銃声も誰何の声も轟かない。ブルースの耳に届いたものは、自分が転がり出る音だけだった。たった一つのライトを受けるのは、座る者の無い椅子だけだ。まるでこれから舞台が始まるような光景に、ブルースは違和感を覚えたが、壁を背中にしてすぐ立ち上がった。
――罠か。
 僅かに身を揺るがした瞬間、無音の世界が断ち切られる。
「!」
 首を目指して飛んで来たそれを、ブルースは篭手で払い落とした。鋭い音を立ててそれは床に突き刺さる。何かの羽根を模したようなそれに、しかし目を向けている暇は無い。ブルースは腕を体の前で組んだ。そこに叩き付けられる、鋭い蹴り。
――手強い!
 骨の髄にまで響く手応えだ。篭手が無ければ今頃、腕は使い物にならなくなっていただろう。
 こちらのガードを見越しているかのように、何度も急所目掛けて蹴りや拳が放たれてくる。ブルースは壁が逆に邪魔する事を恐れて、横に飛んだ。僅か一瞬の遅れで相手も追ってくる。着地の隙を狙い、反撃の拳を繰り出したブルースを、しかし嘲笑うように相手は組んだ腕で受け止めた。タイヤを殴ったような鈍い感触に舌打ちする間もなく、ブルースの手首は相手の腕に絡め取られる。
――投げられる。
 相手の勢いを利用する武術は、ブルースも習った事がある。あえて逆らわず投げられた。そのまま床に激突するのを防ぐべく、右手を付き、猫のように1度回ってから着地する。
 だが軸足を中心に放った後ろ回し蹴りは、予想を違えて男の蹴りと相殺された。ブルースの狙いを読んだか、相手はすぐさま数歩飛び退る。それならばと取り出し放ったバッタランは、相手が放った物と激突し、中空で赤い火花を散らしただけだった。
 間合いを計り走り出せば、相手も同様に足を運ぶ。隙の無い動きにブルースは感嘆したが、奇妙な既視感をも味わい出していた。
――この走り方、この間合いの取り方。
 ライトが僅かに相手の姿を照らす。かなりの長身だ。恐らくは男。黒のヘルメットで顔は完全に覆われていた。同じく黒の装備は、エル家を襲った男の姿に良く似ていたが、ジャケットには灰色のラインが入っている。付けているベルトも鈍い黄色だ。
――どこかで見た事がある。
 速度も力も遜色無い。どちらの攻撃も等分に当たるが、決定打は出し切れぬまま、舞台の立ち回りのように戦いは続く。
――だが思い出せない。
 答えを見付けられぬ僅かな苛立ちが、注意力を奪ったのだろうか。相手が数歩退いたのに合わせ、ブルースは椅子を飛び越えようと身を乗り出し――上からの気配に息を呑んだ。
「っ!」
 しまった、と思うよりも早く、蝙蝠に網が降り注ぐ。中途半端な体勢も仇になった。網に足を取られ、ブルースはしたたかに椅子へと身を打ち付けてしまった。
「くそ……!」
「捕獲完了だ」
 音も無く、ブルースの横に2つの影が降り立った。網を切り裂こうとして取り出したバッタランを、片方が即座に奪い取る。片方が端の重石を巧みに動かし、ブルースの全身に網を巻き付けた。
「随分と掛かったじゃないか、ボス」
「見ていて冷や冷やしたよ」
 2つの影は、ブルースが戦っていた相手に向けてそう言った。思いがけず高い声だった。それに良く見ればどちらも随分と小柄だ。だが今のブルースに、2人の年齢を考えている暇は無い。
「無駄口は叩くな。それよりも」
 男が銀色の物をベルトから取り出す。ブルースの目には携帯電話のように映った。
「こちらB。侵入者の1人を捕らえた。N部隊は大会議室に入り」
 ちらりと男がブルースに視線をやった。
「博士の息子を捕獲に迎え。場所はこちらが指示する」
――まずい。
 隠し通路は見付かり、自分はこうして捕らえられている。せめてカルだけでも逃がさねばなるまい。ブルースは催涙ガスを取り出そうと、ベルトにそっと手を伸ばし――
