「作戦は……中断だ」
 銀色に光る携帯電話に、引いては地球人に向けて語り掛ける様子をブルースとカルは並んで見守った。2人から少し離れた位置では、銃を下げた地球兵達が整列している。
「プランBとして議会と折衝を開始する。Hチームはその場で待機。議会メンバーを大会議室へ連れて来るよう指示を出すまでだ。他の各ブロック内にいる者はジャベリンへと帰還、命令を待て」
 通信を切った後、再びヘルメットを被り顔を隠した“ブルース・ウェイン”がこちらを見やる。カルが微かに顎を引いた。ブルースは緊急脱出用ポッドが残していった痕跡へと顔を廻らせる――ジョー=エルが脱出先のキャンダーから戻って来れば、すぐに議会を解放すると言う話し合いは出来ていた。
 ジョー=エルがゾッドと共に逃れたと聞いて流石に驚いたが、しかし話を聞いて納得した。地球兵達はゾッドを始末するつもりだったのだから、むしろ命が助かって良かったと言うべきだろう。
 カルが連絡したキャンダーのゾー=エル邸は、酷く混乱していた。いきなり上空から降って来たポッドの中に、兄と危険人物が入っていたのだから無理もなかろう。修理代がどうこうと言っていたようだから、屋根の1つや2つは壊したのかもしれない。
 代わりにジョー=エルは至極冷静で、弟の移動装置を借りてゾッド共々すぐこちらへ向かうと答えた。出迎えはゾッドの部下にさせるという事で一致した。彼らも今頃は屋上へと出向いている筈だ。
「我々もこれから大会議室へ赴く。…そちらはどうする?」
 その問いに、カルとブルースはしばし視線を合わせた。軽く顎をしゃくると、頷いてからカルが答える。
「君達を送ってから父の出迎えに行く。折衝が始まったら家に戻るつもりだ」
「分かった。ところで」
 黒のバイザー越しでも、彼がこちらを見た事は分かった。
「お前の名は?何故エル家にいたんだ?クリプトニアンには見えない格好だが……特殊部隊か何か?」
「……」
 ブルースは周囲からの視線を痛いほど意識しながら、肩を竦めた。
「話せば……非常に長くなる。いつかもっと時間が出来た折にでも話そう」
「…奇妙な男だ」
――全くだ。
 心中でひっそりとブルースは自嘲した。



 最後に見た時は中天高く浮かんでいた赤い太陽も、今は随分と傾いている。紅蓮色に染まり始めた白い街をブルースは見つめた。
多くの血を吸い上げた星だ。地球ひとつばかりではなく、太陽系の様々な星が彼らによって滅ぼされた。そして星の中を固め、大地を覆って生きている。傲慢も虚構も、両手に余るだけ抱え込んでいるだろう。
 だが、それでも、この星では命が確かに息衝いている。
「バットマン」
 ジョー=エルの移動装置と連絡を取っていたカルが、いつの間にか横に立っていた。大きな手が静かに腕へと触れる。ゾッドの部下達は2人とかなり離れた場所で、着地範囲を整備していた。
「お父上は?」
「もうすぐ着くそうだ。元気な声だったよ」
 将軍の方が疲れてそうだった、とカルは少し笑う。ブルースも思わず唇を綻ばせた。確かにあの神経質そうな男とジョー=エルでは分が悪かろう。
「彼らが着けば一先ず終わりだな」
「いいや」
 夕陽を見つめながらカルが首を横に振る。
「終わる事なんて無いだろう。始まりだ。僕らクリプトニアンと、地球人の」
「…そうだな」
 最悪の事態は回避出来た。だがこれからは分からない。議会が地球人に対し何らかの補償をするのか、はたまた刑罰を科すのか。更にそれに地球人はどう答えるのか――未知数だ。
 そして収まった時、2つの惑星の間に、融和は生まれるのか。
「ジョー=エルも君も、忙しくなりそうだ」
「僕も?」
「あの男の考えを動かしたのは君だ。多少のフォローや責任は必要だぞ?」
「…早めに論文を書いておけば良かった」
