何故その名を知っているのか。
 何故そんなに暗い声をしているのか。
 何故、何故、何故――。
 だが心を疑問符で占めさせている余裕は無い。眼前の男を倒さねばならない。犠牲になった者達の為にも、倒して装置を奪い、この星を壊すのだ。
 頭部に受けた衝撃で、未だに膝が泳いでいる。それでも再び拳を構えた。マスクを付けた黒ずくめの男。自分の戦闘装備とどこか似た姿に向けて。
「……もう止せ」
 伸びた脚が胸板に入った。力自体は大した事の無い蹴りだと言うのに、膝は体重と衝撃を支え切れずに揺らぐ。肩を押されるともう駄目だった。視界が回り、パイプの張り巡らされた天井が目に入る。
やがて背中に床の冷たさが伝わった。



 倒れ込んだ己と同じ顔をした男に、ブルースは取り出したバットカフスを嵌めようと身を屈める。
 しかしその頬を、鋭い刃が切り裂いた。黒く塗られた、蝙蝠を模っている刃が薄明かりに煌く。
「近寄るな!」
 叫ぶ声も余りに近しい。バッタランに酷似した武器を、ブルースは篭手で弾き飛ばした。
「これ以上悲劇を重ねるつもりか?」
「お前に何が分かる……!」
 手首を掴めば脛を蹴り払われた。ヘルメットの衝撃が未だに尾を引いているのだと分かる、悲しいまでに微力な抵抗。ブルースは手首を離さなかったが、こちらを見据える青い瞳を、愚かだと笑うつもりもなかった。
「私に分かるのは、お前が奪い取られた物を、同じ方法で奪おうとしている事だけだ」
「それがこの星に下されるべき裁きだ」
 後ろ手にカフスを掛けられながら、もう1人のブルースは言い募る。
「我々の故郷を奪った者から、故郷を奪って何故悪い?!」
「人が死ぬ」
「地球人も死んだ」
「そうだ。だがお前達はまだ、止まる事が出来る」
 執拗に飛んで来た足払いをかわしながら、ブルースは己に向かって言葉を紡いでいく。
「船の中で少年を見た」
 訝しげに眉が寄せられる。男の動きが止まった。
「彼はお前のように自分も戦いたいと言ったよ。自分の身は自分で守らねばならないと――まだ7、8歳ほどの少年がだ」
「……私がそうだった」
「ならば教えてくれ、ブルース・ウェイン」
 もう1人の自分。
 両親のみならず、故郷も奪われた己。
 説得よりも有無を言わさぬ捕獲が十八番だった。だが今、この相手に対しては、言わねば済まぬ事がある。
「お前はそれを喜んだか?武器を手にして戦えと、そう子ども達に教えた時に、お前は何を感じた?私が彼の言葉を聞いてどう感じたか教えよう。虚無と罪悪感と、悲しみだ」
 かつて世界を流浪していた頃の自分と、そっくりそのままな目が見上げて来る。数多の激情に襲われ、暗く鋭い光を宿した目が。
「お前はそんな子どもを増やそうとしている。いや、彼らの命さえも奪い取る所業だ。私はどちらにとっても部外者だが、そんな事を見過ごすつもりは無い」
「お前にそんな資格は!」
「ある!」
 ブルースは言い切った。きつい視線をあえて真っ向から浴びた。
「人死にはもう、沢山だ。……そうでは無いのか?」
「だが連中は今も、我々を踏み付けにしたまま生き続けているのだぞ……!」
 許す事など出来ない、と彼は続ける。ふと背後から近寄る足音が聞こえた。
「1度で良い」
 カルの声だ。
「1度で良いんだ。だからどうか、償う機会を与えてくれないか?」
 ブルースの横にカルが屈み込む。同じ容貌を見て僅かにその視線は戸惑うが、しかし躊躇う事も怖じる事もなく、彼はもう1人のブルースと目を合わせた。
「何かに代えられる事ではないと分かっている。君達を蛮族と呼んで、無かった事にしたまま暮らしている者も大勢いる。現に僕がそうだった」
 だが、と言うように、カルはブルースを横目で見やった。
