7、8歳ごろだろうか。裾に皺が付いた寝間着や、あちこちに飛び跳ねている黒髪から、この部屋で眠っていたのだろうとブルースは推測した。しかし目は寝惚け眼などでは無く、驚愕に丸く見開かれている。
「……」
「……」
一歩踏み出すだけでも少年が泣き出しそうで、ブルースは完全に固まってしまう。少年はと言えば、矢張り少しばかり怖じた様子で、2歩ほど後ずさった。小さな背中にドアがぶつかる。
「…訓練なの?」
開いたままの通気口を見上げて、少年がそう問いかける。思わぬ単語に一瞬だけ躊躇うが、ブルースは首を振った。縦に。
「そうだ。部屋を……間違えたらしいが」
「だめだよ。ミスしたらすごく怒られるんだよ?」
背中をドアにくっ付けたまま、それでも大分安心したように少年は答える。むしろその目に浮かぶ真剣な表情に、ブルースの方がたじろぎ掛ける。
「…そうだな。出来れば、黙っていてはくれないか」
「…いいけど、でもおじさん、どこの部隊の人?」
「どこだと思う?」
つぶらな瞳がじっとブルースを見上げる。揺らぎの無い視線だ。不用意な言葉を口にすまいと思っているのか、柔らかな唇は固く結ばれている。
数瞬の後、少年は小さく呟いた。
「わかんない。ボスの部隊ににてるけど、あの人たちはミスなんてしないから」
「…痛い所を突かれたな」
そう答えてから、ブルースは踵を返し、通気口にグラップルガンを向けた。勢い良くワイヤーが放たれる。背後の子どもが、はっと息を飲む気配。
「私がここにいた事は、どうか誰にも話さないでくれ」
訝しいと思っているのか、眉間には皺が寄っている。だが少年は、静かに頷いてみせた。
「おじさんやっぱり、ボスの部隊の人なんでしょ?ばれたら悪いから、黙ってて」
あげる、と少年が言い終わる前に、ドアがノックされた。
「ティミー、まだ起きているのか?…誰と話しているんだ?」
「ぬいぐるみ相手に、またごっこ遊びでもしてるんだよ。……おいティミーボーイ。R部隊に入りたかったらな、早寝早起きしないと駄目だぞ!」
「わかってる!おやすみ!!」
少年が振り返って声を張り上げる。ドアの外では肩を竦める気配がした。それから、立ち去っていく2つの足音も。
それらが十分に遠ざかってから、先程よりも声を落として少年が言う。
「おじさん、ボスの部隊にいるんだ。すごいね」
「…そう凄くも無いさ」
ううん、と少年は首を振る。
「ぼくもおじさんやR部隊みたいに、ボスのところで戦いたいんだ。でもまだ小さいからむりだって言うんだよ。ぼくと同い年でも、もう戦ってる子がいるのに」
「戦う?」
「そうしなきゃ生きていけないじゃないか」
眉を寄せたブルースに、少年は無邪気な声で答える。いつか地球で見た、内戦地域の少年兵の姿が無意識に重なった。
サーカスのテントでしゃがみ込んだ少年の姿も。
路地裏に座り込む少年の姿も。
「ぼく父さんも母さんもいないから。自分の身は自分で守らなきゃ」
「……だが、守ってくれる人はいるのだろう?」
「うん、ボスが。でもいやなんだ。他の子はちゃんと自分で――」
「守ってくれる人がいる間は」
ブルースはそっと少年の前にしゃがみ込んだ。大きな青い瞳と目線を合わせる。
「守られている事だ。戦う時期は否応が無しにやって来る。だからそれまでは、守られているのが君の仕事だ」
「…仕事?」
「そう。無論、訓練は大事だろうが…精々ボスに守らせてやれ」
ふうん、と少年は唇を尖らせる。あどけない顔から紡がれる戦いへの言葉に、ブルースは彼らがどれ程過酷な生活を送って来たのか、垣間見た気がした。
――だがそれでも、止めなければ。
立ち上がったブルースを、不思議な物へと対する視線で少年は見つめていた。
「君に少し尋ねたいのだが」
「なに?」
「どうやら迷ってしまったらしい。…ここから最も近い、外への出口はどこに?」
