この世界に来てから、美しいと思った事は何度あっただろうか。
白一色に染め上げられた星にも、紅蓮に燃える太陽にも、感嘆を覚える事は無かった。例外とも言える空の色とて、どちらかと言えば美への感動よりも郷愁をかき立てた。
だが今、ブルースは紛れも無く美しいと断言出来るものに出会っていた。
ピアノやハープに酷似した繊細な音が、ジョー=エルが球体を弾く度に紡がれる。低く高く流れるゆったりとした旋律には、時として水晶の澄んだ音が混じった。ドームの天井に木霊して消える余韻は、さながら教会で捧げられる祈りの歌にも似て、ひどく荘厳だ。
許されるならば時間を忘れて聞き入っていただろう。だが今は一刻を争う時であり、そしてその旋律は惑星を救う為の操作である。陶然としている暇は無い。崩壊を回避する為の曲を背後に、ブルースはカルと共に緊急脱出用ポッドの設定に追われていた。
「到着場所はどこに?」
「キャンダー。叔父夫婦や従妹が住んでいる。…今は、母も」
妻は弟夫婦の元に滞在する、とジョー=エルが言っていたのは、彼らの事だろう。ブルースを厭うて出て行った彼女が、再び自分を見てどう反応するのか。しかも今度は逃亡者としてだ。余りぞっとしない。
「心配しないでくれ。ゾー=エルは良い人だ。間違っても通報される事は無い」
「…そちらはそう心配していない」
「母だって、君が僕達を助けたと知ったら考えを変える」
データ入力を終えたカルが薄く微笑む。照れている折のクラークも、良く似た表情をして見せたものだ。
「そうか」
「そうさ。僕が良い例だ」
ぴぴ、とデータ入力完了の電子音が発せられる。屈み込んでいたカルは立ち上がり、ブルースに手を差し伸べた。背後の水晶に照らされた姿はひどく眩しくて、手を取るのが少し躊躇われた。
「無事にキャンダーへ着いたら」
先にカルの手がブルースの手を握った。引き寄せる力はあちら側の彼に比べて小さいが、それでも十分に強く、温かだ。
「今度こそ、君の本名を教えてくれ」
「……分かった」
悪戯っぽく光る青い瞳に、ブルースが頷いたその瞬間。
地面が揺れた。それと共に微かに響き渡るのは爆発音だ。
「ジョー=エル!」
「分かっている!もう少しだ!」
ブルースの叫びに答えながら、ジョー=エルは球体を指先で弾いていく。青かったそれはいつの間にか赤紫へと様を変えていた。良く見れば水晶の中心も、僅かながら同じ色に光っている。
「カル、ポッドの中に入っていろ」
「君も一緒に」
「言っても無駄だと知っているだろう」
そう言ってブルースはベルトに手を当て、残り少なくなったバッタランを数える。同時に、突入時に使われるだろう煙幕と催涙弾へと備えて、マスクと連動しているスイッチを入れた。視界のモードが切り替わる。
「安心しろ。時間を稼いたらすぐに入る」
「…僕に何か役立てる事は?」
「今は無いな。…お父上を守ってくれ」
肩を押しやれば、カルは視線をさ迷わせた後に従った。その背中を追うようにもう1度音が轟く。ロックされてある扉が揺らいだ。もう1度の爆発に耐えられるか否か。
「時間が無いぞ、ジョー=エル」
「君もポッドの中に入りたまえ。あと2回で……!」
ばらん、と一際豊かな旋律が部屋を震わせた。球体の色が紅色に燃え上がる。
「良し!」
ジョー=エルの手が、最後に球体に触れる直前――轟音と爆風が部屋の中に吹き込んだ。
「っ!!」
「危ない!」
砕け散った扉の破片が、ブルースの伸ばした手をかわし、ジョー=エルの膝に直撃した。その衝撃と爆風で、ジョー=エルは床へと倒れ込む。やがて灰色の煙が、風に伴われて一斉に吹き込み始めた。
ブルースはジョー=エルを抱え起こしポッドへと運んだ。入り口を開けたカルに気絶した父を渡す。
「カル、操作出来るか?!」
「時間は多少掛かるが、何とか!」
「ならば急いで――」
だが振り返った目に球体は映らない。
「あそこだ!」
床に転がった赤い球体目掛けて、制止する間も無くカルは駆け出した。ジョー=エルが横たわるポッドの入り口を施錠してから、ブルースも走る。
視界の横にちらりと過ぎった物を、何かと認識する前に、ブルースは追い付いたカルの背中を床に押し倒した。2人を追いかけるように、頭上を弾丸が飛んでいく。
「お出ましか。装置は?」
「手にする前に君が押し倒したんだ!」
「…それは悪かった」
マスクのモード切替のお蔭で、煙幕に包まれていても視界はクリアだ。だがそれは相手方にとっても同じだろう。再び転がっていった球体へとブルースは走る。後から腰を屈めたカルも追って来た。
燃え上がるように鮮やかな球体を持ち上げようとした瞬間、灰色の煙を破るようにして、眼前に靴底が現れた。咄嗟に上体を反らしてブルースは靴をかわす。
