外へ出ると、球形は既に道を曲がっていた。悠長な動きに見えるが、速度は案外早いようだ。感心しつつ、ブルースはカルと共に球形の後を追った。
「食料以外に、何か必要な物は?」
 そう尋ねると、カルは少し考えてから首を振る。
「特に欠けている物は無いが、このまま帰るのも……ん?」
「どうかしたのか?」
「あれは……」
 カルの視線の先に、ブルースも顔を向けた。
 2人がいる食料センター前とは、やや離れた広場の先で、黒い群れが動いている。ブルースはサングラスの光量を調節した。視界が明るくなる。
 それは黒いフルフェイスのヘルメットを付け、同じく黒のジャケットを着た人間だった。格好や歩く様が、地球の特殊部隊に良く似ている。それが50人ほども広場に集まっているのだ。ブルースはカルを振り仰いだ。
「クリプトンの軍人か?」
「いいや。あんな格好の連中、見た事も無い」
 規則正しく並んだ黒蟻のような群集は、嫌でも人目を引く。センター前や広場にいた人間達は、皆彼らに訝しげな視線を向け始めた。十分な注視を引き付けたと思ったのだろうか。中から1人、背の高い者が列から離れ、声を張り上げた。
「クリプトン市民の諸君」
 ヘルメットの中から発せられる声は聞き取り辛い。その発言を聞く為に、周囲は次第に静寂で満たされ始めた。噴水の音までも遠慮したように静かだ。
「我々はゾッド将軍指揮下にある、K-15部隊である。将軍の命により、本日この時より、5AK地区は我々の支配下に置かれる。全員即刻各家庭に戻り、待機するように」
 咳きひとつ聞こえない時間が延々と流れた。全員が唖然としてその男を見つめる中、男の側にいた老人がようやく口を開いた。
「それは議会の決定かね?」
「将軍のご命令である」
「では無意味な話では――」
 老人に、男が銃口を突き付けた。ライフルのようだが、それよりもっと巨大な代物である。老人の皺首ひとつ、あっと言う間に吹き飛ばしてしまいそうに見えた。
「無礼な言葉を吐くな。議会はもうじき将軍の制圧下に置かれる」
――反乱。
 刹那、ブルースの脳裏にその言葉が過ぎる。ざわめきの声が広場一帯を揺るがし出した。
「もう1度命ずる。全員即刻家庭に戻り、待機しろ」
 男の声に背中を押されて人が散り始める。それでも呆然と立ったまま、動けない者もいた。ふと男が老人から銃口を逸らし、白い街灯に向けた。
 ライフルよりも重たい音と共に、街灯の砕け散る音が轟く。街灯の細かな欠片が四方八方に飛び散り、人の群れはたちまち恐慌に駆り立てられ走り出した。
「カル、行くぞ!」
「あ、ああ」
 走り回る人間に足を押されながら、ブルースはカルの腕を強く引っ張った。
「っ!」
 同時に、横を走っていった女性に足を強く踏まれる。もはや誰もが、互いに構わず必死になっていた。
「教化だの洗脳だのと言っているが」
 ぴったりとカルに寄り添いながら、ブルースは毒づいた。
「いざと言う時には役に立たんな」

 人でごった返したパーキングエリアから、何とかエル家の移動装置を発見し、2人は空へと脱出した。
 離陸して時間が経ったにも関わらず、2人の間には未だに沈黙が佇んでいる。移動装置に付いていた連絡機器を使っても、ジョー=エルは全く反応しなかった。カルが各メディアを調べても、どの局も「しばらくお待ち下さい」の文字しか映さない。
 窓の外には相変わらず、白い塔と街並みが居並んでいる。反乱につきものの煙や火は全く見えず、それが逆に不安を煽り立てる。ブルースは軽く唇を噛みながら、項垂れているカルを見つめていた。
 彼は席に座り込んだ時と同様、広い背中を丸めたままだった。その手指が祈るように組み合わされるのを見て、ブルースは立ち上がった。
 見上げて来るカルの瞳は、額に落ちる前髪のせいか、いつもより少し暗い色をしている。その横にブルースは座り、細心の注意を込めて、丸まった背中に触れた。ほんの少し、カルが震える。
「大丈夫だ」
 出来るだけ力強く、そして真摯に聞こえるよう祈りながら、ブルースはカルに囁いた。
「お父上はきっと無事だ。そう信じよう」
「……」
 何かに躊躇っているように、カルはブルースを見つめた。曇った夏の空色をブルースはしっかり受け止める。やがてカルは小さく頷き、ああと答えた。
 僅かな振動が座席から伝わって来る。到着したらしい。カルの背中から手を離さずに、ブルースは装置の外へと降りた。