見張りは1人。随分と手薄だ。矢張り例の“祝杯”が効いているのだろう。ブルースは廊下の影からうっそりと笑む。少年の部屋からここまで来る折も、誰1人にも会わなかった。
ジョー=エル達が閉じ込められていた部屋から、少年の部屋までの道は、ほぼ頭に叩き込んである。入り組んではいるが決して遠くない。ブルースは再び廊下の通気口を見上げると、そこへ向けてグラップルガンを発射した。
また狭い中に潜り込むのは辛かったが、背に腹は代えられない。それに上から奇襲する方が、騒がれる可能性を低くしてくれる。汚れたケープに閉口しつつも、ブルースは這いずっていった。
――残り4時間弱か。
ゾッドは今頃、クリプトンの軍部と交渉中なのだろう。議会と同じく、地殻変動装置を握られたのが、軍部にとっては痛手に違いあるまい。出来れば議会のメンバーも助け、装置の再設定をしたい所だが、敵の本拠にいる今そこまで遂行するのは不可能に近い。そもそもここがどこかすら分かっていないのだ。
ゾッドが戻って来ていれば、人質に取って形勢逆転も狙えるのだが。おそらく無理だ。舌打ちをブルースは堪え、代わりに下へと視線を向ける。もう少しだ。
しかしジョー=エル達のいる部屋に辿り着いた所で、ブルースは思わず凍り付く。
「さて、博士」
――あの男だ。
見下ろせば、間違いなく例の男がジョー=エルの前に立っていた。
「ひとつ伺いたいのだが、4時間経たぬ内に装置を動かせばどうなる?」
「…装置がプロテクトモードに入り、24時間は命令を聞かないように設定される」
「本当にそうかな?」
黒い手袋が机の上に、紙の束を放り出した。ジョー=エルの眉が強く寄せられる。
「私の部下が貴方の研究所から得た資料だ。これによると、4時間以内の操作は装置に過重負担となり、装置は熱で自壊してしまう」
「試作段階では確かに」
「誤魔化しは結構だ。操作して頂こう」
男が軽く手を振る。その背後にいた者達がジョー=エルを掴み、椅子から立たせた。
「父上に何を!」
「ご子息も連れて行け」
カルの叫びにも動じず男は命令を下す。ジョー=エルは身動ぎしたようだが、結局両脇から腕を取られ、引き摺られるようにして部屋を出て行った。その後にカルが続く。
――しまった。
どうしてこうも後手後手に回るのか。だが考えている暇は無い。危険を承知ですぐに助けるか、それとも――
ブルースの視界に、男の背後に従う最後の兵の姿が映った。
――これだ。
物音を立てずに網を開くと、ブルースはその兵の背後に降り立った。振り返りもしないその首を掴み、急所に拳を入れる。呻き声ひとつ上がらなかった。即座にジャケットやヘルメットを剥がし、それらを身に付ける。ドアを出ようとしている男は、未だに気付いていない。
「遅いぞ」
「はっ」
叱責に身を竦める真似をしながら、ブルースは変装術と手品の師匠達に、心の底から感謝した。
外へ出ると、白い人工灯が一行を照らした。そっと振り仰げば巨大な円形の屋根が見える。どうやら場所は、格納庫か何からしい。案の定スペースは巨大なジャベリンセブン型の船で埋まっている。一行の後に付き従いながらも、ブルースは周囲をそっと見渡した。
兵の影はあるが、まばらだ。しかし船の大きさを考えれば、内部には相当人数がいるのだろう。本来は攻撃用の船ながら、広さの拡張や移動範囲の拡大は、ある程度視野に入れて作ってある。適切な方法ならば決して難しくない。
この世界の自分か、或いはウェインエンタープライゼスの関係者が改造に改造を施したのだろう。それにしても量と規模が凄まじかった。僅かに圧倒されながら、ブルースは前方にいる男へと目を向ける――地球勢の、ボスと呼ばれる男に。
「乗れ」
