時間は淡々と過ぎていった。
地球人にも増して糾弾の激しかったゾッドを、ジョー=エルは身を挺して庇った。数日間続いた会議の果てに、ゾッドは永久の幽閉刑から免れたのだ。ただし全権を議会に返し、これから後30年に渡る禁固刑を言い渡されたが――ファントムゾーンでの幽閉に比べれば大分刑は軽い。
長らく後回しにされ続けていたブルースの処遇も、今まで通りジョー=エルに任される事が決定した。
「君の帰還がなった後は」
ブルースの前にカップを置きながら、カルが説明を続ける。
「ファントムゾーンの技術も凍結されるそうだ。人道的な面での問題が指摘された、と父は言っていた」
「随分と張り切ったようだな」
「あんな父の姿は初めて見るよ」
小さく笑ってからカルはブルースの横に座る。窓の向こうに広がるクリプトンの空は、相変わらず澄み切っていた。
「軽食でございます」
「ありがとう、ケレックス」
電子頭脳を新しいボディに入れ替えたドロイドが、ふよふよと浮きながら2人の前に皿を並べていく。変わらぬ動きと声に安堵しながら、ブルースが礼を言うと、勿体無いお言葉でございますと頭を下げられた。
今日はラーラもいないから、家はジャベリンが空を横切った日と殆ど違わない。ブルースの体を包むのもクリプトンの黒い長衣だ。違うのは、横に座っている男とブルースが、その日よりもずっと親密だという事くらいか。
「親友だったのだろう?将軍とお父上は」
「らしいな。僕が産まれる前の話だから詳しくないが、仲は良かったと」
そう言ってカルはカップに口を付ける。ここ数日ですっかり慣れた、クリプトン独特の炭酸飲料を、ブルースも一口味わった。
「何でも、将軍の罷免と処分に関する議会が行われた時、父は反対票を投じる予定だったらしい。将軍は人望も厚い方だったから、父が反対を表明したら多少流れは変わっていたかもしれないな」
「だが彼は放逐された」
「父がその議会に欠席したんだ」
思わずブルースは眉をひそめた。
「あの、ジョー=エルが?」
彼らしくもない。言外の批判を受けて取ったのか、カルもゆっくりと首を振る。縦に。
「全くだ。何か急な予定が入ったのかもしれないが、それでも父上らしくない判断だったと思う」
だからこそ、あれ程に責任を感じていたのだろうか。いつぞやの思い詰めたようなジョー=エルの表情が、ブルースの脳裏にちらりと過ぎった。
「昔の話は止めにしよう」
明るい声でカルが言った。空色の瞳がブルースに向き直る。
「それよりも君に話さねばならない事がある」
「何だ?」
「件の帰還方法だが」
奥のエレベーターをカルは示した。
「ここの修復作業を待たなくて済む。父がタワー内での研究許可を取ってくれた」
「それは有難い」
実験室も研究室も、先日の爆発事故に加えて地球軍の乱入でぼろぼろになっていたのだ。幸いながらと言うべきか、資料はジャベリンに全て搬入されて無事だったが、装置や計器類は多くが壊され破損していた。
「もう1つ――地球人の例の船」
「ジャベリン?」
「そう、そこに搭載されてあるワープ装置の部品が流用出来そうなんだ。利用が可能になれば1週間以内に装置が完成する」
膝から力が抜けそうになった。ジョー=エルの忙しさや事件を考えれば、1週間以内の帰還は無理だと思っていたのだ。だからこそ余計に安堵は深かった。
「…元の世界が恋しい?」
声に顔を上げれば、思ったよりも近くにカルの顔があった。随分とクラークに似てきた表情が、今は以前の冷たさを宿している。
だけども両目に宿るのは、激しく渦巻く青い炎だ。
「当然だろう」
微笑を作りながらブルースは答える。
「元の世界でバットマンを…私を必要としている人間が、まだいるんだ。なるべく急いで戻らなければ」
「彼らが君を必要としているかじゃない。君が彼らを恋しいと思っているかを聞きたいんだ」
