カーペットが埃と液体に塗れる。砕けた機械仕掛けの腕を放り出すと、クラークは先程から座ったままの男に向き直った。
「君の社のロボットだ。街中で暴れ出したせいで怪我人が出た」
「痛ましい事故だな。死者が出なかったのが幸いだよ」
きぃ、と椅子の背もたれが鳴る。置かれた机の上に、手を叩き付けてやりたくなった。代わりに睨むと、レックス・ルーサーは全く怖じる事なく視線を返して来る。
「私の仕業だと思っているようだな、スーパーマン?」
「君以外に誰がいる?」
「そのロボットは先日、盗難被害にあったものだ。届けも出してある」
溜息交じりにルーサーは腕を広げた。
「事業が拡大すると敵が増えて困るよ。君のようなヒーローが警護してくれれば楽なんだが、どうだ?」
「冗談は止せ。子どもまで怪我したんだぞ?!」
「賠償金を払おう」
そう言ってルーサーはようやく立ち上がった。
「予定が入っているんだ。帰ってくれるかね」
「…分かった」
これ以上何も出来ない。いつもと同じパターンの繰り返しだ。立ち去るべくクラークは窓へと足を動かした。
「そう言えば」
不意にかかった声へ首だけ向けると、ルーサーがこちらを見ている。
「近頃、ゴッサムの蝙蝠が不在だと聞いたが?」
どこで嗅ぎ付けたのだろう。一瞬、頬がクラークの考えとは無縁に揺れる。
「さあ」
それでも、平静な声でクラークは答えた。
「ヒーローは何かと忙しいからな」
「ほう」
ルーサーが唇の端を擡げた。分かっているぞと言いたげな表情に、クラークは眉を顰める。
「苦労を察するよ」
「…どうも」
ぶっきら棒に言ってから、青い空へと目を向ける。
舞い上がった赤いケープを見つめながら、ルーサーは1人、考え込むように顎へと手を当てた。
エレベーターへと繋がるドアが、唐突に開く。思わず身構えたブルースのゴーグルに、ジョー=エルの疲弊した顔が映った。カルが椅子から立ち上がる。
「父上、議会は?随分と早く終わって」
「一旦切り上げだ。また1時間ほどで行かねば――バットマン」
呼び声にブルースも立ち上がった。いつになく張り詰めたジョー=エルの空気に、自然と背筋が伸びる。
「緊急事態が発生した。最悪の事態も想定して欲しい」
「分かった。…先程の飛行機が原因か?」
「そうだ」
ケレックスに上着を渡しながらジョー=エルは頷く。不安げなカルに視線を向けて、彼は言った。
「ゾッドが戻って来た」
――ゾッド。
聞き覚えのある名だ。だがブルースの記憶は、カルの声で中断させられる。
「そんな……帰還予定まで、半年以上あったではありませんか」
「動揺させるつもりなのだろう」
ジョー=エルが机のスイッチに触れる。現れた3つ目の椅子に腰掛けると、彼は長い溜息を吐いた。それからブルースに向き直る。ブルースも椅子へと座り直した。
「君に、また説明せねばならんな」
「頼む」
重苦しい物を発するように、ジョー=エルは言葉を紡ぎ始めた。
「地球を、我々が崩壊させたのは聞いた通りだ。しかし一部、それに反対していた者もいる。その代表とも呼べる男が、将軍、ゾッドだ」
「将軍……」
クリプトンの将軍。その言葉が再び、ブルースの記憶の琴線に触れる。
「彼はクリプトンが危機を脱した後の、政策転換や教化にも異を唱え続けた。やがて彼は議会から睨まれ、こう命じられたのだ」
そこで言葉を止め、ジョー=エルは空に視線を移す。
「“地球を始めとする太陽系に、我々は大きな影響を与えた。太陽系の変化、及び生命体の救援に向かえ”と。期限は少なくとも20年。その時が経つまで、クリプトンへの帰還は許されぬと」
「…流刑だな」
「その通りだ」
俯いたジョー=エルを気遣うように、カルがその背中へ手を置く。
「そのまま宇宙の彼方で死を迎えるだろうと、誰もが思っていた。しかし数ヶ月前、彼からの連絡があったのだ。変化の観察と救助活動を終えた、これからクリプトンへ帰還する。そう言って寄越した」
