数日後、クラークは再び気力を奮い立たせてケイブへと赴いた。誰にも見られないよう気を配ってから、邸の裏手にある、ケイブへ続く穴を目指す。そこを潜り闇を抜ければ、ブルースが暖かいライトの下に座っている。
 筈、だった。
「…何なんだ、これは」
 思わずクラークはそう呟いていた。
 ケイブに続く穴――普段は草木に覆われ、巧妙に隠されている――には、文字の書かれた白い板が何枚も打ち付けられていたのだ。
「えーっと……『ただいま取り込み中につき面会謝絶』?」
 何か研究でも行っているのだろうか。学者肌と言うか、凝り性のブルースは、新たな発明品の作成に閉じ篭もる事が少なくなかった。
 だがその時の事を記憶から掘り起こしても、こんなバリケードを張られた覚えは無い。嫌な予感にクラークは眉を寄せる。
――まさか、嫌われた?
 ここを通るような者はクラークしかいないのだ。となればこれは、クラークを寄せ付けない為の物だと言えよう。しかし幾ら思い出しても、前回会った折のブルースは上機嫌だった。心当たりなど無い。
――なら正攻法で行くか。
 研究中にせよ何にせよ、真っ向から事情を聞いてみる方が早そうである。
 茂みに着地したクラークは、ケープの裏に圧縮してある普段着を取り出した。



「いらっしゃいませケント様」
「こんにちはアルフレッド、ミスター・ウェインはご在宅かな?」
「ご在宅はご在宅でございますが、地底探検に勤しまれているご様子でして」
「地底探検?」
 深々と頷いてから、アルフレッドはどうぞ、と邸内へクラークを導き入れた。赤い絨毯の上を歩きながら、彼は訥々と説明を始める。
「旦那様ご本人からの話ではありませんが、どうもディック様のご説明を聞くに、少々面倒な事になっておいでのようですな」
「関わっている事件が難しいとか?」
「事件ならばまだ宜しいのですが、今回は旦那様のお心の中に事件を抱え込まれてしまった模様です」
 アルフレッドの額に皺が寄る。いかにも困った様子のまま、彼はある部屋にクラークを案内した。すかさず壁のスイッチを入れる。
「心の中に?…どういう事だい」
「この年寄りには少々分かりかねます。しかし事件が解決するまでは、誰とも会わないつもりだと宣言されてから早――4日目」
「……4日目?!」
「3日3晩動き続けられた事はございましたが、4日となると流石に今回が初めてで」
 おいたわしい、とアルフレッドは取り出したハンカチで目頭を押さえる。その間に、がこんと音を立てて本棚の一角が開いた。
「あ、開きましたな。こちらは私専用のエレベーターでございます」
「う、うん」
「主人に会ってやって下さいませんか、ケント様」
「僕が?…だけど、ブルースは誰とも会いたくないって」
 落ち着き無く視線をさ迷わせるクラークに、アルフレッドはまたハンカチを目頭に当てた。
「お願いでございます。どうか主人の様子を見届けてくださいませ……ああ、老い先短い我が身が、行く末長い旦那様のご容態を気に掛ける事があろうとは……人生は無常でございますな。それにまさか、主人のご親友に生涯一度の頼みを断られるとは思っても」
「分かった、分かったよ!行ってちゃんと元気か確かめて来る!」
 涙交じりの懇願に、クラークは慌てて頷いた。ぱっとアルフレッドがハンカチから顔を上げる。それまでの苦悶はどこへやら、輝かしい顔になった執事は、いそいそとエレベーターへ手を向けた。
「よろしくお願いいたします!さ、さ、お乗り下さいませ」
「乗っていれば良いんだね」
「はい、ただちにケイブへと到着致しますので」
 狭いエレベーターに乗り込むと、アルフレッドはすぐさまスイッチを押した。軽い音を立ててドアが閉まり、次いで降下の感覚がクラークに圧し掛かった。
―― 一体、何をやっているんだろう。
 心の中の事件と言うが、もしやウェイン夫妻に関する事で思い悩んでいるのだろうか。しかしそれならアルフレッドやディックも放って置くまい。クラークはブルースの抱え込みそうな悩みについて、あれこれ思いを馳せてみる。しかし答えが出るより早く、エレベーターはケイブに到着してしまった。
 ドアが開いても、そこにいつもの明かりは無かった。ただコンピュータのライトだけが、薄ぼんやりと点滅している。
「ブルース?」
 こんなに闇が濃い場所だったとは、と少し怖じる。それでもクラークは一歩進み出た。
「ブルース、僕だ。クラークだ――アルフレッドに頼まれて来たよ」
「クラーク?!」