「手間を」
王の出御を迎えた臣下のように、煙幕が左右へさっと引いていく。現れた黒いヘルメットに、球体の赤い光が朧に反射した。
「掛けさせてくれる」
だがブルースには当然ながら、臣下の如く引く気など毛頭無い。
「カル、装置を取れ!」
そう叫びながらブルースは踏み込み、渾身の力を込めて男に拳を食らわせた。直撃したヘルメットのシールド部分にひびが入る。男が一瞬揺らいだ隙を逃さず、もう一撃、今度は腹に叩き込んだ。ほぼ同時に、カルが球体を拾い上げる。
しかしその頭に、銃把を叩き付けようとする兵の姿もまた、ブルースの視界に映り込んでいた。握っていた拳を開き、ベルトへ向けると、麻酔入りのバッタランを投げる。手首に当たって悶絶した男が、そのまましゃがみ込んでいるカルの上に倒れ込んだ。
「余裕だな」
囁きよりも早く、手首を掴まれた事が、ブルースに失態を悟らせた。突き破らんばかりの膝蹴りが腹に入る。身構えるのがもう少し遅ければ、確実に内臓を痛めていた。もう一撃同じ箇所に膝が入る。痛みと言うよりも重たい衝撃が走った。
「仲間よりも自分を心配した方が良い」
手首を軸にして今度は投げられる。しかしブルースはそれに逆らわず、男の腕を逆に掴む。男が均衡を崩したのを受け、手を振り払った。軽いが鋭い蹴りを脇腹に突き込んでから飛び退り、カルへと視線を向ける。ようやく圧し掛かっていた兵をどけたらしいが、しかしその手に球形は無い。
「あそこに!」
カルが示した方向で、球形は乱闘も我知らぬ顔のまま転がっている。その先にいる兵達3人に向けて、ブルースは最後のバッタランを放った。だが球形を手に取ると、再び頭上や足元を銃弾が掠めていく。逃すな、という叫び声も聞こえた。
足音と銃声で満たされて、ほんの数分前までの荘厳な空気はすっかりと消えている。兵で充満した部屋を素早く見渡しつつ、ブルースはカルに尋ねた。
「装置のスペアは?」
「無い」
「遠隔操作は?」
「このタワー内なら可能だ」
「分かった。ポッドは頑丈だろうな」
「ああ。ミサイルの直撃を受けても壊れない」
「なら――部屋の外へ!」
球体を持ったまま、ブルースは手薄になっている扉へと走った。すぐ後ろをカルが追い掛けて来る。兵が銃を構える前に、勢いを付けて体当たりし、道を切り開いた。
――まるでアメフトだな。
薄っすらと苦笑しながら、ブルースは再び白い迷宮のような廊下へと足を踏み出した。
「おいジャック、まさか、あいつ」
「……信じられねぇ」
白い廊下を抜けた眼前を、黒い影が過ぎった。
「Bの奴、2度も逃したってのか?こいつは傑作だぜ!」
「で、俺達はどうする?」
「決まってんだろ」
追うぜ、と部下達に言うと、真っ先に廊下を駆け出した。煙を上げている大きな扉からも、何人も同僚達が飛び出していく。だが。
「お前達は中で将軍を見ていろ!私が追う!」
その声にはたと周囲は動きを止める。やがて声の主が、立ち止まった彼らの間を縫うようにして走り去っていった。
「…張り切りやがって、お坊ちゃまが」
吐き捨てるように呟く。命令に従って走るのを止めるつもりはない。
「ジャック?」
「お前らはクリプトニアンのお相手でもしてな!」
あの蝙蝠は己の獲物なのだから。
緊急脱出用ポッドの錠は固い。どれほど銃を撃ち、殴り叩いても、僅かな傷が付く程度だ。小型爆弾も役には立たない。しかし中で失神しているジョー=エルの姿が、悪戯に焦りを駆り立てているようだった。
「惑星で最も重要な機関に設置された代物だ。無理もなかろう」
悠長な、と作業に従事している1人が呟いた。だがその声も無視して、ポッドの窓に手を滑らせる。
宇宙空間で異なる時を過ごした自分と異なり、中で眠るかつての親友はすっかり老けていた。それでも内面に大きな変わりは無いのだろう。声を荒げ、必死で自分を押し留めようとした所は、数十年の昔と同じだった。
自分はすっかり変わった。どこまでも軍人たらんとして、議会からの流刑にも等しい命令を甘んじて受けたあの日とは、もう別人も同然ではないのか。クリプトンに帰る為に、地球人を騙し手を組み、仮とは言え惑星の崩壊を目論むなど――あの日の己には有り得ない事だった。
「…諦めれば良いものを」
だがジョー=エルは、目を覚ませば昔と同じように自分を説得するのだろう。決して諦めないに違い無い。
それが少しばかり自分の願望も混じっているのだと、薄々感付きながらも、ゾッドは瞼を伏せる。
俯いたその視界に、背後から狙う銃口が映る訳も無かった。
「多少時間を稼げるドアがあればどこでも良い!」
「分かった、こちらへ!」