「そして今日、ああやって帰還したという訳か」
「ああ。そしてこれからが大事なのだが、バットマン」
ひたと向けられた目に、ブルースもゴーグル越しに視線を合わせる。
「あの戦艦には、地球人の生き残りが乗っているそうだ」
「……何?」
「議会は君を、ゾッドのスパイだと思う可能性がある」
「だが私は貴方の実験事故で送り込まれたんだぞ?それは向こうも承知の上だろう」
「君にとって都合の悪い事に」
大丈夫だと言うように、ジョー=エルは息子の手に触れた。そっとカルが手を離す。
「彼と私は旧友なのだ。そして」
「父上」
カルが横から言葉を挟む。
「少しでも休まれた方が良いと思います。今日は徹夜で議会に出るのでしょう?」
「だが」
ちらりとこちらを見やるジョー=エルに、ブルースは首を振って見せた。
「大体の経緯は分かった。ゆっくり休んでくれ」
「……分かった。すまない」
ブルースは、立ち上がろうとするジョー=エルに手を貸した。
少し丸い指先が、クラークのものと良く似ている。それがブルースの腕を握った。
「何かあればすぐ実験室に」
「ああ。そうしよう」
「その時はお前も付いて行け、カル」
「はい」
ブルースと息子の眼差しを見て安心したのか、細く長い息がジョー=エルの唇から漏れた。立ち上がった彼はケレックスを伴い、奥の部屋へと向かう。
その背中が、幾分か小さくなったような気がして、ブルースは僅かに眉を顰めた。
「ティミーボーイ、機械の反応は?」
「見ての通り、一切無しだ」
ああ、とディックは呻いて顔に手を当てた。
「今日で何日目だ?ったくもう、うちのボスは鉄砲玉なんだから……」
「ま、今回はブルースが自分から消えた訳じゃないし?」
動き続けるクリプトンの遺物に、目を注ぎながらティムは答える。
「大目に見てやりなよ。その内きっと戻って来るさ」
「…でも、戻って来ない可能性だってあるんだよな」
ティムが振り返ると、ディックは座りながら、ケイブの天井を見上げていた。そこにたゆたう闇は、地の底にも似て深い。
「“ブルース様を信じる事です”って」
ディックがティムに視線を向けた。
「アルフレッドが言ってた。ブルースが世界を回っていた頃は、半年間音沙汰無しなんて事が良くあったって。ゴッサムに帰った後も、気が気じゃなかったそうだよ」
「…だろうさ」
「だけど、心配して考え込んだってキリがない。こっちの胃が痛むだけだから、きっと無事に帰って来るんだ、って信じていたって」
勢いをつけて、ティムは椅子から飛び降りた。
「嫌になる気持ちも分かるけど、今は信じて待つしかないだろ、ディック?」
「――うん」
唇を尖らせたディックが、ティムと同じく椅子から腰を上げる。
「だからって、心配事が無くなる訳じゃないけどな」
「それはそうさ。…上へ行こうか、アルフレッドのチェリーパイがそろそろ焼き上がる頃だ」
「お!じゃあそれを食べてから、パトロール――」
2人の背中がその時、コンピュータ画面の光に照らし出された。
『こちらオラクル。ロビン?ナイトウィング?誰かいる?』
「バブ?」
たん、と2人の靴が軽やかに地面を蹴る。ティムが通信スイッチを入れ、ディックが画面のボタンを押した。一瞬にして、緊迫したバーバラの顔が現れる。
『アーカム・アサイラムで爆破事件が起きたわ』
「逃走したのは?」
『今の所、ペンギン、リドラー、ポイズンアイビー、クレイフェイスの4名よ』
「その面子なら、僕とロビンでも何とか」
『ちょっと待って』
ディックの言葉を遮り、バーバラはイヤホンへ耳を押し付けた。警察無線の盗聴をしているのだろう。たちまち顔色が紙のように変わる。
『…JLに応援を頼むわね。新たにキラークロックとトゥーフェイス、それに』
「それに?」
『ジョーカーも』
「――すぐに行く」
バーバラが頷く。通信が途絶え、黒い画面が広がった。