「おっと」
 網の上から、手首を踏まれた。
「ったく、油断も隙もありゃしないな」
「どうするボス?」
「…気絶させておけ」
 了解、と言って小柄な内の片方が瓶を取り出す。
 吹き付けられた煙にブルースは息を止め、気絶した振りをしたが、相手は用心深かった。手に刺さる針の感触が、薬剤を打たれたのだと告げて来る。
 轟き始めた大勢の足音と、罵声を耳の奥に留めながら、ブルースの意識は闇の中に吸い込まれていった。



 遠くで鳴いているのは犬だろうか。
 瞼を伏せたまま、ブルースはぼんやりとケント家の犬を思い出し――次いで頬に走った痛みで、完全に覚醒する。
「このコスプレ野郎!」
「大丈夫かケン?!」
「信じられん!マスクからガスを出しやがったぜ、こいつ!!」
 良く聞けば、犬の鳴き声ではなく人の泣き声であったらしい。ひぃひぃと喚く声が引っ切り無しに上がっている。目を開けて視線だけを動かせば、右頬を誰かの靴が踏んでいた。どうやら自分は床に横たえられているようだ。後ろ手には手錠が掛けられている。
 靴が強く右頬を踏み回す。口の中を切らぬよう注意したが、既に唇の端が切れたらしく、錆の臭いが鼻をついた。
「おい、起きてんだろ!詫びのひとつでも入れたらどうなんだ?!」
――自業自得だ。
 マスクの機能を忠実に再現したジョー=エルに深い感謝の念を憶えながら、ブルースはあくまで気絶している振りを貫くと決めた。意図が通じたのか、足が頬から離れていく。次に衝撃が走ったのは鳩尾だったが、バットスーツと筋肉が力を吸収して痛みは無い。むしろ逆に、未熟な蹴り方をした相手が低く呻いた。
 しかしそれが悪かったのか。
「殺してやる!」
「畜生が!」
 激昂した声と共に、四方八方から足が飛んで来た。蹴りと言うよりは踏付けと言った方が相応しかろう。体重と怒りを乗せた足の裏は、下手な蹴りの数段は利いた。思わずブルースは呻き掛かったが、ここで反応を見せても助長させるだけだ。黙って耐える為に強く唇を噛むだけにする。
 頭から首を重点的に踏まれ、流石に反撃を考え始めた時、折り良く救いの手は現れた。
 …真に救いの手と呼べるかは、はなはだ疑問だったが。
「何やってんだ?お前ら」
「……ジャック」
 足の動きが止まる。ようやく堪えていた息を吐き出すと、ブルースは僅かに顔を上げた。同時に、部屋の間取りが見て取れる。暗く狭く、隅には小さな椅子が1つ置かれているだけだ。窓は無くドアは1つ。その向こうから注ぐ逆光を浴びて、痩せた男が1人、ドアのすぐ側に立っている。
「バイバイしちまうにはちょいと早いぜ」
「だ、だけどよ、ジャック。この野郎と来たらマスクにガスを仕込んでやがって」
「Bの奴も殺せとまでは言っちゃいねぇ。ボスの言う事はちゃんと聞きなさいって、ママに教わらなかったのか?」
 どうだいボーイズ?と言って男は両腕を広げた。渋々と言った様子で、ブルースの周囲に立つ男達は頷く。
「よし。そんな奴放っておいてよ、乾杯しに行こうぜ」
「乾杯?」
「物品が一通り集まったんで前祝の最中だ。Bも今日は煩く言わねぇだろう」
 男達は顔を見合わせたようだった。一斉に床を蹴って走り出す。しかしその後に、提唱者であるジャックは付いて行かない。
 やがてジャックはブルースの傍らに近付き、頭を爪先で小突いた。
「よお、“バットマン”だったっけか?良い格好じゃねぇか」
「……お前は」
 ジャックが屈み込んで来る。間近に迫った顔はかえって見辛いが、油を塗ったようにてらてらと輝く瞳は妙に印象に残った。だがそれよりも、声と口調がブルースの記憶を紡ぐ。
「エル家を襲った奴だな」
「その通りだ。――道案内させた挙句にぶちのめしやがって」