カルの手が廊下の一角に触れる。鈍い音を立て、もどかしい程ゆっくりとそこは口を開けた。滑り込むようにして中へ入ると、そこには足場が無かった。
「気を付けて!」
カルの手と、側にあった手すりにしがみ付き、ブルースは体勢を立て直した。珍しく淡い灯りが足元を照らす――下へと続く階段を。
「降りよう。ここならロックも固い」
「ああ」
球体を持ちながらブルースはカルの後に続く。階段は思いの他短く、すぐに床へと着いた。途端にブルースの耳へと水音が届く。
「ここは……?」
「廃液場なんだ。だからタワーのあちこちに繋がっている。勿論、外にも」
「気が回るな」
「近くて良かった」
角を曲がれば、水音が何かすぐ分かった。天井にまで張り巡らされたパイプ口から、壁に沿って廃液の滝が流れているのだ。青く薄暗い灯りに照らされた風景は、どこかケイブに近しい。
「装置を」
「ああ」
手渡した赤い球体を、カルはしきりに撫で回している。何か操作方法があるとは思えない、つるんとした表面の球体なのが、ブルースには少しく不安だった。
「気を付けてくれ。廃液分解用の薬剤も流れているから、触れれば命取りになる」
「分かった」
臭いが無いのはその所為なのだろう。納得したブルースの耳に、あの美しい旋律が木霊する。しかし、球体は赤から赤紫へと変化していた。
「…大丈夫なのか?」
「時間が掛かると言っただろう」
もしかして最初から、なのだろうか。不安になったが待つしかない。ブルースはベルトを探った。煙幕と発光弾は残っているが、バッタランはあと1つだけだ。だがこの空間なら、発光弾も十分に有効だろう。暗視モードに入っている目を惑わすには丁度良い。
折り良くと言うべきか、上の方で爆音が轟いた。
「カル、もう少し奥で作業をしてくれるか」
「…分かった。バットマン」
「何だ?」
「気を付けて」
「ああ」
もう1度の爆音。発光弾をブルースはベルトから引き抜いた。カルが球体を抱えて奥へと走る。
「精々、気を付けるさ」
予期していた足音は聞こえなかった。代わりにほんの僅かな、何かを引き抜く音が耳に届く。ブルースは応じるようにして発光弾のスイッチを引き抜き、数秒待ってから投げた。ほぼ同時に、階段から転がる小さな物。
2つの発光弾が周囲を純白に染め上げる。が、既に視界のモードを切り替えていたブルースにとって、それは問題ではない。相手もブルースが動かない事でそれを知ったのか、仕掛けて来なかった。
やがて白い世界が引き、再び青と暗闇の世界が訪れる。
「…1人か」
「ああ」
ようやく階段の影から男が現れる。ブルースと同じく、闇に溶け込む姿を持った男が。
「装置を手にした所で、お前達に出来る事はロックを掛ける程度だろう。それよりも」
どちらともなく拳を握った。
「ここまで逃げ回ってくれた礼は、1人でしたい」
「…馬鹿な男だ」
人海戦術に出れば、ブルース達に逃げられる余裕は無いと言うのに。
「地球人達のリーダーなのだろう?お前が消えれば残りは」
「後継者は2人ほどいる。烏合の衆ではあるが」
滝の音とヘルメットでくぐもった声が、それでも鮮やかに響き渡った。
「惑星ひとつ滅ぼすには十分な人数だ」
無音で間合いへと踏み込んで来た力量に感嘆しながら、ブルースは拳を受け止めた。
骨と骨のぶつかり合う音が、水音に混ざっては消えていく。音の余韻は鈍い痛みと衝撃だ。空気をつんざく蹴りが、互いの腿や腕に激突する。
腕と腕が組み合った瞬間を狙い、ブルースは男を高々と滝へ向かって投げ飛ばした。だが男は冷静に、天井のパイプへと何かを伸ばした。それはパイプに絡み付き、男の体を宙で支える。
――ワイヤーか。
細い紐1つで体を支えながら、男は再び床へと降り立った。呼吸よりもひそやかに。
その動作が、ブルースの心にある事を告げる。
――ジャベリンセブン。
――見た事のある動き。
――“B”。
数々の符丁が静かに組み合わさり、やがて見事に完成した。何故、今まで気付かなかったのか。それらの全てを身に持ち合わせる人物と言えば、ただ1人。
ブルースは同じようにグラップルガンを使い、ワイヤーを天井へと飛ばした。それで虚空に浮き上がりながら、反動を付け、男のヘルメット目掛けて蹴りを飛ばす。同様にワイヤーを使われると思っていなかったのか、男はあっさりとその蹴りを受けた。
遥か後方へと、衝撃で飛んだヘルメットが転がっていく。かつん、かつん、と空ろな声を上げて。
「っ……!」
青い光に浮かび上がるのは、敵愾心と報復に燃える相貌。怒りに駆り立てられたその顔は、疑いようが無いものだった。
「……ブルース・ウェイン」
己の、そして男のものでもある名前を、ブルースは紡いだ。