
 カップを手に取りながらクラークは言った。
「警察に連れて行こうとしたらパトカーに会ってさ。犯人はそこで渡したけど」
「同業者に捕まった訳か」
「そういう事……これ、美味しいよ」
 紅茶を一口味わってから、クラークは軽くカップを持ち上げる。
「アルフレッド直伝だからな」
「流石。ところでさっき何か割れる音がしたけど、気のせいかい?」
「スプーンが落ちた音だろう」
 さらりと答えてからブルースもカップに口付けた。クラークもそうか、と頷くだけで、追及はしない。
「そう言えば」
「ん?」
「今日1回目に来た時は“出掛ける予定が”って言っていたけど…早く済んだんだね」
 ブルースの目が僅かに細められる。
 が、まさに瞬く間に、彼の顔は平常へと返った。
「ああ、知り合いに誘われただけだ。花を渡してすぐ帰ったよ」
「…へぇ、花を」
「真っ赤な薔薇を包んでな。…ああ、そうだ、薔薇と言えば」
 カップを置いて再び立ち上がったブルースを、クラークは目で追う。彼は台所ではなく、廊下へと消えていった。
 紅茶が微かに温くなる頃、戻って来たブルースは――
 純白の薔薇を抱えていた。
 …クラークは紅茶を吹きかけた。

「な…ブルース、それ、ってひょっとして」
 中途半端に切れる声は、詰まり掛けた茶のせいだ。カップを置いたクラークへと、流れるような動作でブルースは花束を渡す。洗練された手付きに思わずクラークは見惚れた。
「花屋で見かけたんだ。あと、これもだ」
 青い紙と白いリボンに包まれた小さな箱を、ブルースはクラークの膝に置く。店名を描いた小さなシールが、淡い銀色に煌いた。
「…開けないのか?」
「え?あ、うん、いや、開けるよ!勿論だとも!!」
「言っておくが透視は禁止だぞ」
「わ、分かっているって」
 危険物処理班もこうまで繊細にはなれまい。大きな手がゆっくりとリボンを解いていく。テープの1つに至るまで慎重に、クラークは解体した。喜びも露わに一気に破いていきたかったのだが、それ以上に惜しかったのだ。

 蓋を開くと、そこには粉砂糖を戴冠したトリュフがいた。

「…ブルース……」
「貰ってばかりも気が引ける」
 箱を机の上に置いてから、クラークはブルースを抱き寄せた。
 羽のように柔らかい抱擁に、ブルースは微かに身動ぎをしたが、すぐ力を抜いた。
「…口に合うかどうか分からないが、悪くは無い筈だ」
「ありがとう」
 微かに震えてさえいる声音が、そっと耳に吹き入れられる。思わず眉根を寄せたブルースは、クラークの肩を軽く押さえた。静かに体が離れていく。
「なんか、食べるのが勿体ないな」
 照れたように微笑んで、クラークは包装紙を手に取った。その横でブルースは紅茶の残りを飲み干す。
 ふと、紙を触る音が止んだ。
「あのさ、ブルース」
「何だ?」
「この前、ブルードヘイブンに寄ってディックと会ったんだよ」
「…ディックと?」
 ブルースが体を強張らせる。クラークは慌てて手を振った。
「いや、変な話じゃないんだ。君への贈り物について、意見が聞きたくて」
「そんな事を聞きに行ったのか」
「気を悪くしたかい?」
「別に」
 ふい、と顔を逸らせたブルースに、クラークはなおも言葉を紡いでいく。肝心なのはここからだ。
「それでね、君の好きな物を幾つか教えて貰ったんだよ。甘い物が嫌いじゃないなら、お菓子でもと思って」
「…なるほど?」
「で、彼から君の好きな店も聞いたんだ」

 カップを置こうとしていたブルースの手が、僅かに揺れた。

「メトロポリスにも支店があるから、そこで買おうかとも考えたさ」
 陶器の冷たい音が静かにこだまする。

「でも聞いた店は全部、予約しなきゃならない所ばかりで」
 ブルースの肩が震え出す。

「しかも月・水・金しか営業していない所も」
「紅茶を替えて来る!」

 ついにブルースは立ち上がった。しかしクラークもめげずにその後を追いかけ、声の音量を上げていく。
「それで時間が無いから断念したんだ!」
「そうかそれは残念だったな!」
「ほらそこで月曜日に貰いたければ前の週から予約が必要だろう!今日は火曜日だから!!」
「もうすぐ水曜日になるぞ!向こうの部屋に行って時計を見てみろ!!」
「その必要は無いさ…ブルース!!」
 一段と張り上げた声に、ポットを持ったブルースは足を止める。
 クラークは、静かに告げた。