「それでも父やかつてのゾッド将軍のように、君達へした事を悔いている者がいるんだ。理解して欲しいなどと言えない事は知っている。だが、せめて――1度だけでも、君達へ償う機会を与えて欲しいんだ。この星にいる全ての人間を、敵として殺してしまう前に」
 カルが手にしていた球体を傍らへと置く。クリプトンの夕暮れ色が、3人の顔を朧に照らした。
「…バットマン、彼の手錠を解いてくれ」
「情けを掛けるつもりか?」
 横たわったまま嘲笑うもう1人のブルースに、カルは静かに首を振った。
「違う。僕達は対等な存在として話し合う必要があるからだ」
「……」
 ブルースはカフスの錠に鍵を差し込んだ。警戒はしたまま、ゆっくり鍵を回していく。
 しかし錠の解ける音より早く、一発の銃声が周囲を劈いた。
「伏せろ!」
 咄嗟にカルの頭を床へと押しながら、ブルースは銃声の聞こえた方向へと頭を巡らせ――舌打ちした。
「大したご演説じゃねぇか。なあ、ボス?」
「ジャック……」
 黒いヘルメットを被った痩せた男が、片手の銃を閃かせながらこちらへと歩んでいた。



 どうしても動かなかった緊急脱出用ポッドのドアが、中から開かれる。
「早く!」
 驚く間もなくゾッドは伸びた手に引き入れられ、内部へと転ぶように入っていた。
「どう言うつもりだ、ジョー=エル!」
「良く見て」
 見てみろとジョー=エルが言い終わるより早く、ポッドの扉が鈍い音を立てた。ゾッドが振り返ると、銃を構えた兵が1人、何やら悪罵を吐いている。
「…もう少しで撃たれる所だったぞ」
 ほっとジョー=エルが安堵の息を吐く。そこへ地球兵数人がポッドに群がり、一斉に銃を構えた。がががが、と続けて響く銃弾は、しかしポッドに僅かながらめり込むに過ぎないようだ。
「裏切ったな!」
 飛び出そうとしたゾッドを、ジョー=エルが押し留める。
「待つんだ!」
「私に命令をするなジョー=エル!」
「死ぬつもりなのか?!良いから待て!」
 声を荒げられ、ようやくゾッドは頭を冷やした。浮き掛けていた腰を座席に沈める。
「…お前に助けられるとは、何と言う様だ」
「頭に血が上り易いのは相変わらずなようだな」
「お前もそうだろう」
 ふっと小さくジョー=エルは笑う。こちらも相変わらぬ様子に、ゾッドはきつく眉を寄せた。
「以前は」
 ジョー=エルが口火を切った。
「この星を壊すつもりは無いと言っていたが、今はどうなのだ?」
「……予定も希望も無い。軍部を解体して議会を解散すれば、それで矛を収めるつもりだった」
「ならば君も裏切っていたのだろう、彼らを」
 取り囲む黒いヘルメットをジョー=エルは指し示す。そちらに顔を向けず、ゾッドはブーツの爪先ばかりを見つめていた。
「君らしくもない策謀振りだ」
「そうでもしなければ、クリプトンには戻れなかった」
 座席に深く腰を沈める。宇宙でぼろぼろになった船の座席とは大違いだ。
「私は宇宙の塵になっても構わん。だが、部下達は……」
「…彼らに出会ったのはいつだね?」
「半年ばかり前だ。…尋問するつもりか?エル博士」
 ゾッドに向かい、ジョー=エルは真摯に首を振る。
「気に障ったならばすまない。だが私は知りたいのだ」
「学術的好奇心と言うやつか」
「いいや違う。君がこの数十年、どのようにして生きて来たかを知りたいのだ」
 ふとゾッドは口を噤む。重たい銃声ばかりが2人を包み込んだ。
「…さして以前と変わらん」
 戦う相手が反政府組織ではなく、異星人であると言うだけの話だ。強盗のような連中から、物資を高く売り付けようとする者、クリプトニアンと聞いただけで殺そうとして来た者もいた。
 飢えと仲間の死と流浪の苦しみを支え続けたのは、恨みとそして、責任感だった。クリプトン議会に対する、そして部下に対する責任。
「お前が星を守ろうとするように、私にも守るべき者達がいた。そう言う事だ」
「どちらも守れる道はある筈だ、ゾッド」