 注いでくる陽光は余りに強く、目眩がしそうなほどなのに、暑さを全く感じないのが奇妙だった。むしろブルースには薄ら寒いような気がした。
 慣れた手付きで、カルは水晶盤を操作する。やがてエレベーターの作動音が聞こえ始めた。開いた扉の中へ入ってから、ようやくブルースは手を離す。階数が表示されないエレベーターは、どこに視線を向ければ良いのか分からない。白い扉にずっと視線を注いだまま、2人は沈黙を守り続けた。
「バットマン」
 そうカルがブルースを呼んだのは、エレベーターの扉が開いた瞬間だった。
「何だ?」
「子どもの時、1度だけ反乱があった」
 靴音に溶けてしまいそうな小声に、ブルースは耳を傾ける。
「その時も父は議会に行っていて、反逆者達もそこに襲い掛かった」
 カルの白い長衣がふわりと揺れた。青い瞳が振り返る。
「良く覚えているよ。数日前に火に包まれた時よりも、その時の方がずっと怖く感じた。でも、今は――今の方が」
「カル」
 断ち切るようにブルースは呼び掛ける。しかし彼は首を振った。その目に宿った涙のせいで、青い瞳はいつもよりずっと輝いて見える。
「笑われるかもな。だが、怖いんだ。そして自分が情けない。僕は父に何も出来ないんだ、僕は」
「よせ、カル」
 ブルースはそう言って、カルの顔に手を伸ばした。薄く赤らんだ頬を撫で、癖の強い黒髪に指を滑らし、そっと肩口に引き寄せた。両親を失った頃の自分を、脳裏に思い浮かべて。
「まだ何も分からないんだ。そんな内から自分を責めてどうする?」
「だけど」
「良いから落ち着け。ジョー=エルが心配な気持ちは分かる。だが今はどうにもならない時なんだ、カル」
 肩口に近付いたカルの耳に、ブルースは言い聞かせ続けた。おずおずと、背中に大きな手が回るのを感じる。
「今は休んで、次の情報を待とう。本当に大変なのはそれからだ。その為にも英気を養え」
 ブルースの服をカルの手がぎゅっと掴む。
 しばらくの間、2人はそうして廊下に立ち尽くしていた。
 数秒、或いは数分の時が流れ去っていく。やがてカルの手が、ブルースから静かに離れた。何かを払うように首を振ってから、彼は数歩下がり、ブルースとの間に距離を生む。
「すまない。…少し混乱していた」
「気に病むな」
 もう1度ブルースは手を伸ばしかけたが、止めた。代わりに何事もなかったように居間へと歩いていく。少しだけ遅れて、カルが後に続いた。
 出迎えに来たケレックスに言い付けて、カルはニュースを入れさせる。しかし矢張りどの局も、「しばらくお待ち下さい」の立体文字のみだ。2人とも何も言わなかったが、ケレックスだけは「各局で故障でしょうか」と呟いた。
「局へ問い合わせてみま」
「不必要だ。下がっていろ」
 従順なドロイドは頷く。
「承知致しました。ですがカル=エル様」
「何だ?」
「バットマン様の衣類と装備一式が先程仕上がりました。お持ち致しましょうか?」
「頼む」
 そう答えたのはブルースだ。ケレックスは頷いたが、機械仕掛けの目はカルに当てたままである。彼が顎を引くと、恭しい一礼をしてから奥へと引っ込んでいった。
「早いな」
「…そうだな」
――煙幕は結局、無駄になったか。
 先日の徹夜を思い起こしたブルースは、僅かに空しさを覚えたが、それもケレックスの持って来たコスチュームで掻き消される。
 ケープの手触りも、ベルトの重みも、何ひとつオリジナルと寸分違わない。ベルトのポケットには、ジョー=エルに教えた通りの装備品が入っていた。威力は試してみなければ分からないが、煙幕弾や照明弾に付けていた蝙蝠の印まで再現されている事にブルースは感嘆する。
「着替えてくる」
 そう言って部屋へと足を進みかけた所で、ブルースはカルの物言いたげな視線に気付いた。
「どうかしたか?」
「いや」
 クラークのようにカルは口ごもる。宙に迷わせた視線をようやくブルースに据えると、彼は言った。
「君には、今の姿の方が似合う」
「…万が一の事態を考えると、慣れた格好の方が良いんだ」
 それまでの躊躇が嘘のように、きっぱりと言ったカルへ、ブルースは首を振った。でも、とカルは言いかけたが、聞こえない振りをして部屋のロックを開ける。なるべく自然な動作に見えるよう、気を付けながら。
――似合う、だと?