「行くぞロビン!」
「ああ!」
「パイには心引かれるけどな!」
「……ああ!」
赤い日が沈んでも、ジョー=エルは帰って来なかった。
ブルースは、不安げな表情のカルと並んで食事を取った。窓から見えるのは漆黒の闇と、規則正しい街並みの白色灯ばかりだ。室内の明るさもあって、星は微かにしか見えない。
先程までカルが、立体映像のニュースを付けていたが、どれもゾッドの帰還一色を報道していた。淡々とした、事務的な語り口調であっても、流れていた音が消えると静けさが際立つ。
「……部屋に戻る」
「ああ」
カルが席を立った。広い背中はクラークと似ているが、良く見れば矢張り、筋肉の付き方や厚さが微妙に違う。カルの方がやや細く、薄い。その背中を見ながら、ブルースは考えていた事を口に出した。
「少し頼みたい事がある」
「何だ?」
振り返ったカルに見下ろされるのが嫌で、ブルースもまた立ち上がった。
「万が一の事態を考えて、装備が欲しい。煙幕弾や照明弾を作ろうと思うのだが、材料を貸して貰えないか?」
「煙幕弾に照明弾……?」
「催涙ガスも欲しい所だが、作るのが面倒だからな。あとは、同型の小さなナイフが15個もあれば十分だ」
怪訝そうな目でブルースの頭から爪先まで見つめてから、不意にカルが肩の力を抜く。
「分かった。材料を持って来る」
「ありがとう」
「君は本当に、その……いや、何でもない」
催涙ガスとは、と首を捻りながら、カルはブルースに再び背中を向けた。
10分と待たずに、カルはその手一杯に、器具や材料を抱えてきた。
幸い、煙幕弾は研究室に、ジョー=エルお手製の物が置いてあったらしい。何故だとはブルースも聞かなかった。持って来たカルが不可解な顔をしていたからだ。僕も父も兵器開発には携わっていないんだが、と言い訳するように呟くと、彼は様々な材料や器具を両手から溢れさせた。
目を丸くしたブルースに、何か分からない事があれば、と言い残して、彼はまた自室に戻っていく。
「……さて、やるか」
自分を鼓舞する為に、ブルースはそう呟いた。手袋を嵌め、付けっ放しだったゴーグルを取る。材料の類はほとんど地球のものと変わらない。ケイブでの作業を思い出しながら、ブルースは照明弾作成に勤しみ始めた。
すっかり暗くなった空を前にして、細かい作業を延々と続ける。量を計り、そっと詰めながら、ブルースは逃走経路を脳内に描いていた。
広いとはいえ家屋の中だ。そう何十人も突入はすまい。ただ、全身装備の軍人と戦うのは骨が折れる事だろう。煙幕で注意を引き付け、その隙にドアを潜り、待機しているだろう連中を倒してから、エレベーターを使う――。
いざ実戦となれば体が頭より早く、的確に動いてくれる。それでも、ブルースは何度もエレベーターの操作方法を脳内で繰り返した。
数時間後、掌に収まるサイズの照明弾が幾つか出来上がった。余った材料で作ったフック付きのベルトに、煙幕弾ともども収める。見栄えは悪いが文句は言っていられない。
――使うような事態にならねば良いが。
襲撃されても逃げる自信はあるが、ジョー=エルやカルが捕らえられれば、ブルースはクリプトンで1人きりになる。その上、転送装置もまだ復旧されていない。そうなれば地球に帰られる可能性は、マイナスまで振り切られそうだ。
渡された小型ナイフを、ブルースは軽く握った。バッタランと異なり、ナイフは投げたら戻って来ない。慎重に使う必要があった。夜が明けたらどこか場所を借りて、訓練しようと考えながら、ブルースは付けていたベルトを外す。窓の外は状況を示すように暗い。
――そろそろ寝るか。
ブルースは黒い上衣を脱ぐ。薄い割には保温効果に優れ、肌触りも悪くないが、いかんせん戦闘には不向きな代物だ。これも何とか工夫しなければなるまい。脱いだ服をベッドに向けて放ると、ブルースは寝る前のトレーニングを開始すべく、床へと座り込んだ。