 ジョー=エルの暖かな手が、不意にゾッドの手を掴む。振り払おうとする力を、ジョー=エルは許さなかった。
「今度こそ、私は君の手を離さない。議会に何を言われようとも」
「止せ」
「断る。私はもう、悔いで作られた平穏の中に生きたくは無い。君を止め、星の崩壊を止め、そして議会の独裁も止める」
「自分までファントムゾーンに入る気か?」
 見開かれたジョー=エルの目に、痛みと満足がゾッドの心を走った。
「地球勢から知らされた。お前のデータを見たよ。私を閉じ込める異空間を作っていたのだろう」
 するりと手を離す。ジョー=エルは追って来ない。それで良い。
「構わん。作戦が失敗すれば、甘んじてその罰を受けよう。私は孤独など恐れない。お前と違ってな」
 見上げれば地球勢はどこかへ消えている。逃げるならばこの隙だろう。ゾッドは軽く腰を上げた。
「さらばだジョー=エル。どちらが勝っても、今度会うのは裁きの場だ」
「……いいや、ゾッド」
 服の裾を掴まれた。なし崩しに腰を下ろすと、再び手を握られる。先程よりもずっと強い力だった。
「私が議会の依頼を受けた理由は、君が言った通りだ。私は孤独が恐ろしい。だから」
 そこで唇が綻ぶ。普段は大人然としているジョー=エルが、子どもじみた稚気を見せる表情だ。渋い顔をしたゾッドは、続けて発せられた言葉に目を丸くする。
「だから私は、君と共にファントムゾーンへ入ろうと思ったのさ」
 驚いただろう、とジョー=エルが続ける。驚いたというものではない。
「あの日の議会決定に留意権を出せなかった事も、議会へ召集された君を止められなかった事も、私にとっては後悔の種だった。何より君を行かせてしまった事が」
「だからと言って……お前は馬鹿か?」
「馬鹿で構わんよ」
 穏やかな笑みがジョー=エルの顔に浮かぶ。
「どうか部下達を引かせてくれないか、ゾッド。今の私にはそれなりに権力も備わった。彼らを極刑に合わせる事は絶対にさせない。……頼む」
「……部下を引かせた所で、地球人達が崩壊を止めるとは思えん」
「何もしないよりは遥かにましだ」
 再び静寂が横たわる。今度のものは、外からの足音に打ち消された。
「何だ?」
「あれは……」
 地球兵達が運んで来たものを見て、ジョー=エルの顔色が変わる。壁を叩いて操作盤を出すと、彼は猛然とそこに何かを打ち込み始めた。
「どうかしたのか?」
「爆弾だ」
「……何?」
「彼らはどうしても私達を始末したいらしいな。全く、タワーのどこからあんな物を……!」
 不意にポッド全体が揺れた。内部にライトが灯り、運転席のドロイドも起き上がる。
「発射するぞ!しっかり捕まれ!」
「な」
 体中にGが掛かる。思わずよろけながら、ゾッドは背もたれを強く握った。一瞬の後、周囲の風景が遠ざかっていく。
 クリプトンの空へ、ミサイル顔負けの速さでポッドが飛び出した。



 球体をカルに託すべくブルースが手を伸ばすと、素早く銃口が向き直って来た。
「素顔を見られて戦闘意欲が失せでもしたか?流石は甘ったれのお坊ちゃまだぜ。挙句の果てにつまらねぇご口上に騙されやがって」
「口を慎め」
「お断りだぜ。もうあんたには呆れ果てた」
 銃を3人に向けたまま、ジャックは空いた片手で球体を手にした。小脇に抱え込まれた球体の光が、ヘルメットを赤紫に染め上げる。いつかどこかで見た光景が、ブルースの脳裏にちらりと過ぎった。
 それを確かめる暇も無く、ジャックは飛び退る。間合いがあれば銃は有利この上無い。ここで今動けるのは、ブルース1人だ。
「俺は諦めねぇぜ。え、ボス?俺から女房も子も取り上げたのは、どこのどいつだと思ってやがるんだ?」
「ジャック、ジニーの事は私が――」
「あんたにも責任がある。その通りだ!誰も守れねぇような奴の命令に、俺が従うとでも思ってやがるのか?」
