次の日の昼になっても、ジョー=エルは帰って来なかった。
「会議は長く掛かるのか?」
「3日ほど泊り込みで続ける場合がある。短い時は本当に短いが」
「そうか」
ケレックスの持って来た皿をテーブルに並べ、ブルースは頷いた。カルが飲み物を2つのコップに注ぎ入れる。窓から受けた陽光を反射して、皿の中の白いスープが輝いた。
2人分の椅子が現れる。そこに腰掛けると、カルはすぐに目を閉じ、食事前の祈りを神に捧げ始めた。赤い太陽の恵みを称えるその言葉は、クリプトンの古語らしく、翻訳機を付けていても意味が取れない。
ただ、低く呟くカルの声は耳に心地良い。ブルースも神に祈りを捧げるが、それが終わってもカルはまだ続けている。そんな折には目を閉じたまま、彼の声に聞き入るのが、ブルースの常になり始めていた。
カルの祈りが終わってから、ブルースはスプーンを手に取る。どの星でも、人間が使うのは同じような物なのかもしれない。
白いスープは、まろやかな舌触りと甘味を持っていた。食事の材料はケレックスやカルから聞いていたが、栄養満点と言う以外はさっぱりだった。
「口に合うか?」
「ああ」
素晴らしく美味、という訳ではないが、優しい味がする。昨夜の飴玉や例の飲み物よりは、遥かに親しみやすい。
「良かった」
ブルースの答えに満足したのだろう。そう言ってカルは小さな笑みを見せた。クラークの笑顔とは種類が違うが、彼もよく笑う方らしい。
「お父上に、差し入れはしなくても?」
カルから視線を外しながら、ブルースは尋ねた。スープを掬い取って口に運ぶ。
「ああ。向こうに着替えも食料も揃っている。…それより」
ケレックスが新たな皿を持って来る。それを受け取り、机に置くまで、カルの言葉は中断した。
「問題はこちらの食料だな。そろそろ買出しに行かないと」
「…君が?」
「そうだ。ああ、一緒に来るか?」
「カル=エル様」
ふよふよと浮かんでいるケレックスが、控え目に会話へと口を挟んだ。
「食料の買出しならば、いつも通り私が参りますが」
「…黙っていろ」
「畏まりました」
相変わらずの一礼をしてから、ドロイドは台所へと去っていく。
「私は外出禁止だと思うが?」
地球人と共にいるゾッドが警戒されている今、ブルースが出歩くと、それだけでスパイと見做されそうである。だがカルは首を振った。
「君の待遇はエル家に任せられている。大丈夫だ」
「だが、私は地球人だぞ。ゾッドの内通者と思われる可能性は」
「君の出自は父が押し隠す。それに僕が共に行くんだ。万が一追求されても、“誰1人いない家中に置くのが不安だった”とでも答えれば良い」
身を乗り出すカルに、それでもブルースは眉を顰めた。
「誰かに呼び止められたら?」
「君は母方の遠い親戚で、地方から社会見学に出て来たと言う」
「…もし留守中に、ここへ軍が来たら?」
「襲撃される危険があるなら、なおさら外へ出る方が得策だ」
だから、とカルは続けた。
「行かないか。君もここ数日、ずっと家の中だろう。外の空気が吸いたくは?」
「大変、魅力的な案ではあるが」
ブルースは意を決して、視線を上げた。
「何故そこまで私を誘う?」
呆気に取られたように、カルが目を瞬かせた。青い瞳が右へ左へと動き、やがて宙で止まった。
「1人だと、暇だからだ」
「ケレックスに行って貰うのはどうだ?」
「今日は外に出たい気分なんだ。……もう良いだろう?一緒に来たくないなら、そう言ってくれ!」
開き直った声で言い切ると、カルは横を向いてしまった。ブルース側に向いた耳朶は、紅色に染まっている。
――怒って叫んだからだろう。
ブルースは心中でそう結論を出した。同時に、自分達がひどく不毛な言い争いをしていた気分になる。
「カル」
「何だ」
横を向いたままカルは答える。未だに赤い耳朶へ向けて、ブルースは言った。
「家に入る連絡には、どうしている?」
「携帯の連絡機器がある。そこに転送可能で……行く気になったのか?」
ようやくこちらを見たカルに、ブルースは数拍の間を置いてから――頷いた。
「長居は出来ないからな」