男はそこだけ浮き上がって見える、例のクリプトン製移動装置に指を向けた。ブルースとカルが乗って来た物である。悔しそうに唇を噛んで、それでもカルは乗り込んだ。後にジョー=エルが続く。男達やブルースも続いた。
相変わらず快適な座席に腰を掛けると、すぐさま装置が動き出す。しかし今回は浮遊の感覚が余りしなかった。窓の外を見れば高度にさしたる変わりもない。
やがて行く手に壁が塞がる。ドロイドが何かのスイッチを押すと、そこは重たげな音を立てて開いた。たちまち赤い光が差し込んで来る。
「…癪に障る色だ」
そう、男が小さく呟くのをブルースの耳は捉えた。
言葉へ逆らうように装置は外へと飛び出した。思わず振り返った視界一杯に、白い塔が広がる。地面は遠くない。おそらく塔の中程にあった格納庫だったのだろう。見る見るそれは下がっていってしまう。高度が上がっているのだ。
やがて装置は塔の頂上部まで近付くと、そこから中へと入っていく。先だってブルース達が侵入した経路と同じだ。行き先も変わるまい。同じ場所に装置は着地する。
「降りろ」
男が短く命ずる。応じるように部下達がジョー=エルとカルを立ち上がらせた。肩を銃口で強く叩かれ、カルの眉が吊り上がる。
――もう少し我慢してくれ。
その願いが通じたか、カルはしかし、大人しく装置から降りる。ブルースはほっとした。ここで何かあっては堪らない。
歩きながら、逃れる隙は無いかと探る。しかし廊下の至る所に地球の兵達が立っており、なかなかカル達を助けられる機会が無い。自分はともかく彼らに何かあってはと思うと、慎重にならざるを得ないと言うのに、集中砲火を簡単に受けそうな警備体勢だった。
――どこかに着いてからが勝負だな。
それに賭けざるを得ない自分に、ブルースはヘルメットの奥で苦笑を噛み締めた。これがクラークであれば、捕まる事なくあっさりと彼らを打破出来ただろうに。
――止せ。
無駄な矜持は捨てねばならない。自分に何度も言い聞かせた事を、再び繰り返す。
奥歯を噛み締めたブルースは、どこまでも白い廊下と壁を見つめた。
照明を落とした廊下はどこまでも暗く、蝙蝠の巣穴を思い起こさせた。口元に苦笑が滲む。明るいのはこの要塞であった筈なのに。
部屋に入った途端、ブーツの爪先が何かを弾いた。乾いた音を立てて飛んでいくそれを、屈んで取り上げる気力も起きない。見なくても分かる。片っ端から調べて作り上げた、空間移転装置や転送機の残骸だ。役に立たない品々は、或いは焼かれ、或いは潰され、今はただ部屋に無機質な体を横たえている。
ただ1つ部屋の中で起動している、リモコン型の装置に向き直る。
反応は――無しだ。
「……」
大きな手が拳を形作る。どの敵と対峙した際よりも強い力がそこには篭った。
やがて食いしばった歯の間から、傷付いた獣のような呻きが漏れ始める。やがて青い暗闇に包まれていた部屋が、炎渦巻く茜色の光に照らされ始めた。
高ぶる感情に合わせて輝き始めた目は、震える手で押さえ付けられた。瞳から吐き出される高温は、要塞さえも破壊するだろう。そうならぬよう手は懸命に凶暴な衝動を押さえる。
茜色の光が薄らぎ始めると共に、部屋の隅から青い暗闇が甦っていく。彼が好んだその色に包まれながら、クラークは力無く手を下ろした。
「ブルース……」
頬から顎へと伝う生温かいものを、拭う事もせずに、ただ1人呟く。
「…どこにいるんだ?」
周囲にたゆたう闇がその答えだった。
「何故、博士をここに?」
針ひとつ落としても銃撃戦が始まりそうな空気だった。
ゾッドと同じような衣類に身を包んだ、短い黒髪の女が腕を組んで扉の前に立ちはだかっている。その横では同じ衣服を着た大男が無言で立っていた。そこから少し離れた場所にも、同様の姿をした者達が5名ほど、銃を片手に待機している。
「襲撃して来た連中は捕まえた。博士はここに戻した方が便利だ」
「将軍からそのような話は受けていない」