「それは」
ウェイン邸で待っているだろうアルフレッドにディック、ティム、バーバラ。JLの仲間達。そしてあの、赤いケープの――
「……恋しいさ」
言葉はするりと喉を突いて出た。
刹那、傷付いたような色がカルの顔に浮かぶ。だがそれはすぐに通り過ぎ、代わっていつもの、ブルースの見慣れて来た表情が戻った。
「すまない。当たり前の事を聞いてしまったな」
「いや、気にしないでくれ」
「あと1つだけ教えてくれないか」
カップが音を立てて机に置かれる。
「君がまだ本名を教えてくれない原因が、そこにあるかどうか」
「……教えていなかったか?」
確かに伸ばし伸ばしにはして来た。が、特別な事情があった訳ではない。教えようとする度に何かしらの邪魔が入った、それだけの事だ。
「深い原因など無いさ。気を悪くさせたらすまなかった」
今でもすぐに教えられる。そう答えようとした時、奥でエレベーターの稼動音が聞こえた。
「母だな」
そう、こうやってタイミング悪く第三者が入って来るのだ。
「すぐに済む。カル、私の名前は――」
言い募ろうとした唇に、押し当てられる指の感触。
ブルースが見上げると、カルは頭を振った。
「もっと時間のある折に教えて欲しい。…重要な事態はそれなりに時間を掛けるべきだ。そうだろう?」
「大した名前では無い」
「僕にとっては違う」
指が離れた。白い長衣がブルースの眼前で翻る。
「お帰りなさい母上」
「ただいま、カル」
近付いて来るやり取りを耳にしながら、ブルースは己の唇にそっと触れた。
「体を壊さないのか?」
「安心したまえ。そこの機械に入れば数分で体調が回復する」
「…便利な星だな」
タワー内に設けられた研究室で、ブルースはジョー=エルと相対していた。夜半過ぎても家に帰ろうとしない彼の様子に、少しならず罪悪感も刺激された。
「迎えに来てくれたと言うのに、すまないな。今夜も遅くなりそうだ」
「…ジョー=エル、少しは休んでくれ。私は別に、帰還が遅れようとも」
「君とて早く元の世界に帰りたいだろう?」
「貴方を忙しくさせるのは申し訳無い」
ようやくジョー=エルは機械を調整している手を止め、ブルースに振り返った。
「バットマン、これ位やらせてくれ。君は息子の命ばかりか、私や惑星全体の命まで救ったのだぞ?だが君に出来る礼はこれ位なんだ」
「私は当然の事をしたまでだ」
「そうは思わん」
再びジョー=エルの視線が機械に戻っていく。
「ゾッド将軍はどうしている?」
「まだ自邸で刑の執行を待っている。禁固者用の牢が使われるのは久し振りでな。議会も手間取っているようだ」
「ファントムゾーンが凍結されるとも聞いた」
「ああ」
調整が終わったのか、今度はジョー=エルが横のプレートを手に取った。
「……彼と貴方の間にあった事を、カルから聞いた」
「…古い話を」
「彼は不振がっていた。貴方が欠席するなど、信じられないと。…私もそう思う」
澄んだ音を立ててプレートが置かれる。ゆっくりとジョー=エルは振り返り、ちらりと笑った。
「聞きたいかね?君が好奇心を見せるなど珍しい」
「そう言う訳では」
否定しながらも、しかしブルースはその事を半ば自覚していた。
野次馬根性かもしれないが、ブルースはゾッド放逐の発端を聞いてみたかった。そこにあった裏を。ひとつでも分からない事があると気になってしょうがないのは、探偵と呼ばれる思考回路の故だろうか。
微笑を消さぬまま、ジョー=エルはブルースから視線を外す。
――駄目か。
「知り合ったのはアカデミーの頃だった」
だが頑健そうな背中を向けたまま、穏やかな声がジョー=エルから発せられた。
「彼は士官学校、私は科学者養成アカデミー。立場も信条も異なったが、異なり過ぎて仕舞いには気が合ってね。随分と親しく付き合っていた」