 驚いたようなブルースの声が、洞窟のあちこちに木霊した。張りのある声だ。憔悴してはいない。ほっとしながら更にクラークは足を踏み入れた。
「もう4日も閉じ篭もっているそうじゃないか。アルフレッドが心配していたよ。きっとディックもそうだろう」
「出て行ってくれ!」
 返って来たのはいつに無く緊張した叫びだ。声の方向と呼吸音、それに鼓動音を慎重に探り、クラークはそちらへと歩み寄る。
「君のプライベートを侵害するつもりはないよ。でも、一目だけでも元気な姿を見ないと安心出来ない」
「心配しないでくれ。私は極めて元気だ。食事もアルフレッドがエレベーターに乗せてくれる」
 運動しないから太った気もするぞ、との付け足しに、クラークは思わず微笑んだ。
「でも理由を教えてくれたって良いじゃないか。僕らは……親友だ、そうだろう?」
 少し胸が痛んだが、あえてそう言った。返答は沈黙だったが、聞こえる鼓動音は強く、そして速まって来ている。もはや躊躇わず、クラークはそちらへ大股で近付いた。視界の隅にケープの端が見える。
「来てはいけない!」
「どうして?」
「まだ原因が分からないんだ、最悪の事態を想定しておいた方が良い」
 再び緊張した声に、強くクラークは眉を寄せる。まさか何かの大事件を抱え込んでいるのではなかろうか。
「ヴィランに関する事なのか?教えてくれブルース。もしそうなら、僕にとっても一大事だ」
「いや、ヴィランは関係ない。それより君に関する――」
 しまった、とでも言うように、言葉尻が切れる。身動ぎする気配がクラークにも分かった。するすると動いたケープの端を、一足早くクラークは手に掴む。引き寄せた。
「捕まえたよ、もう離さない…って」
 しかしケープはだらりと垂れる。中は空だ。
 視線を上げた先、手術台のような場所に、ブルースは横たわっていた。
「…どうして来たんだ、クラーク」
「まさか病気なのか?!」
 コードを幾つも貼り付けた体に度肝を抜かれ、ケープを手にしてクラークは駆け寄る。諦めたようにブルースは上体を起こし、ケープを、と言って手を差し出した。
「全く、君のしつこさは私以上だな!」
「それはどうだって良い!それより君は…一体どうしたんだ!」
「調査していたんだ」
「調査?」
 おうむ返しに言ってから、ようやくクラークは手のケープを彼に渡す。それを被り、枕元に置かれていたマスクを被ると、ブルースはコードを全て引き剥がした。そして何やら機器を操作し、溜息を吐く。
「…また原因不明か」
「何を調べているんだ?」
「私の体を。ここ4日ずっと詰め切りで調べたが、未だに原因は分からない……ああ、くそ!」
 力強くブルースが機器を叩く。直後、ケイブの天井から光が降り注いだ。灯りの下で見るブルースの顔は、やつれてはいないのに、どこか色濃い疲れを漂わせている。
「君の?体を?…何の為に?」
「ああクラーク、確かに君は私にとって無二の親友だ!それでも言えない事はある。…が、ふむ、そうだな……もっとデータが必要だから……」
「もしもし、ブルース?」
 思考から置いてけぼりにされながら、クラークは問いかけてみる。はたとブルースは膝を叩いた。
「よし、分かった!少々不安は残るが仕方ない。クラーク」
「はい」
「私を北極の、君の要塞にまで連れて行ってくれ!」
「……孤独の要塞に?」
 そうだ、とブルースは妙に自信ありげに頷く。
「そこで全てを話そう。さあ頼んだぞ!」
「ブルース」
 両手一杯に謎の機器を抱え込んだブルースに、クラークはそっと首を振った。
「まず上で、アルフレッドに無事な姿を見せてからだ」



 アルフレッドから紅茶のもてなしを受けた後、クラークはブルースと掃除機のような機械を抱え込んで、北極の要塞へと飛び立った。
 到着までの間、いくら問い詰めてもブルースは「着いてから」の一点張りだった。到着してから聞いてみても、今度は「調べてから」の一点張り。
 そして内部に入った今となっては、ブルースは掃除機のような機械を動かしながら、あちらの壁こちらの床と移動し続けている。しかしやがて、彼の真剣な表情には、失望の色がありありと浮かび始めた。
「どうだい、ブルース?」
「…駄目だ……」
 ゆっくりとブルースは手袋で顔を覆う。余りの落ち込みぶりに、流石にクラークもきつく問い詰めるのは憚られた。
「思うような結果が得られなかったと?」
「ああ……すまないクラーク。私は君に謝らねばならない」
「…そんなに真剣に、何を調べていたんだ?」