先程の大会議室を通り過ぎた時に、行く手に突如として彼女達が現れたのだ。おそらくゾッドの指揮下にあるのだろう。地球人の兵達がこぞって敵意を投げ付けているのは、ブルースにも感じ取れた。
ジョー=エルとカルには、余計な事を言うなとばかりに銃口が当てられている。それさえどうにかしてしまえば、この状況を上手く使う事が出来そうだ。
「どのみち彼らはこちらに移すと決めていたのだ。将軍にも異論はあるまい」
「将軍から直接ご命令を頂いてから決める。使いを出そう」
「現在は交渉中の筈だろう。何時間待たせるつもりだ?」
「クリプトンが崩壊するまでには帰って来る」
女が笑う。美しい顔立ちをしているのだが、陶器のように白い肌の所為なのか、はたまた口調の所為なのか、どこか冷え冷えとして見える。彼女の笑いに周囲の殺気がぐんと強まった。
「何を焦っている、地球人?たかが博士の場所の移動。待てば良いものを」
クリプトン人達も顔を見合わせて笑った。誰かが銃を持ち直す音が甲高く響く。
「ボス、こいつら――」
「黙れ」
何か言いかけた兵の1人に、男はそう答えた。渋々と兵が顔を頷かせる。
「地殻安定器を手っ取り早く破壊する方法が見付かった、と言っても、そこをどかないつもりか?」
「命令は全てゾッド将軍が下す」
誇らしげに女は言った。
「お前の命令に従うつもりはない」
「我々も」
男がゆっくりと片手を動かす。女からは見えない位置だ。兵達の間にぴりりと緊張が走る。ブルースは悟った――戦うつもりだと。
「お前達の主の命令に従うつもりは無い。……作戦開始」
最後の言葉を男が終えるより早く、ブルースの横にいた兵が、銃の引き金を引いた。
続けて放たれた何発もの弾丸が、白い壁と扉に食い込み、或いは跳ね返される。だが女達は素早く身を退けたらしい。誰かに一発も当たる事が無いまま、銃の音は消える。そしてその次に、クリプトニアンと地球人が一斉に放つ銃声が轟いた。
「散れ!」
男が叫ぶと共に、兵達は蜘蛛の子が逃げるように散開する。ブルースも遅れまじと廊下の角に飛んだ。同じくクリプトニアン達も退いたのか、黒い衣服がちらりと見える程度だ。そして断続的に響く、銃の咆哮。
ブルースは視線を動かした。廊下の向かい側で、エル父子が5人ほどの地球兵に守られている。彼らの注意はクリプトニアン達に注がれ、ブルースを見つめる者は誰もいない。
――機会到来だ。
「おい何をしている?!とっとと撃て!撃て!撃ちまく」
全て言わせず、ブルースは横の男の喉へと裏拳を叩き込んだ。げふ、と息の詰まる音と、倒れ込んだ音が間近で聞こえる。
命を奪う一撃が、何度も何度も目前を行き交っていく。飛び出せば蜂の巣は確定だろう。
だがこんな状況には慣れ切っている。特に、銃撃戦の呼吸には。
必要なのは2秒。その一瞬の間隙を狙い、ブルースは真向かいへと跳躍した。
ブーツの底を銃弾が擦れる。伸ばした腕の真横を弾丸が走る。だが、血の一滴も失わないまま、ブルースは唖然と見上げる地球兵達の頭上に着地した。
「な、何を!!」
近過ぎて銃は撃てない。他の場所にいる連中もこちら側を見る余裕など無い。揉みくちゃにされながら、ブルースは掴み取ろうとする手を踏み、急所を殴り、蹴飛ばした。
頭の上でダンスを踊られたようなものだったろう。上からの襲撃に備えていなかった彼らは、次々に呻き声を上げて床に突っ伏した。
「君は、一体……」
「すまない、2人とも」
口と目を開いたエル父子に向かい、ブルースはヘルメットを取り、着ていたと言うよりも被っていた装備を勢い良く脱いだ。ポケットの無いベルトや、無骨な音を立てるズボンが、倒れた兵達を優しく覆っていく。
「遅くなった」
最後のジャケットを払い捨てれば、蝙蝠の翼が翻る。
「――バットマン」
意図せずして揃った2つの声に、闇夜の騎士は微笑した。