 ヘルメットの奥でジャックは笑い続ける。その手が、遥か下方に落ちていく廃液の滝へと近付いた。
「こいつのスペアはねぇんだってな。じゃあ俺がこいつをぶん投げちまえば、誰も地殻安定器を操作出来なくなるって訳だ」
「待て!」
 カルが叫ぶ。心地良さそうにジャックは頭を仰け反らせた。ブルースは素早くベルトに手を当てた。
 指先に触れたのは発光弾では無かった。
――最後のバッタラン。
 ジャックが顔を戻した。
「もっと叫びなクリプトニアン。今すぐじゃねぇのが残念だが、お前の星とのお別れ時だ。泣きながらバイバイするこったな!」
 ジャックの視線が滝へと移る。銃口が僅かにずれた。その瞬間、ブルースはバッタランを構え――
「止めろ!」
 放つ寸前、傍らのカルが動き、ぶつかった。バッタランの軌跡が大きく変わる。鋭い刃を持った蝙蝠は、はたと振り返ったジャックの遥か上へと飛んだ。
「ハッ」
 赤く浮かび上がるヘルメットの中の顔が、確かに笑ったとブルースは思った。
「ハハハハ」
 がちん、とバッタランが天井のパイプに激突する。
「ヒィーハハハハハァ!」
 そして鋭い刃に断ち切られたパイプから、廃液の雨が迸った。
 悪魔のように哄笑するジャックに、向けて。
「ハ……!」
 黒を帯びた緑の液体が、黒いジャケットをたちまち濡らし、溶かしていく。異臭のする煙が痩せた体を包んだ。
 身悶えした拍子に、その手から球体と銃が飛ぶ。ブルースは球体に向けてワイヤーを放った。くるくると紐は巻き付き、遥か下方に流れる廃液から装置を救い出す。引き寄せて、カルに渡した。
「アアアアアアアア!!」
 甲高い絶叫が上がる。
「ジャック!」
 もう1人のブルースが叫ぶ。助けようと走り掛けたブルースの腕をカルが握った。
「……」
 振り返ったブルースに、彼は無言で首を振る。スコールよりも強く降り注ぐ廃液の雨には、ブルースの装備も役立たないのは明らかだった。
 既に赤へと変色しているヘルメットの隙間から、廃液が入り込んだのだろう。バイザーの間から灰色の煙が上がった。更なる絶叫を振り絞りながら、ジャックはヘルメットを捨て去る。苦悶を露わにジャケットを引き千切ると、白い紙片が舞った。
 トランプのカードだ。花弁のように散っていくカードに彩られながら、ジャックが絶叫する。
「殺してやる!」
 3人をねめつけるのは、充血した白目と緑の瞳。縮れて膨れ上がった髪もまた、鮮やかな緑に染まっている。紫と化した纏わり付くジャケットの間から、見える体は紙よりも白い。人体には有り得ぬ筈の色。
「てめぇら全員――殺してやる!」
 耳まで釣り上がった唇は、血よりも増して赤い紅。
 ブルースの背筋に寒気が走る。異形への恐怖からではない。

 自分はまた、あの男を誕生させてしまったのだ。

 殺してやる、殺してやると呟きながら、変貌したジャックは足を踏み出す。その拍子にバランスを崩したのか、はたまた濡れそぼった床が悪戯を施したのか。彼は廃液の滝へと大きく体を傾がせた。
 再び伸ばしたワイヤーは、細い悲鳴を救い上げる事なく、あっと言う間に滝の中へと消えて行った。
 立ち上がり、ブルースは廃液の滝の側へと歩む。手繰り寄せるワイヤーの軽さを、これ程忌々しく思ったことは無かった。数十メートル下まで流れていく滝は、もうジャックの痕跡すら留めていない。
 振り返ったブルースの足元に、カードが1枚、廃液を浴びずに残っていた。拾ったそれに描かれているのは、笑顔を浮かべた緑色の道化師。
――ジョーカー。
 声に出す勇気は無かった。
 カードを握り潰すと、ブルースは踵を返し、カルともう1人の己の所に歩いていった。

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