 そっと肩に触れると、ブルースは微かに身を震わせた。これがいつもの事態ならば、クラークも喜ぶ所なのだが。
 いかんせん今は要塞の、「宇宙はこんなに不思議でいっぱい!」と紹介されそうな展示物のど真ん前である。謎のヒトデ型生命体や、奇妙にうねるアンドロイド蛸の前で、これほど切迫したブルースを見るとは思いもよらなかった。
「分からないんだ、クラーク……私には少しも分からない」
 俯いたまま、小さな声でブルースは言葉を紡ぐ。
「最初は君の何かが、私に影響を与えていると思っていた。しかしロビンとの相談で考えを改めたんだ。もしや私の体内に異常があるのでは?とね。病原菌の可能性も考慮に入れて、すぐさまケイブを封鎖して調査したのだが、さっぱり結果は出て来なかった」
「何が何だか良く分からないけど、そこへ僕が来たんだね」
「ああそうさ。そしてもう1度、クリプトンに関連する事ではないかと仮説を立て、ここを調べたが……何も出て来ない」
 強く拳を握り締め、ブルースは首を振る。
「矢張り私は、もう2度と君に会わない方が良いのかもしれない……」
「何を言いたいんだブルース?」
 肩に触れている手で、クラークは軽くブルースを揺すった。
「僕には良く分からないんだ。でも、その……僕の所為で、君に不調が出ているのかい?」
 それは恐ろしい一瞬だった。
 ブルースが言葉を選ぶように、視線を床に落としている。響くのは高鳴る彼と自身の鼓動音、それにガラスの向こうで蠢く、未知の生物達の気配。
「…そうだ。そのまさかなんだ、クラーク」
 搾り出すようなブルースの言葉に、クラークはずるりと肩から手を滑り落とした。
 自分の所為で、ブルースに不調が出ているなんて。そんな事を信じたくはない。が、ブルースは悲痛な瞳でクラークを見つめている。その中に、一抹の嘘は無い。あるのは真実だけなのだ。
「何て事だ」
 クラークが言えるのはそれだけだった。
「原因さえ分かれば何とかなると思った。だが、だが……」
 激しくブルースが首を振る。そのマスクをクラークは愕然として見つめていた。
「全てが不明なんだ。時期的な物かとも思った。なのに今日も君が来ると胸が高鳴って仕方ない!君と会えばいつも、そういつも、異常なまでに心拍数が上がってしまう!!」
「そんな……!」
 頭を撲られたようにクラークは背後へ後ずさる。どん、と背中にガラスが当たる。中にいる奇妙な蝶が忙しなく羽を動かした。
 その冷たさと羽音が、ふとクラークを正気に戻らせた。
――胸が高鳴る?
――僕と会えばいつも?
――それはまさかもしかして。
「…あの、ブルース……?」
「君のご両親やロイスに異常が出ていない事を考えれば、これは私にのみ起こる事なのだろう。特に君と接触する際が著しい!矢張り直接の触れ合いが益々影響を増大させ……」
「いや、ブルース、ちょっと良いかな」
「何だ?」
 離れていた距離分をもう1度詰めて、クラークはこほんと咳払いをしてから尋ねた。
「君の体内を見ても?」
「…ああ、構わないよ」
 反らされた胸を透視する。全く疾患の異常は認められない。脳にも他の内臓器官にも、骨にも見られなかった。
「じゃあ、君はその、こうすると心臓が異常なほど活発になると?」
 いつもしているように、クラークはブルースの背中へと手を伸ばし、抱き締めた。ただいつもと異なるのは、クラークの方が余り緊張しておらず、鼓動が静かだという事。
 腕の中に包んだ途端、闇夜の騎士の鼓動は激しく大きく波打った。その後もずっと、こうする時のクラークと同じように、ブルースの心臓はギャロップを続けている。
「ああ、まさしくそうさ」
 こっくり頷くブルースの肩に顔を埋め、クラークは長い長い溜息を吐いた。
――何で気付かなかったんだろう。
――何で気付いていないんだろう。
「いつからそうなったんだい?」
「2ヶ月半ほど前からだな」
 と言うと、クラークが告白してから間も無い頃だ。いよいよ疑惑は深まる。もう1度ブルースの心臓を透視したが、確かに少々脈が速い以外、異常は見られない。
「ブルース。あの、君は嫌がると言うか、否定するかもしれないけど――僕には原因が分かったよ」
「何だって?!」
 勢い良くブルースが顔を上げる。クラークはそっと腕を離し、彼と真正面から向き合った。
「恋だ。君は多分、僕に恋している」

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