同じく数拍の間を置いてから、徐々にカルの顔が綻んでいく。
「分かった。昼食が終わったら、すぐ支度しよう」
浮かんだ満面の笑みは、クラークのものと良く似ている。
――何で私はこの顔に弱いんだろう。
ブルースは軽く首を振り、スープを掬った。
数日前、ジョー=エルと共に乗った移動装置は、今度は上昇ではなく下降していった。
窓の外は雲ひとつなく、太陽に照らされた白い塔が眩しい。地表に広がる街が近付くと、隣に座っているカルが、あそこは広場、あそこは学校と、ひとつひとつ説明してくれた。
実用品ばかりと思っていたが、広場の噴水などを見るに、そうでもなさそうだ。確かに飾りはないが、建築物を構成する線は、カーブや連なりなどが微妙に計算されているようだ。素っ気無いばかりと思っていたブルースは、物珍しさも手伝って目を見張る。
「降りて、少し歩いたら食料品センターだ」
「これはどこに止めるんだ?」
「公共のパーキングエリアがある。もうすぐだ」
カルの言葉が終わるや否や、僅かな下降の感覚と揺れが、ブルースの体に伝わって来た。
「ほら着いた」
行こう、と誘うカルに従い、ブルースも開かれたドアをくぐる。たちまち赤い日差しが降り注ぎ、風が前髪を揺らした。陽光はともかく、久し振りの風の感触に、ブルースは思わずほっと息を洩らした。
地面に敷かれた石畳は全て白だが、道行く人々の服装は、地味ながらも色が付いている。ブルースのと同じ黒の服も、ちらほらと見受けられた。
「ここが食料品センター。大概の食料は販売されている」
そこは、予想通り白い立方体の形をしていた。
入り口を潜れば、お約束の白色灯の下、マーケットの数倍はありそうなフロアが広がっていた。もっとも、ブルースは自分が最後にマーケットへ行ったのはいつか、覚えていなかったが。
「…凄いな」
「販売網の管理もここで行われているからな。…そこのボードを取ってくれ」
「これか?」
ノートほどの大きさの金属板が、ブルースの横には山積みになっている。1枚を取り上げてカルに渡すと、彼はスイッチを入れ、何やら画面を押し始めた。
「よし。このボードを、ここに嵌めて」
「ああ」
示された円卓の上にボードを置けば、たちまち中へと吸い込まれていく。次の瞬間、円卓の下から、一気に何かが落ちて来た。
「な」
「ボードで選んだ商品が出て来ているんだ」
目を丸くしたブルースにカルが答える。雪崩が終わると、円卓には数値が現れた。
「で、代金を入れて」
ボードを置いたのと同じ場所に、カルは紙幣を置く。それが中へと吸い込まれて数秒後、今度は商品が詰まった半球形が、唐突にふわりと浮き上がった。カルがその半球形に、何やらカードを当てる。すると半球形は2人を置いて外へと出て行った。
「…どこへ行くんだ?」
「移動装置へ。中まで荷物を届けてくれるのさ」
「盗まれる心配は?」
「撃退用に武器が仕込まれている」
そう言ってカルはちらりと笑みを見せた。
「君のマスクと同じようにな」
「…私のマスクは空を飛ばない」
ブルースの返答に、今度こそカルは吹き出した。
「見れば分かるさ。…さて、出ようか」
半球形を追って、2人は数分前にくぐったばかりのドアを出た。
「舐められたものだな、俺も」
黒い手袋の上に、小さな金色のコインが着地する。ぴん、と音を立て、それは再び宙へと舞い上がり、やがて落ちる。男はその動作を飽きもせず繰り返していたが、やがて組んでいた足を解き、立ち上がった。その左手に、落ちて来たコインが収まる。
「追って来たのがサイドキックの坊やに、ブルードヘイブンの青二才だけとは」
「人数は申し分無いと思うけど?」
「…確かに」
ロビンの言葉に、トゥーフェイスは満足げな笑みを見せた。拳銃を握る右手には、さほど力が込められていないらしく、体に沿ってだらりと下がっている。常のティムならば見逃しはしない隙だが、後ろ手に縛られている状態では、どうにかしようにも無理があった。
「だが君は半人前だから、こっちのヒーローと足して1.5人だな」
くくっと喉の奥で笑ってから、トゥーフェイスは右手の銃を振り上げた。ナイトウィングのこめかみに、死の口が当てられる。