 細い指が唇の端に触れる。切れた箇所だとブルースが思うより早く、ジャックはそこへ抉るように力を込めた。鋭い痛みが走り、ブルースは眉を寄せる。
「あいつらを止めた理由が分かるか?」
「……」
 指の所為で口を開けない。また迂闊にそうすれば、何か拷問まがいの事をされそうだった。黙っているブルースへ、ジャックは満足気に笑う。
「決まってるだろ。俺のいない所で簡単に殺されちゃあつまらねぇからさ。え、分かるか?ええ?」
 唇の端を強く引っ張られる。傷口が更に裂ける痛みに、ブルースは矢張り黙って耐えた。
「つまり、お前はひでぇ方法で俺に殺されるって事だ。弄り殺しにも色んな方法があるからな。この星には楽しい玩具も一杯ある――」
 ようやく離れた指は、今度は愛しむかのように頬を撫でた。
「イイ方法が思い付くのを期待して待ってな、ベイビー」
 それまでは何としても生かしておいてやるぜ、と言い残し、ジャックは立ち上がる。痩せた影は振り返りもせず部屋を出て行くと――ドアを閉めた。
 暗闇の中、ブルースはほっと息を吐くと唇を舐めた。鉄の味がする。舌先の感触から考えて、少し腫れて来てもいるようだ。
――だが歯は折れていない。
 傷に関しては前向きに捉えるべきだろう。他にもさしたる異常は無い。ブルースはゆっくりと手指を伸ばした。ベルトが付けられたままなのを確認して、ポケットの1つに触れる。捕らえられた際の事を考え、ベルトの前、両横、後ろのそれぞれに1セットずつ、手錠を分解出来るような工具を分散させてあるのだ。指先から伝わる感触に、ひっそりとブルースは微笑んだ。
 手錠はやや固かったが、ゴッサム市警で使われている品と殆ど変わりなかった。数分後、かちりと音を立て、銀色の錠は口を開ける。
 いつもならば動きがあるまで、ここで待つ所だが、今日は少々時間が無い。それにジャックが「前祝」と言った所を思い出すに、警備は手薄な筈だ。この機会を逃す訳にもいかないだろう。ブルースは立ち上がってドアに耳を付けた。
――いるな。
 僅かながら見張りの気配がする。となればドアを開けてそっと出て行く手段は使えまい。しかしここが敵の本拠地であるとしたら、強行突破も得策ではない。ならばどうするか?
振り仰いだ先には、網で塞がれた通気口があった。



 狭さと暗さと息苦しさ、それにひっきり無しに鳴っている何かの稼動音には辟易するが、しかしゴッサムの下水道に比べれば大分ましと言うものだ。ソロモン・グランディと一緒に汚水塗れにされた事を思い出しながら、ブルースは通気口の中を這って行く。
「食料が……」
「だからその……は、先生に回して……」
「……すぐ……だ」
 時折聞えて来る話し声には、ジョー=エル達の情報が含まれていない。雑談や猥談の類に溜息を押し殺しながら、ブルースはなおも進む。
――カルは無事だろうか。
 ジョー=エルと一緒に、クリプトン崩壊の手伝いをさせられているかもしれない。あの気性だから散々に抵抗して、殴られてはいまいだろうか。恐らくジョー=エルが庇ってくれるだろうが、しかし相手は凶器を持っているのだ。もしや酷い怪我は――
「エル親子は?」
 はっとブルースは耳を済ませた。素早く、音を立てぬよう気を付けながら、近くの通気口に身を寄せる。網越しに覗き込んだ下は、想像と異なり廊下であった。2人の男が、ドアの前で立ち話をしているのだ。
 良く見れば片方は、先程――と言ってもどれ程前なのか分からない――ブルースと戦っていた男だ。ジャケットに付いた灰色のラインと、鈍い黄色のベルトがそれを示している。
「ご心配無く。将軍とこの中に」
「ご苦労」
 そう言うと男はドアの中へと入っていく。ブルースはすかさずその後を追い、這った。顔に掛かる蜘蛛の巣も気にならない。