 ドアを閉めると、ブルースは黒い生地に手を這わせた。コスチュームをベッドの上に放り投げる。
「……まさか」
 小さく声に出してから、勢い良く上着を脱ぎ捨てる。たちまちベッドの上に黒い布の山が出来上がっていった。それと平行してコスチュームがベッドの上から消えていく。
 ベルトを締め、ブーツを履き、最後にマスクを被ると、安堵感が込み上げて来た。カルには悪いが、矢張り慣れた格好は良い。
 ブルースは体をあちこちに動かしていった。前のコスチュームとこれといった差は無い。使い込まれていない分、少しだけ体の動きが硬くなるものの、さして問題にならない程度だ。
――アルフレッドが知ったらさぞ驚くだろう。
 自身の技術に誇りを持っている彼の事だ。ここまで酷似した品を見れば、おそらく穏やかな心ではいられないだろう。気付かれない程度に、目を丸くするアルフレッドの顔を思い浮かべ、ブルースは微かに笑みを浮かべた。
 その時、僅かな振動が床に走った。
「……?」
 ただ1度で終わった地震とも付かない揺れだったが、ブルースはきつく眉を寄せる。無意識の内にベルトに手をやりながら、ドアに耳を押し当てた。カルが何かしたならば、異常は無い筈だ。取り越し苦労である事をブルースは祈った。
 ドアの向こう側から聞こえるのは、足音と声だった――カルのものではない、複数の。
――来た。
 誰が、とはブルースは思わなかった。議会であろうとゾッドの手勢であろうと、敵に変わりは無い。数瞬待って、敵の布陣を読み取ろうと考えたが、途端に背筋に悪寒が走った。
――居間にはまだ、カルがいる。
 迷う余地は与えられなかった。ドアを開くべく操作を行った瞬間、連続して銃声が轟く。無機質な咆哮に、両親の命を奪ったそれが脳裏で重なる。
 ドアの開く間ももどかしく、ブルースは居間へと飛び出した。
 ざっと8人。広場を占拠した者達に、更に銃弾ベストを加えたような重装備だ。そして男達の格好と共に、分断され火花を上げるケレックスの姿が、ブルースの視界に入る。
 最も早く身構えた敵2人には、手の中のバッタランを見舞った。当たったかどうか確かめる時間も、必要も無い。ブルースは床を立ち、敵の顔面に蹴りを食らわせた――と言うより、顔面を踏み付けた。マスクのゴーグルが派手に硝子を散らす。失明しなければ良いが。
――煙を。
 脳が命令するより早く、右手は煙幕弾を床に転がしていた。たちまち上がった白煙に敵が怯む。吹き出す煙に後ずさった1人を、ブルースは背後から捕まえ、キッチンに向けて放り投げた。これで残り半数だ。敵の視界はブルースと同じく、ゴーグルで防御されているかもしれないが、隠れる場所は出来た。
「動くな!」
 背後の声の持ち主には裏拳を加え、崩れ折ちた所に蹴りを一発。煙の中で動いた影に向けて、バッタランを2つ。ほぼ同時に、床に倒れる音が3つ響いた。
――あと1人。
「そこまでだ」
 銃を扱う際に零れる金属音は、まるで囁くような小ささだったが、死刑宣告には十分だろう。
 煙の向こうで、敵が銃を構えて立っている。マスクのゴーグルは薄い青に光っていて、自分のものと同じ機能がある事を、ブルースに知らせていた。
「ゾッドの手先か」
 油断を誘うべくブルースは尋ねる。問答無用で撃たれるかと思ったが、絶対的優位に立った男は頷いた。これならばまだ、勝機はある。
「今は、な」
 今、という部分に引っ掛かりを覚えながら、頓着せずブルースは質問を重ねた。
「何故ここへ?」
「エル家の人間を保護しろとの命令でな。大人しく同行するこった」
「“保護”だと?」
 わざとブルースは唇を吊り上げた。しかし男は挑発に乗ってこない。銃を構えたまま、肩を竦めてさえみせたのだ。
「危害は加えねぇ」
「それも今の内は、だろう?」
「かもな。…お喋りは終わりだぜ“ジョー=エルの息子”。とっとと付いて来な」
 どうやら男はブルースをカルと勘違いしているらしい。それならばカルが助かる機会はある。ブルースはあえて頷き、男に向かって一歩を踏み出し――男の背後に、カルの姿を認めた。
――出て来るな。
 だがその言葉を叫ばなかった意味は、無くなった。
「こいつ!」
 カルが勢い良く男の背中にぶつかった。装備の差こそあれ、体格的には彼の方が上だ。中背の男は激しくよろめいた。その拍子に発射された弾丸が、ブルースのすぐ横を飛んで行った。
「この――ガキが」
 素早く間合いを取った男が低い声で罵る。ブルースは飛んだ。しかし男の手に握り直された銃は、その口をしっかりとカルに向け、無慈悲な弾を吐き出した。
 広い肩が背後に揺れ、白い服にぽつりと赤い点が浮かぶ。
 見開かれた青い瞳が、マスク越しにブルースと視線を交わす。
 声にならない絶叫を上げ、ブルースは男に掴みかかった。

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