本当の馴れ初めから語ってくれるつもりらしい。相槌も差し挟まず、ブルースは黙って全身を耳にする。
「例の議会が行われたのは、私とラーラとの婚約が決まって間も無い頃だった。吊るし上げや、最悪そのまま軟禁という事は十分考えられた。…欠席しろ、いっそ逃げろと、私は議会開始前に彼へと詰め寄った」
「貴方が……」
「何分まだ青かった頃でね」
自嘲する気配が背中から伝わって来る。硝子の擦れ合う音をさせながら、ジョー=エルは2つのビーカーの液体を混ぜ合わせた。
「議会の追及の執拗さも、彼の軍人としての誇りも、何一つ理解出来ていなかったのだろう。ただ彼を生かそうと必死で――太陽系への流刑が決まる場合は、私も共に行くと言い張った」
「先日も、議会でそう言ったと聞いた」
「ああ。ようやく胸がすっきりした。だが数十年前の彼は激怒したよ」
「だろうな」
とにかく響くあの声を、ブルースの鼓膜はしっかりと覚えている。あの声でジョー=エルに対して怒鳴ったのだろう。軍人としての矜持が傷付いたに違いあるまいとブルースは思ったが、しかしそれをジョー=エルの次の言葉が否定する。
「お前の一族は、妻となる女性はどうするのだと」
「……」
「私がお前無しでは生きていけないとでも思っているのか、とも言われた。尤もな話だ」
「結局それで……貴方は議会に欠席を?」
「そうは引けない。行って反対票を投じると言い張ったよ」
ジョー=エルの太い指が、ふとビーカーから離れた。うなじからやや上の後頭部を、何かを確認するかのように叩く。
「宣言して、さあ行くぞとドアに向いた瞬間、ここを殴られた」
愉快そうにくぐもった笑い声が響く。
「次に気付いたのは3日後、医療室のベッドの上だ。ゾッドはもう出立する寸前で、私は――私は」
白髪の間を縫って指が落ちた。体に沿って下げられた手は、どこか糸の切れた人形をブルースに連想させる。
「私はそうして、親友を失っていた」
「…貴方の所為では無い、ジョー=エル」
「いいや」
もう片方の手に持っていたビーカーが、鈍い音を立てて置かれる。
「もっとやり方があった筈だ。私の独善と青さが、ゾッドを益々頑なにさせたのだから」
「変えられない事もこの世には存在するんだ」
丸められた背中に、躊躇いながらもブルースは手を触れさせた。服越しに伝わる体温は、クラークと似通って温かい。
「先程、彼を生かしたい一心だったと言ったが、あれは間違いだ」
「間違いなど」
「いいや。私はただ、彼を失いたくないだけだったんだ」
厚い掌が、寄せられた眉間に置かれる。白い髪を獅子の鬣のように揺らしながら、彼は歯の隙間から声を絞り出した。
「その身勝手さこそが、私の長年の悔いだった。今もまだ、消えてはいないが……」
「埋める為の時間はある」
「…ああ」
ようやくまた、ジョー=エルが微笑を覗かせる。
「すまんな、昔話はどうも苦手だよ」
「いや、こちらこそ……すまない」
「気にしないでくれ」
ブルースの腕をジョー=エルは強めに叩いた。微かな息を吐いて手を下ろしたブルースを、彼は言葉で追った。
「カルの事だが」
「彼が何か?」
「君を慕っている」
ぎくりと一瞬、身を強張らせかけたブルースに、何事も無さそうな顔でジョー=エルは続ける。
「昔から年の近い友人が少なくてな。あれだけ慕う相手は君が初めてだろう」
「…光栄だな」
身の緊張を解いてブルースは頷いた。何ら問題のない言葉を、ひとつひとつ意識する自分に恥じ入りながら。
「迷惑では?」
「まさか。親しく出来て有難いと思っている」
「…ならば良いが、何か不都合な事があったら教えてくれ」
果たしてどこまで分かっているのか。感情も考えも読み取らせぬ無表情のまま、ジョー=エルはブルースにそう言った。
そしてそれから4日後。
転送装置が完成した。