 しかし先程ちらりと見えた廊下は、明らかにクリプトンの建造物とは様相を異にしていた。となればここは、クリプトンでは無いのだろうか。鳴り続けている稼動音が、ブルースの脳裏に、クリプトンの空を埋め尽くしたジャベリンセブンを思い出させる。
 だが巡らせていた推測は、続いて聞こえて来た声にぴたりと止む。
「将軍」
「来たか」
 鋼鉄の網越しに見えるのは、黒衣を纏う小柄な男だ。
――あれがゾッド将軍か。
「第3段階に入るまで、あと何時間必要だ?」
「4時間弱といった所だそうだ。もう少し経ったら再度軍部を脅しに掛かる。今度こそ全面的な解除に応じざるを得まい」
「足元に火が点く訳だからな」
 男が皮肉げに鼻を鳴らす。がたん、と部屋の奥で音がした。
「もう止せゾッド!」
 それがジョー=エルの声だと気付くまでに僅かな時間を要した。ブルースは彼の叫び声など聞いた事が無い。留めるように父上、という声がした。カルもいるのだろう。だがジョー=エルは息子に構わず、怒涛のように言葉を投げ付ける。
「第3段階に突入するだけでもマグマが吹き上がり兼ねん!クリプトン全土を火の海にするなど……無辜の民の命を犠牲にするなど、それでも君は誇り高き軍人なのか?!」
「黙れジョー=エル!民の洗脳の上で安穏と暮らして来た男が、今更私に口出しするつもりか!」
「……いい加減にして頂けないか」
 溜息交じりに男が呟く。その声で我に返ったのか、ジョー=エルもゾッドも口を噤んだ。が、ブルースから見えるゾッドの肩は随分と尖っていて、興奮から脱し切れていない事がありありと分かる。
「将軍、そろそろ軍部に連絡が付く頃だ。交渉を頼む」
「私に命令を?」
「まさか。“命令はゾッド将軍が下す事”――そうだろう?」
「……」
 一瞬だけ張り詰めた空気が漂う。しかしやがてゾッドは頷き、ドアの外へと消えて行った。ブルースもそっと身をずらす。僅かに遅れて、男が顔をこちらへと振り仰いだ。
「…気の所為か」
 出て行く男の背中にブルースは安堵した。男と入れ違いのように、武装した兵士が3人ばかり中へと入って来る。
――とにかく2人の居場所は分かった。
 次に見付けるべきものは出口。ブルースは再びそっと這い始めた。



 内部は予想以上に広かった。壁に手を付けて行けば出口も見付かるだろうと思ったのだが、そもそもその壁に行き当たらない。止むを得ずブルースは勘に従い、通気管の中を這い続ける。
――いっそ下で見て回った方が早いかもしれんな。
 見付かった場合の事を考えると得策では無かろう。しかしこのまま蠢くのも時間の無駄である。せめて位置把握の為に1度どこかの部屋で下りて、と考えていた時に、頃合い良く前方に通気口があった。
 覗いてみれば暗い。無人なのだろう。なるべく音を立てないよう気を付けながら、ブルースはそっと網を開き、身を躍らせた。
 ブーツの踵を鳴らす事無く着地してから、周囲を見渡す。マスクのスイッチを入れ、視界を確保した。
―― 誰かの部屋か?
 壁に貼られているのは、子どもっぽい絵柄のロケットが描かれたカレンダーだ。その下には木作りらしいタンスが置かれている。その上に乗っている幾つもの写真立てに、思わずブルースは目を走らせる。
 どうやら家族の写真らしい。嬰児を抱いて笑う夫婦の写真や、兄らしき少年に囲まれて笑う子どもの様子など、幸せさが伝わって来るような内容だ。それに背を向けた所で、ぱたんと小さくドアの開く音がした。
「……おじさん、だれ?」
――しまった。
 自分の判断ミスを呪いながら、ブルースは全身の血が引いていくのを感じていた。

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