 彼らしいぼやきにブルースは苦笑し、励ますように背中を軽く叩いた。一陣の夕凪が、ケープと白い長衣の裾を揺らしていく。
「まあ君が表立って出て行く事は無いだろうから、安心して勉学に集中してくれ」
「そうしよう」
 ふとカルが視線を落とした。
「…だからと言って、君に何か恩を返せる訳では無いが……」
「一つ忘れているだろう」
「え?」
 人差し指をあえて軽くブルースは振ってみせた。
「私が元の世界に帰る方法だ。ジョー=エルは忙しくなるだろうからな。君が手伝ってくれなければ、一体帰還がいつになるのか……」
「ああ……」
 どこか疲れたような声音でカルは頷いた。その頬は赤い太陽の色に染まっている。
「そうだったな、君は…帰らなければならないんだな」
「忘れていたのか?」
 真っ直ぐブルースに視線を投げかけながら、カルが応じる。
「ああ」
「……それは」
 酷いな、と言い返そうとしたブルースを遮り、カルは更に言葉を紡いだ。
「すっかり失念していた。帰らなければ良いのにと思っていたから」
 ブルースは一瞬、返答に戸惑った。引っ込めようとした手を、カルの手が追おうとするように揺らぐ。
「バットマン、君は」
「ジョー=エルだ」
 西の空に滲んだ一点をブルースは指す。カルが口を噤み、顔を振り仰がせた。
 着地する銀色の円盤に感謝しながら、ブルースはカルより早く、そちらへ向けて歩を進める。動きと風に煽られて、ケープが2人を嘲るように舞い上がった。



『非常に危険な事態ではあったが、市民に直接的な被害は無かった。また彼らの動機にも情状酌量の余地は十分にあり、我らは皆この事について深く反省せねばならない』
 ジョー=エルはそう語ったという。
 議会はスムーズにとは言えなかったが、それでも円滑に進んだ。ゾッドやその部下、そして地球人達は、極刑という事にはならなかった。そもそも地球人の数が、極刑に処すには多過ぎる。それでも具体的な内容が決まったのは、ゾッドよりも早かった。
 地球人への補償としては、議会はクリプトンから離れた、しかし同じ赤い太陽の下にある小さな星を渡す、という決定を下した。また開発用にクリプトンの技術提供も行うと。ただ彼らが惑星崩壊を行おうとした一件から、今後200年間、技術提供以外の交流を断絶するとも。
「体の良い厄介払いだな」
 そう言って、この世界のブルースは皮肉気に笑った。だがその声には、どこか安堵したような色も浮かんでいる。確かに、自治と土地を勝ち取った意義は大きい。
「だがそれでも、新たな故郷を得たのは事実だろう」
「確かに。…掛けてくれ」
 自分は椅子に座りながら、前に置かれたソファを彼は示した。ブルースは遠慮なく腰を下ろす。相当古びているらしく、ソファは衝撃にぎしりと激しく沈み込んだ。
「それで、話とは?」
「まずはジョー……ジャックの一件だ」
 あの後、ジョー=エルとカルに頼んで廃液を調査して貰ったのだ。地下の処理場を通ってから、廃液は外へと流れるらしい。処理場だけではなく周囲の調査可能な範囲にまで調べて回った結果は、今日ブルースに届いたばかりである。
「遺体は見付からなかった」
「そうか……」
 黒いヘルメットが俯く。彼にとってジャックは数年来の部下だ。割り切れない感情を抱いてもいるだろう。
「ただ、これは私の推論だが」
 ブルースは上体を乗り出した。
「廃液の成分と流れの速さから考えれば、生存している確率もゼロでは無い」
「生きていると?あの高さから、あの滝に落ちて?」
「あくまで可能性だ」
 ヘルメットの奥の顔が、複雑に歪むように見えた。憎悪を持ちながら落ちていった男が、そしてかつての部下が生きていると聞けば、ブルースもそんな顔をするだろう。
「部下には気を付けてやれ」