「バッツはどこだ?君達2人を囮にしようって話か?とんだ冷血漢じゃないか」
「さあね。うちのボスが冷淡ってのは、あんたも良く知ってるだろう?長い付き合いなんだからな、ミスター・アポロ」
「無駄口叩くんじゃねぇ」
トゥーフェイスの喉から、金属を擦り合わせたような声音が発せられる。
「頭と心臓で計2発だ。とっとと答えるんだな。奴は俺達の脱走を知っているんだろう?何故追い掛けて来ない?何故このゴッサムに」
ディックの黒髪を割って、銃がぎりりと皮膚に食い込んだ。
「部外者のタイツ連中が集まっていやがる?」
「知りたい?」
横から聞こえたティムの声に、トゥーフェイスは2つの顔を向ける。
「全米パトロール強化週間なのさ!」
ティムを戒めていた手錠が床に落ちた。トゥーフェイスが銃口を上げる。
「その通り」
ディックがトゥーフェイスの足を払った。よろけた彼の右手に、ティムの投げたバッタランが激突する。トゥーフェイスの呻きと、銃の落ちる音が響いた。すかさずディックが自分の手錠を外し、床に倒れたトゥーフェイスの両手に嵌めてしまう。
「この、ガキ共!」
「悪いけどトゥーフェイス、僕はハタチ過ぎだよ」
「そうそう。僕から見たらもう十分におっさん」
「五月蝿いぞロビン!生足でいられる時期はすぐ終わりなんだからな」
「安心してくれ。最初から生足じゃない」
軽口を叩きながらも、ロビンとナイトウィングに手抜かりは無い。ディックがトゥーフェイスを立たせ、ティムがその背広の内ポケットへ、拾ったコインを入れてやる。
「部屋の外では、俺の手下達が待っているぞ」
「蜂の巣にされる時は一緒さ」
「それに、あんたの手下は統率が取れているからね。ボスの命を守ろうとする連中揃いだ」
流石は古株、と言ったディックに、焼き殺しそうな視線をトゥーフェイスは向ける。しかしこの状況で勝ち目はないと悟ったのだろう。彼は大人しく、2人に従った。
とあるバーで、緑色の背広を着た男が飲んでいる、という通報が入ったのは1分前の事。
1分後の現在、その男は赤い閃光に抱えられ、ゴッサムの通りを疾走していた。
「な、な、な、何故だ何故だ何故だ?どうして俺の居場所が?!」
「おいおいナゾラー、こんな時はこう聞くもんだろ?“世界一素早くてイカしたヒーローは誰?”ってな!そうしたらオレがカッコ良く、“答えはアンタの目の前に”って……」
「俺はナゾラーじゃない、リドラーだ!下ろせ!下ろせ!この野郎!」
「ゴッサム市警に着いたら下ろしてやるって。それまでちょっと辛抱してなよ、えーっと謎々マンだったっけ?」
振り回される杖を交わしながら、フラッシュは肩に担いだリドラーへとウィンクしてみせる。だが女性を悩殺する――ただし効果は時と場合による――その表情も、生憎とこのヴィランには通用しなかったらしい。更に杖を振り回し、リドラーは高らかに叫んだ。
「だから、俺は、リドラーだ!くそ、蝙蝠はどこに消えた?!」
「アーカムでじっくり考えるんだな、クエスチョンマークマン」
「畜生!折角良い謎を思い付いたってのに!出て来いバットマーン!」
しかしその叫び声も、更に上がったフラッシュのスピードによって、空しく掻き消えたのだった。
『トゥーフェイスとリドラーが捕まったわ』
路地裏には、放り出された生ゴミの臭気が漂っていた。その臭いに眉を寄せながら、聞こえて来るオラクルの声に頷く。
「そうか」
『これで残す所あと1人よ。今そちらに向かっている最中ね』
「ああ。見えるよ」
淡い青に染まった視界を、遮る物は鉛以外に存在しない。向こうから駆けて来る長い足と、振り回されている長い腕が良く見えた。あのでたらめな走り方で、よくも体力が持つものだと、少しばかり感心する。
『応援を』
「いや、必要ない」
『逃がしたらどうするの?』
「あいつ相手なら、複数より単独で向かう方が良いだろう。…彼みたいにね」
オラクルが沈黙すると共に、耳に奴の息遣いが届き始めた。
『3分で捕まえられなかったら、フラッシュを応援に行かせるわ』
「分かった。よろしく」