まずはいつもの腕立て伏せから、と体を伸ばしていると、唐突にドアが開いた。
「え」
「あ」
手にトレイを持ったカルが、戸口には立っていた。
「……前々から言おう言おうと思っていたのだが、とりあえずノックを」
「どうしたんだその傷は!」
ブルースの言葉を遮って、カルが青い顔で叫んだ。
「傷?」
何の事だと首を傾げるブルースの前で、カルはトレイを机に投げ出す。トレイに乗っていたものがぶつかり合い、悲鳴を上げた。
「な、何があった?」
「それは僕の台詞だ。…こんな傷跡、初めて見たぞ」
力無くよろけたカルに、ブルースは思わず目を丸くする。それから自分の体に目を移した。
被弾の痕、ナイフで刺された痕、火傷の残滓に切り傷、縫合の痕――確かに、傷跡のオンパレードである。今まではごく僅かな、事情を知っている者にしか見せた事がなかったが、言われてみれば驚愕するのも無理はない。
「…治った怪我ばかりだ。大した事ではない」
「大した事だろう!待っていろ、薬を持って来させるから」
「だからもう治っていると」
「傷跡の消える薬があるんだ」
「……本当か?」
そう言えば、カルを助けた際の火傷も痕1つ残らなかった。あれだけの技術があるならば、傷跡の10個や20個、簡単に消せるのかもしれない。
「ケレックス、救急箱を――」
「いや、カル」
「何だ?」
ドアに身を乗り出したカルに、ブルースは首を振って見せた。
「悪いがその必要は無い」
「何故だ?酷い傷じゃないか」
「この傷跡には思い入れがある」
上半身裸で地べたに座りっ放しなのも居心地が悪い。とりあえずブルースは立ち上がった。傷に注がれる視線を意識しながら、無表情を取り繕って答える。
「失態の証であると同時に、私の誇りでもある。だから消すつもりはない」
「……」
信じられない、と言うように、カルはこちらを見つめていた。クラークに初めて傷跡を見られた時、彼はどんな風に反応したのだったか。思い出せない。
「気持ちだけは受け取っておく。…ところで、今度から部屋に入る際はノックして頂けないか?」
「ノック?」
ぱちりとカルが目を瞬かせた。
「何だそれは?」
「……入室の許可を求める為の合図だ」
ブルースは服を着ようか迷ったが、諦めた。カルの傍らをすり抜けると、ドアをこんこん、と叩いてみせる。
「こうやって、中の人間が“どうぞ”と言ってから、室内に入るんだ」
「何故そんな事をするんだ?入れたくないなら、鍵を掛ければ良いじゃないか」
「鍵のないドアだったらどうするんだ?」
「そんなドアを持つ者が相手なら、許可を求めずとも構わないだろう。向こうも文句を言えない」
「…随分と勝手だな」
「それがこの星の流儀だ」
そう言いながらも、カルはドアに近付く。大きな手を丸めて、ブルースがしたようにドアを叩いてみせた。
「これで良いのか?」
「ああ」
「変わった習慣だな……」
また何かが好奇心に引っ掛かったのか、カルは手を顎に当て、考え込むような姿を見せた。思わず浮かぶ苦笑を堪え、ブルースは机に目をやる。先程カルが投げ捨てたトレイには、カップと、小さな飴玉のような物を幾つか乗せた皿が置いてあった。
「これは?」
「あ、それは」
カルが振り返る。
「夜食代わりだ。随分と遅くまでやるな、と思ったから」
「そうか……」
まさかこんな心遣いをして貰えるとは、思ってもみなかった。良く見ればカップの中に入っているのも、昼間の炭酸飲料ではない。
「ありがとう」
礼の言葉は素直に口から出て来た。それを聞いて、カルはふいと横を向く。
「お休み。トレイは明日になったら片付ける」
「分かった。お休み」
こちらを見ずに言うと、さっさとカルは部屋から出て行った。照れたのだろう。ブルースは今度こそ苦笑して、皿からベビーピンクの飴玉を取り上げる。
「……酸っぱい」
たちまち口中に広がった酸味で、ブルースは激しく顔を顰めた。