「…ここに張ってある店名、そこの店名と一緒だよ」

 長い長い沈黙の後、ブルースは――こう言った。
「都会は広い」
「……そうだね」
「ゴッサムにはな、クラーク」
 振り返るブルースの唇には、憫笑があった。
「同じ名前の店が幾つあっても、不思議じゃな」
「ブルース」
 ポットを握る彼の手を更に上から包みながら、クラークは首を振った。
「君の何に対しても意地を張る所は、正直好きになれないんだが――」
 灰がかった青い瞳を見つめて、一言。
「照れ屋な所は大好きだよ」

 次の瞬間、クラークの給料2ヶ月分のポットが唸りを上げて襲い掛かった。
「あ、危ないじゃないか!勿体ない!」
「返せ」
「え?」
「今すぐあれを返せー!」

 バレンタインデーが終わる直前。
 レベルの高過ぎる短距離走が、レベルの低過ぎる理由で開始された。
 オリンピックに出ればどちらも世界新記録は堅いだろう。ポットを構えて走る男と、他惑星生まれの男が出場を許されれば、の話だが。
 元の居間に戻ったクラークは、素早くチョコレートの箱を抱えた。一歩遅れて入って来たブルースは舌打ちする。ソファを中心に、2人はぐるぐると回り始めた。

「さあ早くそれを渡せ…!」
「嫌だ。まだ一口も食べてない…ってどうするつもりなんだ?」
「お前に渡したという証拠を抹消する!」
「じゃあ益々お断りだ。君に貰えて嬉しかったからね」
 鮮やかなウィンクで返しつつも、クラークは警戒を怠らない。ブルースがいつポットを投げて来るとも限らないからだ。
 素早く位置を変えながら、2人は睨み合いを続ける。
「そんなに照れる事でもないだろう?」
「照れてなどいない。後悔しているだけだ…!」
「酷いな。…でも」
 ブルースは片手を伸ばしたが、かわされる。ここは思い切った行動に出るしかないだろう。ポットを握る片手に力が入った。
「買っていたなら、何で今日来てすぐ渡してくれなかったんだ?」
「お前がとっとと戻っていったんだろう!」
「それもそうか……ああ、でも、ひょっとして」
 クラークの瞳が輝く。黙らせようとするブルースの手を避けながら、彼は本日何度目かの鋭い言葉を投げかけた。
「僕がすぐ帰るなんて言ったから、拗ねた?」
 その瞬間ブルースの目に過ぎった光が、殺気ではないと誰が言い切れようか。
 しかし何とかブルースは耐えた。耐えに、耐えた。
「黙れ……!」
「うん、黙るよ。これ食べるから」
 軽く言い放ってからクラークはトリュフを摘み出す。今にも口に入れられんとするのを止めようと、ブルースは思わず駆け寄り、そして――
「捕まえた」
 息も止まるようなキスが始まった。

 振り上げたポットは半呼吸遅かった。相手もさるもの。トリュフとその箱を素早くソファに置いて、自由になった手でブルースの手首を掴んだのだ。背中に回された手は相変わらず万力じみて外れそうに無い。その内ポットまで取り上げられた。
 逃しはしないと言わんばかりの容赦なさに、ブルースは目を瞑った。仕方ない、と自分に言い訳しながら。

 クラークが馬鹿力と言うのも嫌になるような力の持ち主で、そんな相手に捕まってしまったから、応えているのだ。

 背中を撫でる手が暖かくて心地良いからでも、間近で伏せられた睫が長いからでも、濃厚な口付けに酔ったからでも――ましてやこの男に心底惹かれているからでも、ないのだ。

 角度を変えて唇を食む内に、互いの息遣いが上がっていく。
 ようやく口を離し合った頃には、バレンタインは終わっていた。

「…今日は僕の作戦勝ち?」
 無邪気に問うクラークの頬を、ブルースは真顔で力一杯引っ張った。上がった悲鳴に、少しばかり胸がすっとした。

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