通信が途絶えた。湿った地面を軽く蹴り、浮かび上がる。空気が澱んでいるせいか、ケープの動きはいつもより心なしか鈍い。
「Little Robin chirped and sang……」
だが忙しない息遣いと、足音と、そして歌うような声はぐんぐん近付いて来ている。活動拠点の差に気を取られている暇は無かった。
「And what did pussy say?」
逃れ切ったと思っているのか、その声には笑いが混じっている。いや、それはいつもの事なのかもしれない。しかしどちらにせよ、不快にさせる響きだった。
「Pussy cat said, Mew, and Robin jumped away!」
ヒヒヒ、と引き攣った笑い声と同時に、角を曲がって道化の王子が現れた。
「そこまでだ、ジョーカー」
「へ」
白粉よりもなお白い顔面に向けて、クラークは大きな手を突き出した。
「生憎だが、抜け穴は通行止めにさせて貰ったよ。大人しく捕まるんだな」
「……」
見開かれた目が、クラークを見上げては見下ろす。開かれたままの赤い唇から考えるに、事態がまだ飲み込めていないらしい。
「逃亡したヴィラン達も全て捕まえた。今度は君の番だ」
「…なぁ、おい。ちょいと待てよスープス」
大仰にジョーカーは腕を広げ、クラークを下から覗き込んだ。
「物事は一足飛びに考えちゃいけませんって、ママに教わらなかったか?論理力を養う為にも、まずは俺の質問に答えなスーピー」
「無駄話をするつもりは」
「何でお前らがゴッサムにいて、バッツィーがいねぇんだ?」
ジョーカーの瞳は、常に狂気で輝いている。そうブルースが洩らした事を、クラークは覚えていた。しかし今この瞳を彩っているのは、疑惑と、憎悪と、少しばかりの恐怖だ。
「野暮用があるそうでね。お節介を回して」
「嘘を吐くんじゃねぇ。メトロポリスの少年少女が泣くぜ?鋼鉄の男はホラ吹き男!僕ら皆を騙してた!ってな」
「嘘じゃない!」
つい声を荒げてから、クラークははっとした。ジョーカーが勝ち誇ったように笑っていたのだ。
「こっそり教えろよスーパーハム。バッツィーはどうした?え、病気か、事故か、チンピラに刺されて病院送りか?知らせてくれないなんて水臭いじゃねぇか!見舞いの花束は任せとけ!」
クラークが共犯者であるかのように、ジョーカーは囁き、叫んだ。しかしクラークは首を振り、毅然と答える。
「もう良いだろう。ゴッサム市警に連れて行く」
趣味の悪い背広の襟首を、クラークは力を込めて掴んだ。ジョーカーの足が宙に浮く。何も罠や逃亡の仕掛けがない事を確認してから、クラークは一気に高度を取った。
「おい」
ジョーカーの目玉がぎょろりと動いた。クラークの心中に嫌悪が渦巻く。しかしそれを表情に浮かばぬよう気を付けて、彼は答えた。
「何だ?」
「バットマンは死んだのか?」
背筋に悪寒が走る。
ジョーカーの瞳は、毛筋ほどの変化も逃すまいと、こちらを見据えていた。狂的な光に胸がむかつく。それを抑える為に一呼吸を置いてから、クラークは声を絞り出した。
「まさか」
顔を上げ、ゴッサム市警へ体を向ける。
「僕より君の方が知っているだろう。彼は――」
「殺したって死ぬような奴じゃねぇ!」
空へ届けとでも言うように、ジョーカーは両腕を広げ、高らかに叫んだ。
「何度も撃った。何度も刺した。だけどさっぱり死にゃしねぇ。そうともミスター・ボーイスカウト、俺は誰より奴を知っているのさ!俺がこうしている限り、あの野郎が死ぬなんて事はありっこねぇんだ」
「…どうしてそう思う?」
無視しようと思っているのに、それでもクラークは尋ねてしまった。鋼鉄の男に運ばれながら、ジョーカーは歯を剥いて笑う。それから気取った様子で胸に手を当てると、バットマンの宿敵はこう答えた。
「あいつが最愛のダーリンを置いて逝くと思うかい、ミスター・ブルータイツ?」
「――飛ばすぞ」
弾丸より速く、クラークはゴッサム市警本部へと飛んだ。
目を丸くした警官2人の前に、ジョーカーを放り出す。道化は蜘蛛のように地べたへ張り付いたが、その様も一瞥だにせず空へと去った。