「言われなくとも分かっている」
「だろうな。だが、くれぐれも油断するな」
 この世界でもディックやティム、そしてジェイソンが生きているかは分からない。だが、自分が体験したあの痛みを、死を、こちら側でも味わわせるような事だけは避けたかった。だからこそブルースは今日、ここへ訪れたのだ。自らに告げる為に。
「もう1つ」
 マスクに手をやりながら、ブルースは言葉を紡ぐ。
「私の素性についてだ」
 力を入れれば、ガスを吹き出す事も無くあっさりとマスクは脱げていく。露わになった顔を眼前の男は食い入るように見つめていた。
「馬鹿な」
「信じられないのも無理は無い」
 言い終わるより早くヘルメットが外された。眉を寄せたその顔に向かってブルースは安心させるように頷く。
「私はこの世界の住人ではなく、…平行世界と言うべきだろうな。そこから事故で飛ばされたんだ」
「どの星からだ?まさか」
 息を整える為か、1度口が噤まれる。ああ自分はこのような顔をするのかと、一種新鮮さを覚えながらブルースは答えた。
「地球だ。私の世界では、地球ではなくクリプトンが滅びている。生き残った者も数えるには片手で十分な程だ」
「…そんな違いがあるとはな」
 首を振って目前のブルースは椅子に深く座り直した。
「ここが違うあれが違うと言い立てる必要は無かろう。だが1つだけ言わせてくれ」
 同じ色をした瞳が同じ顔を映し合う。第三者が見れば、間に鏡が置かれているとでも思うかもしれない。小さく息を吸ってから、ブルースは言った。
「私は多くの近しい者達を傷付け、失って来た。彼らがこちらの世界で同じように生きているかは分からない。…それでも」
 狂った道化師によって殺された少年の重みが、合わせた手に甦って来る。仮面の下に隠していた、好奇心で満ち溢れた瞳は、もう決してこちらを見返しはしないのだ。
「十分過ぎる程の警戒を。君なら知っているだろう。亡くした者は帰って来ないんだ」
「――分かった」
 自分と同じ顔が深く頷く。それに頷き返してから、ブルースは立ち上がった。
「特に少年兵には気を付ける事だ。自分より若い命を散らすのは真っ平だろう」
「当たり前だ。…ひとつ聞きたい」
「何だ?」
 マスクを被る前に振り向けば、こちら側のブルースもまた立ち上がっていた。
「お前も両親を失ったのか?」
「……ああ」
 手の中のマスクを引っ張り顔を覆うと、ドアへと歩み寄る。
「だから私はこの姿なんだ」



 エル家に入ったブルースを出迎えたのは、金色に揺れる髪の持ち主だった。
「お帰りなさい」
 ラーラ=エルはそう言ってブルースに近付く。大股で3歩分ほどの距離を置いて、カルの母はじっとブルースを見つめた。大きな瞳は彼ととても良く似ている。瞳ばかりでなく、目の形もだ。
「…貴女こそ、今日中にお帰りとは知らなかった」
「本当はもっと早くに帰る予定でした」
「長逗留して申し訳ない。そうと知っていれば早目に移動を――」
 ブルースの言を遮り、ラーラは首を振った。
「この家を出て行く必要はありません。貴方がして下さった事は、夫と息子から聞きました。…彼らの命を助けてくれてありがとう」
 涼しげな声音が心地良く耳を揺らす。一歩引いて彼女は手を奥へと差し伸べた。
「ようこそバットマン。貴方を歓迎します」
「……」
 一歩だけ足を進めれば、びくりとラーラは身を震わせた。矢張り怯えてはいるのだろう。ブルースは僅かに躊躇った後、マスクを外して彼女に向き直った。
「ありがとう。…ご厄介になります、ミセス・エル」
「――下に顔があったのですね」
 その言葉と驚いた様子に、ブルースは笑いの衝動を耐えねばならなかった。

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